第9話 第二師団での生活


 翌朝。

 宿舎の備え付けの鏡には、緊張した面持ちで立っている女が映っていた。


 真新しい黒い隊服には袖に銀糸の刺繍が入っている。第三師団の時は白地に銀だった為、なんだか落ち着かない。

 丁寧にブラシで埃を払い、使い古したブーツは紐を変え、つま先まで磨いて精一杯身だしなみを整えた。

 割れた唇には蜂蜜を塗ったし、痩せてバサバサの髪は無理矢理シニヨンにまとめている。

 ニナに貰った石鹸のおかげで、だいぶマシになったけれど、そのうち何かしらの髪油を買わなくては。


 いかん。どうしても緊張して関係のないことを考えてしまう。いわゆる現実逃避ってやつだ。何度も頭で給与の算段をつけながら、第二師団の宿舎にやってきた。


 第三師団とは違う、少々無骨な雰囲気。その団の隊長の色が出ると何かで耳にしたが、なるほど。

 なんとなくダグラス隊長の気配を感じて、心臓がきゅうと痛んだ。

 また稽古をつけて貰えるだろうか。そんなことを考えながら、執務室に足を踏み入れる。


「失礼します」


 執務室には、同期はまだ誰も来ていなかった。

 早く来すぎたかな。と窓の外を見る。


 第二師団用の少修練場と、倉庫。

 夜中に雨が降ったようで、取り囲む木々には、朝を喜ぶ小鳥達が枝で跳ねていた。

 しなった枝が、朝日で細やかに輝いている。

 初めて見る景色にぼうっと見入っていたら、不意に続き部屋の戸が開いた。驚きつつも、振り返りながら姿勢を正そうとして、失敗した。


「あれ、もう来たのですか?」

「……おはよう。随分はやいな」


 隊長補佐官と、ダグラス隊長だった。


「おはよう、ございます」


 応えて、無理やり唾を飲み込む。喉の奥が、杭を打たれたようにぐっと痛んだ。

 頬に残る傷も、精悍さも変わらない。

 それなのに、短い間に培った訓練の絆は無かったことになっているのが、途轍もなく淋しくて。けれどまた会えたことが、たまらなく嬉しくて。


 自分でもどう言葉にすれば良いのか分からない感情が、胸を焼き、頬を伝った。


「!」

「、あ……申し訳、ありません」


 思わずこぼれた涙を、親指で拭う。

 補佐官が執務室の机に資料を配っていてくれて助かった。とはいえ、早く手伝いに行かなばならない。

 「緊張してしまって」だとか「ずっと入団を望んでおりましたので」だとか。何か言い訳を口にせねばと内心慌てていると、ダグラス隊長がハンカチを差し出していた。


 刺繍で家紋が縫われたそれを、受け取って良いものだろうか。ちらりと頭二つ分上を伺い見ると、ゆっくりと頷いてくださった。


「恐れ入ります。洗ってお返しします」

「……構わない。むしろこれを、持っていなさい」

「しかし」

「そうだな……私の隊にそんな阿呆がいないと祈っているが、時に女性の身であることが煩わしく感じられる場面もあるだろう。そのときに使いなさい。着任祝いだ」


 チャコールグレーの上質な布地に、銀糸の守り盾と青糸の横向き鷹。

 普段簡単な繕い物やボタン付けしか出来ない私からは、どれくらい時間がかかるのか見当もつかない。

 そっと撫でて、お礼を口にした。


「綺麗です……ありがとうございます。隊長」


「ダグラス中尉ちゅうい、終わりました」

「今行く……歓迎しよう。アリア。励みなさい」


 優しい眼差しに見つめられて、言葉が出てこない。

 右手をこめかみに向けて敬礼で返す私に微笑を浮かべたダグラス隊長に、抑えていた恋慕が息を吹き返すのを感じた。




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