第69話 空に叫ぶ

予想通り、結城は屋上にいた。

屋上に干してあるシーツが風で揺れるたび、結城の髪も一緒に揺れていた。

成瀬はそんな結城にそっと近づいて、結城が両腕を乗せている柵に手を置いた。

そして、彼女と同じように屋上から見える景色を眺めた。


「ここにいると思った」


成瀬は景色を見たまま、結城に話しかけた。

結城も少しの間沈黙が続き、答える。


「……お前って本当、お節介なやつだな」

「それはお互い様でしょ?」


成瀬はそう言って小さく笑う。

最初に心配してきてくれたのは結城の方なのに。


「今日はありがとね。お母さん、結城さんが来てくれて喜んでたよ」


成瀬がそう答えると、結城はただそうかというだけだった。

こういう時の結城と会話を繋げるのは難しい。

けれど、成瀬にはこうやって結城と何も話さなくても一緒に同じ風景を見られるだけで満足だった。

再び2人の前に風が吹き、髪が揺れる。


「結城さんのお母さんの話、聞いてもいいかな? 話したくなければいいんだけど」


成瀬は沈黙の中で、その質問を始めた。

結城は一瞬顔を腕の中に埋めるが、どこかで覚悟をしているようだった。

母親が亡くなってから誰かに母親の話をするのは初めてなのだ。

今更、どう説明していいのか悩んだが、ゆっくり語り始めた。


「私の母親は陽気な人だった。何が楽しいのか毎日笑ってて、「大丈夫」っていうのが口癖の人だった。大丈夫っていいながら、何とかしてるのは私と親父であの人、何にもしてないんだけどな。手先も不器用だし、ミスばっかするし、仕事が全然出来ない人なんだけどさ、妙に人には好かれる人で、店に来る常連はいつも母さんに声かけてた。「元気か?」とか「一緒に飲もう」とか。母さんもお客もすごく楽しそうで、飲み屋はこの人の天職なのかもしれないと思った。母さんの昔の事は私も知らないんだ。話したがらなかったこともあるし、なんかいろいろ複雑だったみたいで、説明しづらかったのかもしれない。けど、母さんが一つ教えてくれたのは、どんなことがあっても自分の信念は曲げるなってことだった。大人になれば、きっといろんなことが起きる。迷うこともたくさんあるけど、自分という大事な信念だけ持ってれば、ぶれずにいられるって。きっと、母さんはそうやって生きてたんだと思う」


結城が母親の話をする時、彼女の表情はとても穏やかだった。

きっと結城はそんな母親が大好きだったのだと思う。

ただ何となく、昔から素直じゃないところがあったのかもしれない。

全力で母親に甘えている結城が想像できない。

けれど、結城のその信念を曲げるなという言葉には何か響くものがあった。

まさに結城の生き方そのもののような気がしたから。

どんなに周りからひどい事を言われても、されても、結城はぶれない。

誰かに言われたからと言って、自分の考えは曲げずに自分の正しいと思う行動をとっていた。

そう考えると、結城がずっと見本にしてきたのはやはり母親だったのかもしれない。


「なんだか、結城さんはお母さんに似ているのかな?」


成瀬のその言葉を聞いて、結城は首をかしげる。


「そうか? 私はあんなに楽観主義じゃないし、陽気でもないぞ。まあ、親父にはいつも喧嘩っ早いところは母親譲りだって言われるけどな」


結城はそう言って小さく笑った。

やっぱりそう言われるのは嫌いではないのだと思った。


「結城さんには芯があって、強い人だなって思っていた。周りから散々言われても動じたところ見たことないし、意外と何でも器用にやりこなしちゃうしね。いつもすごいなって見ていた」


結城にとってその成瀬の言葉は意外だった。

要領がいいのは成瀬の方で、勉強もスポーツも人間関係も何でもうまくやりこなしているように見える。

打って変わって自分はいつも人を怒らせ、嫌われる。

立場が真逆だと思った。


「お前に言われても嬉しくない。お前の方がよっぽどどこでもうまくやってるじゃねぇか」


結城はふんと鼻を鳴らして、顔を背ける。

そんな結城を見て、成瀬はくすっと笑った。

なぜ笑われたのかわからず、成瀬の顔を睨みつけた。


「結城さんって周りは見えても、自分自身は見えてないんだね」

「あ?」


結城は成瀬の言葉にイラついた顔を見せる。

自分が見えてないと言われて少しイラっとした。

しかし、それは図星だったからだ。

どこかでは自分も理解していた。

結城にとっては、自分のことを知るのが一番難しいことなのかもしれない。


「自分の事を客観視するっていうのが苦手なんだよ。他人の事はやっぱ他人事だし、冷静に見れても、自分の事はそうはいかないだろう?」


結城の言っていることも理解できる。

成瀬だって自分がちゃんと客観視出来ているのかと言われればわからない。

それにいざという時、怖くなって立ち止まってしまう自分もいる。

感情に支配されてしまうのは自分も同じだ。


「じゃあ、なんで結城さんはそこまで人との関りを避けようとするの? 結城さんが人を嫌っているようには俺には見えないんだ」


結城は少し複雑な顔をして成瀬を見る。

それは、結城には突かれたくない部分だったのかもしれない。


「それは……」


結城はそのまま黙ってしまった。

どう答えればいいのかわからないのだろう。

だから、成瀬はそのまま黙って、静かに結城の言葉を待った。


「怖かったのかもしれない。私は不器用だから、人を喜ばせる言葉とか、どんなことをしたら嬉しいとかわからなくて、いつも人を不愉快にするんだ。真逆な事ばっかりやってしまう。だから、そうやって人を傷付けるぐらいなら、関わらない方がいいと思った。それに……」


そこで結城の言葉は止まってしまう。

成瀬は結城を優しい眼差しで見つめ、ただ聞いていた。


「誰かを好きになって、それを失うのが怖かった。自分の目の前から大切な人があっけなくいなくなることが、辛かったんだ」


成瀬はやっと話してくれたと嬉しくなる。

そして、その一言を放った。


「お母さんが突然いなくなって悲しかった?」


結城は顔を上げて、まっすぐ成瀬の顔を見た。

そこには優しく微笑む成瀬の顔があった。


「あの人はバカだからさ、酒の飲み方も全然加減できないんだ。前に医者にも怒られてたし、私や親父にも散々言われてたのに、客に誘われると断れなくて、制限なく飲む癖があったんだ。だから、あの日もいつもの事だと思ってた。飲みの席で母さんが寝てて、親父がそんな母さんに毛布を掛けて寝かせてた。その日は寒くなかったし、動かすと面倒なんだあの人。それで翌日、起こそうと声をかけに行ったら、母さんは死んでた。すげぇ幸せそうな顔して、眠るように死んでて、触れたらもう冷たくなってた。ふざけんなって思ったよ。人の事散々振り回しておいて、自分だけあっさり死んじまうなんてさ」


結城の表情は苦しそうだった。

きっとこの話をするのも成瀬が初めてなんだろう。

そんな結城に成瀬は優しく声をかけた。


「結城さん、辛いときは泣いてもいいんだよ。悲しい時は悲しいって叫んでもいい。淋しい時は誰かに甘えたっていいんだ。全部自分で抱え込もうとしないで」


その瞬間、結城の目から涙がどっと溢れた。

本当は泣きたかったのだ。

母親の死に顔の前で、声を荒げて泣きたかったのだ。

けれど、泣くタイミングを失ってしまった。

先の事ばかり見て、平静でいなければならないと思い込んでいた。


「何でだよ……なんで、勝手に死んじまったんだよ! アル中ってなんだよ! 自分は大好きな酒飲んで本望かもしんねぇけど、こっちは親父と2人であの後すごく大変だったんだぞ。あんなに騒がしかった家がすごく静かになって、親父もずっと悲しんでて、私だってどうしていいかわからなかった。母さんは自分勝手なんだよ! もっとそばにいて欲しかったのに、いろんな話を聞いて欲しかったのに、飲み屋に来てた常連だってすげぇ淋しがってたし、あんたが残したものは多すぎんだよ! そんな皆の想いをふみにじってんじゃねぇ!!」


結城は天国にいる母親に訴えるように空めがけて叫んだ。

そして、声を上げて子供のように泣いた。

結城がこんな風に泣くのは何年ぶりだろう?

少なくとも母親が亡くなってからは、一度も泣いたことがなかった。

そんな結城を成瀬は後ろから優しく抱き寄せた。

成瀬にはそれしか出来ることがなかったからだ。

きっと今の結城にはどんな言葉も伝わらない。

これは結城と結城の母、透との会話なのだ。

吐き出したいだけ吐き出せばいいと思った。

悲しみが一瞬でも和らぐまで、成瀬はそうして結城に寄り添っていた。

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