SWEET TWEET
無銘
第1話 私はツイッターがなければ死んでしまう
何個もかけたアラームのうちの最後の一個がけたたましい音を立てて鳴り出して、小鳥の囀りをかき消した。私は緩慢な動作でアラームを止めて、スマホを手に収めたままで身体をベッドから起こした。
しかし、そこから立ち上がるほどの気力は湧かなくて、眠りの名残で霞んだ視界でツイッターを開いた。大谷がまたホームランを打っただとか、名前も知らないYouTuberが結婚を発表しただとか、興味のない情報の羅列が液晶の上を滑っていく。それらを一通り見終わった頃には、もうそろそろ登校の準備に取り掛からないといけないくらいの時間になっていた。
「なんで起きなきゃいけないんだろう」
私は適当にそんなツイートをしてベッドから立ち上がった。
歯を磨いて顔を洗ってご飯を食べて髪を整えて先生にバレない程度の薄い化粧をして制服を着て。とても朝の短時間じゃこなせそうにないほどに多いタスクも、身体に刻まれたルーティンに従えば自然と時間ギリギリには終わっている。
私は駆け足で廊下から玄関へと向かう。その途中でお母さんとすれ違う。
「歌恋、これお弁当。ていうか、あんた早く行かないとまた遅刻するわよ。もうお母さん三者面談で恥ずかしい思いするのは嫌だからね」
だから急いでるんじゃん。観たらわかるでしょ。とは思ったけれど口には出さない。
「お弁当ありがとー。遅刻は気をつけまーす」
そんな間伸びした返事で適当にやり過ごして、ローファーに足を突っ込んでドアを開けた。
外の空気は梅雨特有の湿度を伴った暖かさで、不快な風が頬に触れた。それが沈んだ気分を逆撫でした。私は逃げるようにイヤホンを耳に入れ、いつもかけているプレイリストを流した。それでも音楽は鼓膜の表面を撫でるだけで気分を和らげてはくれなかった。
なんでわざわざ気分悪くなるようなこと言うのかな。ウザがられないかな、とか考えないのかな。
家から五分ほどの駅までの道を歩く間もまだ先ほどのことを引きずってしまう。多分、本音を言うことを我慢してる分滞留してしまうのだ。マイナス思考というのは。
けれど自分がお母さんに対して何も言えない立場であることはわかっている。お母さんの言うことは口うるさいけれどどれも正論ではあって、働きながら家事をしてお弁当まで作ってくれているお母さんに何かを言い返すことは正しいことではないとわかっている。
「お母さんってうるさい。自分がウザがられてるとか自分が子供の時は色々言われて嫌だったなとか考えたりしないのかな。大人になると忘れちゃうものなのかな」
わかっているから、これくらいは許してほしい。どうせほとんど誰にもみられない文章の羅列を電子の海に吐き出すくらいは許されてほしい。これからもいい娘でいるから。
私はツイートを終えてスマホをポケットに突っ込んで歩みを進めた。衣料店を通り抜けて、黄色に塗られた長いスロープを渡って駅の構内へと辿り着いた。
構内には人が溢れていて、毎朝それを見るたびに憂鬱な気分になる。私は重い足取りで改札に向かって定期をかざして、人混みの一員として歩き出した。
ホームに降りると電車がちょうど到着していた。私は目の前の車両に乗り込んだ。テレビで観るような過激な通勤ラッシュではないけれど、ちょうど不快感を感じるくらいに車内は混雑していた。私は周囲に気を遣いながらスマホを取り出し、再びツイッターを開いた。
起きてすぐにしたツイートにも先ほどのツイートにもいいねはついていなかった。当たり前といえば当たり前だ。だって私は元々ツイッターを、誰かと繋がって反応をもらうためじゃなく、日常のマイナスな感情を吐露するための手段として始めたから。今ではそれだけではなくなっているけれど、感情の吐露という本質自体は始めた頃からずっと変わっていない。だから、フォローしている人はいないし、フォロワーもたった一人しかいない。
その一人は「何者」という名前の、得体の知れないアカウントだ。スパムやエロ垢ならすぐにブロックするのだけれど、そういった感じではなくただの見る専のアカウントといった感じで特に危害を加えてくるわけではないし、私が適当に吐き出した感情が誰かの目に留まったという事実が少し愉快だったので、放置したままにしている。
恐らく本来はこういう使い方をするのなら鍵をかけて完全に誰の目にもつかないようにしたほうがいいのだろうけれど、それだと感情が狭い場所で滞留してゴミ捨て場のようにどんどんと積み上がっていくような気がして、それよりも開けた電子の海に自分の感情が呑み込まれていくような今の感覚が私は気に入っていた。それに反応こそないものの、他者のタイムラインに表示された回数を見ることはできて、大抵それは1回だったけれど、その数字をみると自分の気持ちは無かったことになったわけではなく確かに存在していたのだと感じられてなんだか安心することができた。その1回は恐らく「何者」さんで、例えスワイプされて飛ばされているだけだとしても、誰かの液晶に足跡を残したというささやかな事実だけで私には十分だった。人の匂いのしない誰かにだけ、ひっそりと届くくらいでちょうどよかった。
「暑い」
適当にそんなツイートをして、少しして学校の最寄りへと到着した。同じ制服を着た人たちが降りていく。私もそれに倣って外へと飛び出した。
外へ出ると相変わらずじめっとした空気が全身を包んだ。けれど電車の中と比べるとそんな空気でも少し爽やかに感じた。
学校は駅から目と鼻の先の距離にある。だから人の流れに沿って改札を出て歩いていたらあっという間に学校で、靴を履き替え階段と廊下を歩くと、すぐに教室へとたどり着いた。
ドアを開けると、教室では様々な生徒が盛んに動き回り言葉を交わしている様子が見てとれた。私は喧騒から耳を守ってくれたイヤホンと流れていたラブソングに感謝をしながら教室を歩いた。そして教室の最前列の一番左という当たりともハズレとも言い難いどちらかというと若干ハズレの位置にある自分の席に座った。すると程なくしていつもみたいに彼女が私の元へとやってきた。
「おはよ、歌恋」
彼女の声はイヤホンも音楽も通り越して、鼓膜の奥底へと届いた。私はイヤホンを外しながら答えた。
「おはよう理香。今日もだるそうだね」
「歌恋こそ。みんな死んじゃえって顔してるよ」
朝から人の顔を失礼すぎる表現で喩えたのは、二宮理香。私の唯一の友人だ。まあ彼女にとっても私が唯一の友人なのだけれど。
彼女は、整った容姿とスタイルで普通にしていれば人並み以上の学校生活が送れそうなものなのに、病的な面倒くさがり屋でしかもだるそうな雰囲気を隠そうともしないので、周囲から怖がられ敬遠され孤立している。本人はそれを気にも留めていないし、それどころかその状況を気に入っている節すらあるのだけれど、側から見ていると勿体無いなと思う。
しかも、それだけ面倒くさがり屋のくせに、唯一の友人である私には毎日わざわざ朝の挨拶をしにくるような律儀さは持ち合わせているから掴みどころがない。挨拶の後には欠かさず嫌味も言ってくるから純粋な好意が理由での行動でもなさそうだし、謎だ。
「失礼すぎること言うのやめてよね。朝から萎えるわ。萎えたからちょっとトイレ行ってくるわ」
「萎えたらなんでトイレ行くんだよ」
理香は鋭い突っ込みこそ入れたものの、流れでついてくるようなことはなくその場で片手をポケットに突っ込んだまま突っ立って、もう片一方の手をひらひらと振った。私たちはお互いに群れるのが嫌いで、そういった共通項でクラスの端っこでなし崩し的に始まった交友関係だから、ベタベタ一緒にトイレに行ったりはしない。むしろ、そういった女子を小馬鹿にする側だ。そういう価値観が合う相手がお互いにお互いしかいないから、群れるのが嫌いな割に関係が続いているし理香もなんだかんだで絡んでくるのだと思う。
そんな分析をしながら、教室を出て廊下を歩いて程なくして、トイレにたどり着いた。私は、洗面台の周りでダラダラと会話をする女子を鬱陶しく思いながら、その間を抜けて個室へと入った。
そしてスマホを取り出しツイッターを開いた。
『今日もかわいすぎてむり。心臓がもたない』
そんなことを呟いた。
さっきから心臓の鼓動はずっと早いままだった。吐く息は熱くて苦しかった。どこかに吐き出さないと、とてもじゃないけれど耐えられそうにないくらいの感情の質量だった。得体の知れない、無闇に熱くて重い感情だった。それを電子の海に吐き出すことでやっと私は正常に呼吸ができるようになった。深呼吸するように、大きく息を吸うと、女子トイレの澱んだ空気が肺に充満した。それでも息苦しさは随分とマシになった。
理香と出会ってから私の毎日はこれの繰り返しだった。
油断すると、自分の感情に押しつぶされてどうにかなってしまいそうだった。抱えきれなくなってうっかり何かを口走って理香との関係を壊してしまいそうだった。その何かは、私たちの関係とは相容れないくらいに甘くて、きっとその甘さは理香の望まないものだった。だから、行くあてのない私の感情を受け止めてくれる場所はツイッターの他になかった。ツイッターで感情を吐き出すことで、私は冷笑的で狡くて性格の悪い本来の私として理香の隣に立っていられた。
だから、私はツイッターがなければ死んでしまう。
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