罪の赦し

山本 右

独白【1】

はじめは、何が起こったのか全くわかりませんでした。横たわる彼を、一時間ほど眺めていた気がします。猫が餌欲しさに頭を擦り付けてきたときに、ようやく現実の世界に戻ってきました。


彼と同棲を始めたのは半年ほど前でしょうか。そして、彼の気性が荒くなったのも、同棲を始めた頃からでした。彼は私に対して日常的に暴力を振るうようになりました。暴力を振るわれること自体は私も出来が悪い女なので仕方がないのですが、傷があると周囲の方達から怪訝な目を向けられてずいぶんと困りました。


実は彼の気性の荒さは、同棲する前から何となく勘づいていました。一見穏やかに見えても、彼の目の奥に暗い影が横切るのを、幾度となく見た気がします。それでも同棲を始めたのは、彼を想う気持ちが強かったからでしょうか。いえ、亡骸となった彼を見ても心が痛まないということは、彼への愛はそもそもなかったのかもしれません。何となく彼と過ごす時間が長くなり、そして何となくただ一緒に住むようになった。ただ、それだけなのです。


しかし、この猫はそうではないと確信しています。『ココ』と名付けた猫を飼い始めたのは、彼との同棲生活が始まってすぐの頃でした。彼が仕事の帰り、いつも通る公園で弱っている子猫を拾ってきました。彼は癇癪を起こすと自分を制御できない弱い人でしたが、そうでないときは優しい人でした。私はこれまで生き物を飼ったことはありませんでした。母が動物嫌いだったこともありますが、そもそも私のような人間に他の命を世話することなど不可能だと思っていたのです。


最初は餌を与えて力を付けさせ、元気になればまた外に放ってあげようと考えていました。しかし、餌を与えただけで目一杯の愛を返してくれるココの姿を見ているうちに、長くそばに居たいと思うようになりました。彼とは違い、ココのことは愛していると断言できます。


そもそも、このような事態になったのもココへの愛が原因でした。今日の彼は帰ってくるなり明らかに機嫌が悪そうでした。仕事でミスでもしたのか、何が理由かは知りませんし興味もありませんが、曇った目をしていました。


こういう時、彼は決まって酒を飲みます。そして、酔いが回ってくると、私の不出来な部分を見つけてはなじり、最後には暴力を振るうのでした。私は殴られ、蹴られているとき、彼の気持ちが少しでも穏やかになればと思って怯えた演技をしますが、実は案外平気でした。もちろん身体が痛むのは不快ですが、私のような女に手を出すことでしか自分を保てない彼を見ると怯えや恐怖よりも哀れな気持ちが勝るのです。


しかし、今日は特別な日でした。ココはまだ子猫で、目に映るもの全てに興味津津のようでした。彼が私に暴力を振るっているのを見て、遊んでいるのだと勘違いしたのかもしれません。ココは彼の足首を甘噛みしたのです。それは悪意や敵意から来るものではなく、ただ遊びに混ぜてほしかっただけだと思います。しかし、彼はそうは受け取りませんでした。彼は足を払ってココを吹っ飛ばし、さらに追撃を与えようとしたのです。このままではココが殺される。本気でそう思いました。私は、ほとんど無意識のうちに、キッチンの包丁を手に取りました。そして、一切の躊躇なく彼の身体に飛び込んだのです。


気がつくと彼は死んでいました。口に入った彼の血が何とも不快で、そしてココが無事だったことに安堵しました。久しぶりに激しく身体を動かしたので、気怠さでしばらく放心状態でしたが、ようやく頭が動き始めました。

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