第29話 てのひら

「どう! どうどう!」


 硬く目をつぶっていたが、覚悟していた衝撃はなかなか来なかった。

 代わりにドカドカと馬の重い蹄の音が近くで聞こえる。それに目を開ければ、見知った顔がそこにはあった。


「…っ、ベン!」

「おう、アリア。無事か」


 ベンは馬を巧く宥めている。

 御者は手綱を引き、目を白黒させている馬をさらに落ち着かせることに尽力していた。馬を驚かせないよう、努めて穏やかな声でベンにお礼を言っている。


「馬車の中の人は? 怪我をした人はいないか?」


 ベンの言葉に、御者は首を捻ると乗っていた人たちの安否を確認し始めた。まだ馬が心配で、手綱を離してその場を離れられないのだろう。

 そんな状況を見兼ねたベンは、子供ごと私を抱え道端に移動させたあと、後方にまわり補助しに行く。騎士の身分を名乗り、怪我をした人がいないか聞き込みと目視確認を始めたようだ。


「大丈夫かい? 痛いところは?」

「……ないよ。お姉ちゃん」


 私はそっと腕の中の子供を見る。

 砂埃に塗れているが、冬で防寒していたおかげか、幸い擦り傷ひとつない。

 大型の辻馬車を引くために選ばれたガタイの良い馬に踏まれず、本当によかったと胸を撫で下ろした。

 騒然としているロータリーで、私は漸く気を抜き、地面に座り込む。


「ふうう。ああ、ほら。お母さんが来たよ」

「ロイ!」


 すぐに駆けつけた母親が、子の体をくまなく確認し、強く抱きしめた。まわりの状況と、母親の表情でようやく事の大きさに気付いたのだろう。きょとんとした顔から一転。子どもが大声で泣き始めた。


「申し訳ありません! ああロイ、良かった……良かった!」


 母に叱られ、さらに泣き声を大きくする子の頭をそっと撫でる。泣いて、あっという間に赤くなる顔はまだ三、四歳といったところだろうか。やんちゃで、可愛い盛りだ。


「怖かったな、無事で良かった」


 ありがとうございますと、なんども頭を下げる母親。子どもを抱えつつも、震えの止まらないその手を見ていると何故か胸が痛んだ。そっとその背を擦って宥める。

 しばらくそうしていたら。大きな手が差し出された。


「立てるか。アリア」

「ベン。ありがとう」

「ん。よく間に合ったな。流石だった」

「君が投げてくれた石のおかげだよ」


 彼女もだいぶ落ち着いた様だ。

 先ほどより血の気の通った顔を見遣ってから、ベンの手を借り立ち上がる。

 ワンピースについた土埃を払っていると、私が放っていた荷物が彼の手にある事に気付いた。


「火事場泥棒にでもやられるかと思ってた」

「ああ。鍛冶場の親父が持っててくれたみたいだ。中は無くなってないか」

「……うん。大丈夫だ」

「ん」


 もとより大したものは入っていないが、再度揃える手間とお金が省けるのは嬉しい。ベンに再度お礼を言って、ロータリーを見ていると、駆けつけた騎士団とこの辺りの自衛隊が騒ぎを治め始めた。

 一連の目撃者から話を得た騎士が一人、こちらに歩いてくる。見知った顔でもいたのか、ベンが片手を上げ声をかけた。


「モーリス」

「ああ、ベンじゃないか。キミが居てくれたとは運が良かった。話を聞きたいんだが、ちょっといいかい?」

「おう」


 仲の良さそうな間柄だ。

 モーリスはふとこちらに視線を向けると、私には敬礼をくれた。


「お疲れ様です。第六師団のモーリスといいます」

「第二師団アリアです」

「あなたが……。こほん、同期の方でしたか。ではどうぞこちらへ。傷の手当てを」


 傷、と聞いて自分の体を見渡す。

 見ればいつのまにか擦りむいたのだろう。子どもの膝を抱えていた左手の甲から血が出ていた。


「ありがとうございます。でもこれくらいでしたら、洗えば問題ありません」


 お手を煩わせるほどでは。と、思いそう言ったのだが、モーリスは困ったように笑っている。ベンが小さくため息をついて、顔を近づけてきた。


「話を聞きたいのもあるんだろう。人命救助を成した怪我人を引っ立てるのは体裁が悪いから手当てを強調している。俺も一緒に行く。ひとまずは指示通りに」


 なるほど。


「モーリス殿、失礼しました」


 私はモーリスに頭を下げた。


「いいえ、お疲れのところ申し訳ありません。すぐに済みますので」


 どうぞ。と、騎士達が数人集まっているところへ向かう。

 モーリスは机代わりにされていた木箱から羊皮紙を取ると、私達からの聴き取りをメモし始めた。

 別の女性騎士が同時に私の治療に取り掛かる。

 私は彼女に目礼をしつつ、ベンの補足をする形で一連の流れを説明していった。



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