第2話 毒殺


「食事に毒を盛るのはどうかしら」

 美弥子みやこが言った。ちょうどアパートにはネズミ駆除くじょのための殺鼠剤さっそざいが配られたところだ。夕食にそれを混ぜればいい。気付かないうちに母が調味料だと思って入れてしまったことにすればいい。とてもいい考えだと、ミヤコは思った。


 美弥子が小学校二年生になった頃だっただろうか、母には恋人が出来た。髪を金色に染めて派手な色のシャツを着た若い男だった。男が来ているとき、美弥子は家に入れてもらえなかった。雨が降っても傘を持たせてさえもらえなかった。冷たい雨のなか、美弥子は公園の滑り台の下でひざを抱えていた。

 彼氏が出来て、母は珍しく料理を作った。けれど男の口には合わなかったようで、男は「こんなもの食えるか」と言い捨てて、外に食事をしにいった。母は美弥子を呼び、それを食べさせた。

「美味しい」

 美弥子は言った。カップ麺しか食べたことのない美弥子には、母の手料理はご馳走だった。べたべたの天ぷらも、柔らかすぎる御飯にかけられた粘土のようなカレーも、乳歯では噛み切れない硬い肉も。とても美味しいと感じた。けれど……。

 美弥子が満腹になっても、母は食べることを強要した。

「美味しいって言ったじゃない」

 そう言って無理やり食べさせた。大皿に山盛りの天ぷら。鍋一杯のカレー。到底食べきれるものではなかった。美弥子はトイレに駆け込み、涙と鼻水に塗れながら吐いた。けれど母は許してはくれなかった。

 深夜までかかって美弥子はそれを食べた。何度もトイレで吐き、泣きながら食べ続けた。

「底なしの胃袋ね」

 母はそう言って笑った。

 これは虐待ではない。美弥子は骨折も、大やけどもしていない。身体に傷などないのだから。これを虐待と呼ぶことは許されない。だれも気付かなければ無かった事になる。それが世間の常識なのだ。


 ミヤコはシチューを作った。市販のルーだが、なかなかに美味しく出来た。仕上げに殺鼠剤さっそざいを入れる。どれくらい入れたら致死量ちしりょうになるのだろう。味は変わるのだろうか。母は何口食べるのだろうか。

 テーブルをセットし、母にスプーンを持たせる。

「お母さんの好きなクリームシチューよ」

 そう言って笑う。母は無邪気むじゃきに笑い、「クリームシチュー」と繰り返した。


 中学校の卒業式の日、美弥子は偶然、母の鏡台きょうだいの中にそれを見付けた。

 鞄に付いた汚れを落とすのにマニュキアの除光液じょこうえきを少しだ借りようとした時だった。母は留守にしていたので、黙って鏡台の引き出しを開けた。鞄の汚れを落としたら、除光液はそっと返しておくつもりだった。

 引き出しの中、母には不似合いなキャラクター柄の封筒が幾つか入っているのに、美弥子は気付いた。手に取ってみると宛先は平仮名で「ささき みやこ さま」となっている。住所はない。直接ポストに入れたものだろう。セロテープの剥がれた大きな封筒を開けてみると、手作りと思えるフェルトのマスコットが出てきた。可愛らしいクマがTシャツを着ている。一緒に入っていた手紙には「ともだちのしるし」というメッセージが書かれていた。

「何、これ?」

 差出人は小学校の時のクラスメート。一年生になって初めてできた友達だった。緊張していた美弥子に話しかけてくれた、優しくしてくれた女の子だった。けれど、次第に彼女は離れていった。いじめに遭うようになった美弥子を敬遠けいえんしたのだと思っていた。

『クマさん、きにいってくれた? がっこうではきけないので、おへんじまってます』

 そんな手紙もあった。可愛らしい封筒はその都度つど柄を変え、何通もそこに重ねられていた。

──マスコット、気に入らなかったのかな? ウサギの方がよかった? それとも下手くそだったからかな? だったらごめんね。

──クラスの男子が意地悪しても、私は美弥子ちゃんの味方だよ。学校ではかばってあげられないけど、辛いことがあったら話してね。友達だよ。

──美弥子ちゃんの筆箱、焼却炉のところに落ちてたから、こっそり机の中に返しておいたよ。酷いことするね。でも、負けないでね。

 日付が経過するにつれて、手紙の内容は変化していった。

──美弥子ちゃん、返事くれたことないね。もしかして迷惑だった? 私なんか必要ない? だったらごめん。でも私は友達だと思ってるから。

──今日も助けてあげられなくてごめん。こんな弱虫だから、美弥子ちゃんは私が嫌いなんだね、きっと、そうだね。ごめんね。ごめんね。

──もう手紙は書かないことにします。きっと迷惑だろうから。ごめんね。さようなら。

 手紙はそれで終わっていた。

 全て開封され、引き出しの中に無造作むぞうさに放り込まれていた手紙を握りしめ、美弥子が唇を噛むのを、ミヤコは遠くから見ていた。


「美味しそうね。ミヤコちゃんは私に似て料理上手ね。一緒に食べよう。ほら、あ~んして」

 シチューを掬いミヤコに向かって差し出す母に、「やめてよ」と言いかけたミヤコの後ろで、インターホンが鳴った。返事する間もなく玄関のドアがあき、一階下に住む大家さんが顔をのぞかせた。どうやら鍵をかけるのを忘れていたようだ。

「佐々木さん、ケーキ貰ったから一緒に食べない? 大きくて一人では食べきれないの。あら、お昼ごはんだった?」

 福々しい顔に屈託のない笑みを浮かべて、大家は遠慮もなく中に入って来る。母の隣の椅子に腰かけ、テーブルに洋菓子店のロゴが入った紙袋を置いた。

「大家さんも食べる? あ~ん」

 大家は苦笑し、くんくんと鼻を動かした。

「あら、いい匂い。いただこうかしら。あ~ん」

 何故口を開ける⁉

 大きく開けた大家の口に、毒入りシチューを掬ったスプーンが近付く。駄目だ。食べちゃ駄目!

「あ──!」

 ミヤコは母の手からスプーンを取り上げ、皿ごと手元に引き寄せた。

「せっかくだから、お昼は後にして、ケーキを食べましょう。かなり大きそうだから、お腹いっぱいになるかもしれないけど、たまには良いわよね」

 震える声で言ったミヤコに、母も大家も、何の疑いも持たない様子で笑顔で頷き返した。


                              Bad End その2

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