第81話 白魔女の、心がどこかへ行った、ある夜
「名残惜しいですけど、そろそろ帰らないと、ですよね」
アリシアが残念そうに笑った。その言葉で私も、この一瞬がもっと大事で簡単に失われるものだということを思い出す。
「もう一か所だけ、もしかしたらまた、無駄になっちゃうかもしれませんけど……行ってみたいところが」
「ええ、私は構いませんよ! 行きましょう行きましょう!」
アリシアはまだ終わりじゃなかったことが嬉しいのか、勢い良く立ち上がった。
私たちは箒を飛ばして、海洋都市から少しだけ離れた。海岸線は入り組んでおり、都市の両側にも岬があった。都市から海を見て左側の岬に、私たちは降り立つ。
岬のてっぺんも山のようになっていて木々が生い茂っており、街頭もないので辺りは暗く、静かだった。
「この辺りにいるはず……」
少しだけ木々の少ない生い茂ったところで、私は辺りを見回した。
しかし、特に目ぼしいものはない。
……やっぱりいないか。ダメ元だったし。
この世界には、
海で育ち、見た目は私たちの知るいたって普通の海月だが、指でつまめるほど大きくなると海から出てきて、空を飛ぶようになる。この辺りに群れで現れることもあるらしく、照明で照らすと幻想的でとても綺麗らしい。
明かりは魔法でなんとかできるし、一匹でもいれば捕まえて瓶にでも入れて持って帰ろうかと思っていたが、現れるかどうかは運次第。
少しだけ進んで、暗く恐ろしい夜の海を高くから覗いたが、特に浮遊してくるものは無さそうだった。
「ご、ごめんなさい、アリシア。やっぱり当てが外れたみたいで」
アリシアは……海洋都市の方を見ていた。
時が止まったようにじっと遠くを見るアリシアの横顔を見て、私は思わず言葉を飲み込んだ。
「お姉さま、綺麗ですね」
「……そうですね」
海洋都市はここと違って、いくつもの魔石の光で宝石を散りばめたようにオレンジ色に光っている。
真っ暗になった海にもその光が反射して、細い光をいくつも水面に映していた。
「これを見せに来てくれたんですね」
「い、いえ私は……目的は違ったんですけど」
「いいんです、綺麗だから」
「よかった」
この子はいつも、こうやって私がしくじって落ち込んでも、全然別の視点から、それは無駄じゃない、もっと楽しいことがあると、教えてくれる。夕食のときだってそうだった。アリシアと関わっているだけで、はっとさせられることが沢山ある。
「お姉さま、私……」
アリシアは、まだずっと夜景を見たままだ。
「王城にいるときも、こうして毎晩、遠くの明かりを眺めていたんです」
王城を外から見たことはある。遠くからだが、かなりの高さで王都の中心にそびえ立っていた。夜に外を見れば、王都中の明かりを見回せたことだろう。
「それで毎日思ってたんです。あの建物に灯る光の一つ一つに、それぞれの物語があって。みんな今この瞬間も、何かを考えて、何かをしているんです。その数は星みたいに沢山あって、数えきれないのに、確かに人々が暮らしているんですよね」
「……ええ」
「私、それを考えると……寂しかったんです。あんなにいっぱい光があるのに、私はその物語のたった一つだって知ることができない。無力感っていうか……世界はおっきくて、私だけ一人ぼっちな気がして。暗いところに一人だけ置いていかれた気分でした。毎晩そうでした」
「アリシア……」
アリシアは毎晩、孤独を感じながら、王城のてっぺんで独り、助けを求めていた。その気持ちを知る者など、今まで誰もいなかったのかもしれない。
暗闇で微かに白いアリシアの横顔が、闇に溶けて消えてしまわないか私は不安になって、思わず手を取った。
アリシアはようやく現実に帰ってきたかのように私の方を向いた。少しだけほっとする。
「でも今はひとりぼっちじゃない。お姉さまが隣にいてくれて、こんなくだらない話を真剣に聞いてくれる。手を取ってくれる……私、嬉しいです。今はもう、寂しくなんてありません」
「……隣にいます。ちゃんといますよ」
アリシアは微笑んで、夜景に視線を戻した。本当にその夜景が気に入ったらしい。
人嫌いの私は、夜景にそんな思いを抱いたことは無かった。でもそうして聞いてみると、何となくそんな心地も想像ができた。
考えてみれば、今まで私が必死で避けてきたいくつもの光は……アリシアにとっては触れたくても触れられない光だったのだ。
「私達って……本当に正反対ですね。どうして……そんな私と、アリシアは一緒にいてくれるんでしょうか」
ついつい暗闇で、お互いに向き合ってもいないせいか、普段だったら言わないようなことがすらすらと口から滑り出た。
そして理性の検閲を受けずにそんなことを口走ってから、変なことを聞いてしまったと軽く後悔する。
「そんなの、簡単なことです。だってお姉さまは……私が一番最初に触れた、光だから」
「光……」
「光は、触れると暖かいって。世界は美しくて、生きるに値するものだって……私に教えてくれたから」
アリシアは、再び私の方を見て、言った。
「だからお姉さまは、私にとって、世界で一番大事な……光なんです」
アリシアはいたって真剣な表情で、その深い瞳で私を見た。
瞳を直視できないのに、魅入られたように視線が外せない。
その場に立っていることがとんでもなく難しい事に感じて、ちゃんと立てているか不安になる。
やっ……ばい。
やばいやばいやばい。
耳に響く心臓の音が大きすぎて、全ての音がかき消されそうなほどだ。
私なんて、ろくでもない人間なのに。責務から逃げ出して、人を避けて、自堕落に暮らしている魔女なのに。それなのに、アリシアは、そんな人間を大事だと、真剣に言ってくれる。
アリシアにどぎまぎさせられることは今までだってあった。だけど今日のは明らかに今までと違っていた。
全部全部、心を持って行かれて、もう一生取り返せないような、そんな心持ちがした。
「う、れしい、です……」
ほとんど息を吸い込めなかったから、かろうじてその一言だけを口に出した。
アリシアはそれを聞くと、繋いだ手を少しだけ自分の方へ引いた。
「あーあ、夜景は綺麗ですけど、ちょっとだけ、真っ暗な海が怖いです……ぎゅって、してもらえませんか?」
「……はい」
もはや戸惑うという反応すらできないほど、思考は吹き飛んでいた。
少しだけ夜風に冷えてしまったアリシアの身体に、ぎこちなく軽く後ろから抱き着く。華奢でひんやりした身体に、できるだけ体温を移してあげたいと思った。
これ以上、アリシアの身体を冷やしてはいけない。
……そろそろ帰らなきゃ。
だけど、もう少しだけ。
もう少しだけ、このままでいたい。
アリシアを後ろから軽く抱きしめながら、私は気づけばまたもや、勝手に頭で考えたことを口から垂れ流していた。
「アリシア、私……」
「はい」
「アリシアのこと、好きです」
「……知ってます」
「そ、そういうことじゃないんです! 私、本当に好きなんです。今までと違う好きなんです!」
「どんな好きでも嬉しいですよ?」
「っ~~、そうじゃなくて……!」
こんな時ばかりは自分の喋り下手が嫌になる。気持ちを相手に伝える練習を、私は今まで全然してこなかった。そのことを初めて、ひどく後悔していた。
「帰りましょうか。みんな待っていますし、お土産渡すの楽しみですね!」
「そうですね……」
本当に、終わってしまった。
もう二度と、私の人生にこんな奇跡みたいな一日、来るはずがない。
それが悲しくて仕方がない。
「また来ましょうね、お姉さま」
「あ……は、はい! 絶対ですよ!」
私の心を見透かしたように、アリシアはそんなことを言った。二度と来ない体験じゃない。これからもきっと、楽しいことがある。アリシアはたった一言だけで、そう希望を持たせてくれた。
「帰りましょう! 私たちのお家に……」
そうして私たちは、次もきっと、と約束をして、箒を飛ばして黒森の小屋へと戻った。
「あぁ~っ! そうですよね……私たちのお家とか言ってたけど、私は帰れないんだった……」
すっかり忘れていたが、私たちの家に私の居場所は無いのだった。これからアルトンの家に帰らなければいけないなんて。悲しすぎる。
「一度は小屋に行きますよね?」
「い、いえ。私はここで」
途中で気づいていたものの、眼下に小屋があるところまでアリシアを送って来た。あとは降りるだけなので、危険はないだろう。
「二人にお土産、渡さないんですか?」
「はい。アリシアに任せました。私、何となく……今日はこのままお別れしたいんです」
「そうなんですか? まさか私と長く一緒にいすぎて疲れちゃいました?」
「いえいえ! そうじゃなくて……大事にしたいんです。アリシアと過ごせた余韻? みたいなの……変ですよね、そんなの」
そう言うと、アリシアは何だか焦ったように言った。
「お姉さま……それってすごく! ……嬉しいんですけど、私、もう、なんだか、お顔を見てられないです……恥ずかしくて……」
「そ、そうですか? ごめんなさい。今日は楽しかったです……アリシア、あったかくして寝てくださいね」
「はい、お姉さま。私もです! また明日。早く、また一緒に寝られるようになりたいです」
「頑張ります! いままでよりももっと!」
「無理だけはしないでくださいね、それじゃあ……」
「はい……おやすみなさい」
「おやすみなさい!」
アリシアがゆっくりと箒で降りていくのを、私はずっと見守っていた。
地上に降り立つと、メイが小屋の扉を開いたのか、そこから広がった明かりがアリシアを照らした。
豆粒くらいに小さかったけど、アリシアがこちらに向かって手を振ったのが見えたので、私も振り返した。
そのまま小屋を眺めながら、しばらくぼーっと宙に浮いていたけど、軽く風に吹かれて我に返った。
たまたま今、別々に暮らしているおかげで、かえってデートっぽい別れ方になったのかもしれない。ある意味、シャルロッテに感謝だ。
私はまだ、どこか夢見心地のまま、白森の街のアルトンの家へと向かったのだった。
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