Different possibilities of a certain reed-haired horse <ある葦毛馬の異なった可能性>

桁くとん

第1部 笠松競馬所属の地方馬のままで

東海地区4歳馬頂上決戦 1988年6月8日(水)名古屋競馬場 東海ダービー

第1話 調教師 久須美征勇 






 名古屋競馬場のスタンド席上部を覆う張り出した屋根の下には、平日午後だというのにぽつりぽつりと人が出てきている。

 彼らは雨が吹き込んでいる間はスタンド内通路などに引っ込んでいたが、屋根に当たる雨音が絶えたことに気づき、近くで今日の自分の運命を託す馬たちの姿を確かめようと出てきたのだ。


 先程まで居た装鞍所で次のレース『東海ダービー』に出走する管理馬の様子を見てきた笠松競馬久須見厩舎の調教師、久須美くすみ征勇まさおは、そんな観客の様子を眺めながら2階スタンド席最上部まで登った。


 着ている合羽かっぱの下は軽く汗ばんでしまい、多少息が切れる。

 今でもたまに管理馬に乗って軽い調教をつけたりすることもある久須美征勇だが、騎乗と階段昇降はまた別の動きだ。

 久須美はもうすぐ53歳になる。若い頃に比べると体の衰えを自覚せざるを得ないが、こればかりはは寂しいが仕方がない。

 

 笠松競馬の騎手だった久須美征勇が調教師に転じて1年後に創設された、東海地区で一番のサラ系4歳馬を決めるレース『東海ダービー』。

 久須美征勇は厩舎開業当初アラブ系の競走馬しか扱っておらず、サラ系のレース自体が憧れであった。

 ようやく8年前にサラ系を預託しても良いという馬主が現れ、それ以来『東海ダービー』を取ることを現実の目標として捉えることができるようになった。

 そして今日、ようやく夢に見た『第18回東海ダービー』の舞台に久須美に初めてサラ系の馬を預託しても良いと言ってくれた馬主の預託馬でやってくることができたのだ。

 この管理馬も今日を迎えるまでに馬主との間で様々な事柄があったが、それをどうにか乗り越えて夢に見たこの日を迎えられた。

 久須美にとって感慨深いものであった。

 

 久須美征勇調教師は眼下のゴール板の前、日本で最も短い直線194mのダートコースの様子を確認し、ぼそりと呟いた。

 

「よりによって、やっと馬を出せるって時に限って、こんな天気になるとはの」

  

『東海ダービー』の開催時期、6月上旬の東海地区は毎年ギリギリ梅雨入り前で、どうにか天気がことが多かった。

 

 しかし今年は前日7日の午後から断続的に、時に激しく雨が降り続き、早朝には雷鳴も轟くような荒天となった。昼過ぎに雨はようやく止んだものの、15時30分現在でも名古屋競馬場のダートコースにはそこかしこに雨水が溜まっており、まるで河川工事で露出した河床を思わせる様相だ。

 15時過ぎだというのに厚く垂れこめた雲によって薄暗くなったコーストラックを、急遽点灯された照明が薄く照らしている。

 コースに溜まったあちこちの水溜まりが照明を反射し、名古屋競馬場はいつもとは違った雰囲気を醸し出していた。


「これじゃ重馬場じゃなくて泥馬場だわな」

 久須見征勇調教師はついそう独り言ちた。

 

 ダートの場合、コースが濡れている方が敷かれている砂が締まり、走破タイムが速くなる傾向がある。

 だが、今日のこのコースは水溜まりがあちこちに浮いており、水の抵抗がある分どうなるか解り難い。


 特別観覧席で観戦している馬主の阿栗あぐり孝市こういちは、気が気ではないだろう。

 だが、久須見征勇調教師は内心、愛馬の勝利に自信を持っていた。

 今日程ではないが、1月10日の笠松重賞『ゴールドジュニア』もダートコースに水溜まりが浮いており、似たようなコンディションは経験している。

 そのレースでは今日の『東海ダービー』に出走する笠松所属のフミノノーザン、トウコウシャーク、マーチトウホウらに完勝している。

 前走となった5月5日の中京競馬場での重賞レース『中日スポーツ杯』芝1800mは、今日の『東海ダービー』の前哨戦的位置付けでもあり、笠松の有力馬トミトシシェンロン以外に名古屋競馬所属のユウアイイチバンも出走していたが、アグリキャップは後続に3馬身差をつけて圧倒的な勝ちを見せつけており、言わば格付けは済んでいた。

 ここまでのローテーションで今日の『東海ダービー』出走馬のうちで直接レースで当たっていないのはデビューが遅く牝馬限定を勝ち上ってきたシバイくらいだったが、東海地区の競馬新聞「競馬ガッツ」のレース展望では笠松勢が優勢であり、中でも久須見征勇調教師の管理馬がゴリゴリの1番人気に推されていた。


 スタンド席に上がって来る直前、装鞍所で管理馬の様子を見てきた時も、ほぼ笠松でのレース前と変わらず馬体重も前走から成長分+5㎏の485㎏。歩様にも異常は無い。

 笠松から名古屋までの1時間程度の馬運車での輸送もまったく苦にした様子はなく、久須見調教師は自分の管理馬ながら図太さに舌を巻く思いだった。


 あえて不安な点を挙げるとすれば、一周が笠松と同じ1100mの小回りなコースレイアウトの名古屋競馬場で不利な最内枠を引いてしまったことと、これまで管理馬が経験した最長距離のレースが前走の芝1800mであり、さらに100m延長になる1900mという距離がどうか、くらいだろうか。

 この点は3日前の笠松での追い切りに訪れた馬主の阿栗に伝えてあったが、主戦騎手の安東あんとう克己かつみの手応えから距離延長は問題ないだろうとも話してある。


 久須見調教師も安東と同様の見方だった。

 

 装鞍所で本日の作戦指示をするために騎手の安東克己とも話したが、安東も東海地区4歳馬の頂点を決める大レースだというのに随分とリラックスした様子であり、自信を持っているようだった。

 1枠だから包まれるのは避けろ、という久須美調教師に対して「わあってます。つっても多少の不利じゃあ簡単にはこの馬は負かせませんよ」と返事をする安東。

 笠松所属の騎手になって12年目。27歳の若さながら3年目からずっと笠松のリーディングジョッキーの座に君臨している安東は、3年前の1985年にもトウノウジョッギングで『東海ダービー』を制している。

 その経験は何にも替え難い。


「この馬で負けたら阿栗さんと川洲さんに申し訳なさ過ぎるってもんですわ」


 馬主の阿栗はともかく調教師の自分の名を出さずに担当厩務員の川洲の名を出す辺り、安東なりの軽口である。


「カツミ、もし負けたら笠松まで走って帰れや」


「さすがに笠松まで走って帰ったら土曜の騎乗がヘロヘロになってまいますんでね。そりゃ避けんといかんですね」

 

 久須見調教師はそう言って軽く茶化して笑って返す安東の様子に、それ以上の騎乗内容の指示は必要ないことを悟った。

 

 久須美調教師は電光掲示板に発表された出走直前の最終オッズを確認した。

 久須美調教師の管理馬は1番人気ではあるものの、名古屋競馬場で不利とされる最内枠出走を嫌われてか単勝2.1倍だった。

 2番人気は7枠8番イナバヤマオー3.5倍、3番人気は8枠9番シバイ5.3倍とやはり外枠有利と馬券師たちからは評価されているようだ。後はトウコウシャーク、フミノノーザンと続いている。

 


 パドックから出て返し馬で2角奥のスタート地点に向かう管理馬の走り。

 葦毛だが、まだ黒々とした雄大な馬体。

 いつもと変わらず首を上下させてリズムを取りながら、低い姿勢で力強く地面を掻き込むような飛びの大きい走りを見せている。

 水溜まりの水の跳ね上げが他馬に比べて高い。

 この道悪も、走りにさほどの影響はないようだ。


 久須美調教師が手にしていた双眼鏡を離し周囲を眺めると、久須美調教師が立っているスタンドにはいつの間にか数百人の観客が入っている。

 平日仕事もせずに競馬場に集う男たち。

 ギャンブルに身をやつすロクデナシども。

 だが、順風満帆な人生ではないからこそ、一瞬の勝負に美しさを見てしまうのも確かだ。

 他人から蔑まれるような人生であったとしても、人はその唯一の人生に僅かでも光を見出したいものなのだ。

 その一瞬の光を求めて、誘蛾灯に誘われるようにここ競馬場に集まっている。

 この観客たちにも、光を見せたる。

 単勝2.1倍の安い光でも。

 


 スタンドの観客を見ながらそう考えていた久須美調教師の耳に、競争開始を告げるファンファーレの響きが飛び込んでくる。

 

 久須見調教師は双眼鏡で出走ゲートに向かう安東騎乗の管理馬を眺めた。

 1枠1番の白の帽子と白の勝負服に身を包んだ安東を乗せた管理馬は、ゲートに入る前に一度ピタッと立ち止まり、武者震いの如く体を震わせた。


 その後、落ち着いてゆっくりとゲートに入る。


 管理馬のいつも通りの所作。


 今日もいつものレースと変わらない。


「いつも通り撫でまわしてこい、キャップ」


 久須見調教師は管理馬アグリキャップのいつもと変わらぬ様子を見て、今日の勝利は揺るがないだろうと確信した。

 確信はしたが、双眼鏡を持つ手は震えた。

 

 やはり、東海地区の4歳馬ナンバーワンを決めるレースだということが無意識に久須美調教師にも重圧をかけていた。







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