第十五話
「で、これから毎日どうするんだ?」
「どうするもこうするもない。お迎えがくるまで、粛々とカウントダウンの日々を過ごすだけだ」
早咲きの桜が散り、暖かい日が続く四月。
先月末で会社を退職した亨と早川は、亨が独りで暮らしているマンションのダイニングテーブルに座り、寿司をつまみにそれぞれが好みのアルコールを飲んでいる。
点けっぱなしのテレビはYouTubeを映しているが、二人共画面を観ることはない。
「何がカウントダウンだ!こうして毎日飲んだくれてばかりじゃ、カウントダウンがテンカウントの秒読み状態になっちまうぞ」
亨の投げやりな言い方に、早川は少し怒ったように言う。
「お前は何かあるのか?充実した老後のプランとやらが」
「そんな上等なものあるわけねぇだろ!今は失業保険をもらうために、こうしてフラフラしていられるけど」
「高年齢求職者給付金だよ!」
亨は早川の愚痴のような話をぶった切った。
「そう、それ。でも、失業手当みたいなもんだろ?六十五歳を過ぎると、支給日数がガクって減るから大した給付額にはならないけどな」
「少なかろうが、もらえるだけありがたいと思わないとな」
「それは言える」
早川は亨の言葉に納得し、氷の入ったグラスに冷酒を注ぎ足し、美味そうに一口飲んだ。
「で、仕事は決まったのか?」
亨も缶ビールを薄張りのグラスに注ぐが、七割以上が泡になってしまった。
「ハローワークなんかの紹介は、マンションの管理人や交通整理がほとんどで、事務職なんて全くない。マジで皆無だ!」
「そりゃあそうだろうな。コネでもあれば別だけど、俺達より先に定年退職したOBで、キャリアを活かせる仕事に就いた人ってほとんどいないからな」
「別に管理人が嫌だってわけじゃないけど、カミさんが近所の人に知られたくないから、管理人をするなら近所は絶対にやめてくれって言いやがる!」
早川はイカの寿司をつまみ、さっと醤油をつけてから口に放り込んだ。
「マジで大変だな、働けと言われるだけじゃなく、勤務地までご指示を頂戴するんだ」
亨は笑いながら言って、サーモンの寿司を、醬油皿にたっぷりとつけてから頬張った。
「ノープランのくせに、誰からも文句がこないお前が羨ましいよ」
「バーカ、ノープランって簡単に言うけど、何をしたらいいのかが皆目見当がつかない苦しみだってあるんだよ!」
「バーカ、それこそ大馬鹿野郎だ!今まで何してたんだ。金と暇は腐るほどあるんだから、旅行に行くなり……そうだ、娘さん、というより、孫に会いに行けばいいじゃねぇか!まだ孫には会ってないんだろ?」
「ドイツか……ミュンヘンとかは行ったことあるけど、西側のフライブルグは行ったことないしな」
「ついでにヨーロッパをグルっと回って来ればいいじゃねぇか。パリでもロンドンでも」
「パリとかは興味ねぇな。まあ、確かに孫もそろそろ学校に通う年齢だから、会うなら今のうちかもな」
「向こうで大好きなビールを死ぬほど飲んでこいって。孫も可愛い盛りに会っておかないと」
「一度娘に訊いてみるか……」
「そうしろそうしろ」
早川は急かすように言い、冷酒をカパっと口に放り込んだ。
「でも一人で旅行なんてしたことないからな。旅先で何をしたらいいのか、さっぱり分からん」
亨はかっぱ巻きを醤油につけて口に入れ、泡が減ったビールで流し込んだ。
「しょっちゅう一人で海外出張をしてたじゃねぇか。英語だってペラペラだし、海外で困ることなんかねぇだろ?」
「出張は仕事だ!生まれてから一度も一人で旅行なんかしたことないから、何をどう楽しむのかが分んねぇんだよ。お前はあるのか?一人旅って」
「あるさ、って学生時代のことだけどな」
「へぇ、何処に行った?」
「鉄道を使って東北から北海道。まだ青函トンネルなんかは開通してなかったから、青函連絡船で北海道に渡ったよ」
「お前って鉄っちゃんだったのか?」
「別に鉄道マニアなんかじゃねぇよ。貧乏学生の分際で、飛行機なんか乗れるわけねぇだろ!」
「確かに俺達が学生の頃は、飛行機なんて乗る機会はなかったもんな。そういえば大学の友達で、ヒッチハイクしながら九州まで行ったやつがいたよ。金がなくなりそうになったら、日雇いのバイトなんかをしながら、三か月くらいかけて行ってたな」
「当時はそれが当たり前だよ。どこかのボンボン以外は、みんな金なんか持ってないから、授業に出てる時間より、バイトの方が長かったからな」
「俺も試験が近付いたら授業には出たけど、それ以外はバイトしてたよ」
二人は懐かしい学生時代を思い出し、手元のグラスに視線を落とした。
「で、なんの話だっけ?」
「またボケが始まったか!旅行の話だよ。お前がドイツにでも行って来いって言ったから、一度娘に訊いてみるかな、って話をしてたんだよ」
「そうだったな」
「何がそうだったな、だ!一度認知症の診察を受けてこい。そんなんじゃマンションの管理人なんかできねぇぞ。住人の顔を覚えるなんて絶対に無理だって」
「何言ってんだ!こんなのはちょっとした物忘れじゃねぇか!お前だって何処に物を置いたかが分からなくなるって言ってたじゃねぇか」
「俺のは本当の物忘れ!短期記憶障害とは違うんだよ。お前のは立派な短期記憶障害だから病院に行けって言ってんだ!」
「うるせぇ!人をボケ老人扱いにするんじゃねぇ!」
「ボケ老人扱いじゃなく、お前は立派なボケ老人だって言ってんだよ」
「バ、バカヤロー!って、爺さんが罵り合っても仕方がないな」
早川は振りかざした拳を降ろし、その手で冷酒の入ったコップを掴んで飲み干した。
「確かに。しかし、よくよく考えたら、なんで歳食ってから暇と金ができるんだ?気力体力が充実している若い時に時間と金があったら、もっと人生は楽しいだろうに……。ビール取ってくるけど、何か持ってくるものあるか?」
テーブルに手をついて、よっころしょと声を出して立ち上がりながら、亨は訊いた。
「じゃあ、水を持ってきてくれ。それと何か乾き物があったら、そいつも」
「はいよ。柿の種しかないけどいいよな?」
「上等だよ」
冷蔵庫に向かう亨の背中に、早川は言った。
「さっきのお前の話」
「俺の?なんの話しだよ」
「暇と金が若い時にあったら、って話だよ」
早川は柿の種を口いっぱいに放り込み、ボリボリと音を立てながら言った。
「ああ、その話か」
「お前が言うように、歳食って体力に自信がなくなっているのに、暇と金があるのもなんだかなぁって感じがするよな。もちろん、金はあるに越したことはないぞ。子供や孫に残すのも大事だし。と言っても、俺みたいに敵がガッチリと財布の紐を握っていると、自由に使える金なんてないけどな」
早川は自嘲するように笑った。
「まだお前はましな方じゃないのか?奥さんからガミガミ言われているように言うけど、結構自由にさせてくれてるんじゃないか。今日だって、こうして昼間から飲んでるし」
「ま、今の内だけだな。失業保険、じゃなかった……」
「高年齢求職者給付金!」
「そう、それ。それが打ち切りになったら速攻で働きに行けなきゃならなくなるのは目に見えてるから、束の間の休息だ。四十年以上、一日も失業することなく働いてきたのに」
早川は嘆息交じりに言い、グラスの冷酒をチビリと飲んだ。
「ホント、良く働いたよな。で、結局趣味なんて洒落たものを持つ余裕もなく、楽しい時間の過ごし方なんて、雑誌のタイトルみたいなことをできる甲斐性も身につかず、ただこうして飲んだくれてるしか能がない」
「でも、この時間が一番楽しいっていうか……なぁんも考えなくていいから楽だ」
早川はそう言って、子供のような笑顔で冷酒を飲む。
「まあ、それは否定しない。思考停止している時が一番充実してるっていうのは、ちょっとヤバい気もするけどな」
亨は、ハハハと乾いた笑い声を立て、ビールで喉を湿らせた。
「仕事のために、四十年以上も自分を押し殺して生きてきたから仕方ねぇって。さっきお前が言ってた、気力体力が充実している若い時に時間と金があったら、もっと人生は楽しかろうっていうけど、そんなのは夢物語なんだよ。そんなのはよっぽどの金持ちの家に生まれ、親バカに甘やかされ放題で、金の苦労を考えないで好き勝手できるやつだけの特権だ」
「若大将シリーズの青大将みたいなやつだな……。でも、それって楽しいのかね?何の苦労もなく、若い頃から親の金を湯水のように使い、好きな物を飲み食いし、女って……限らないか、とにかく異性を取っ替え引っ替えして遊ぶのって楽しいのかね。経験したことないから負け惜しみに聞こえるかも知れないが、なんか充実感というか、達成感みたいなものは感じなさそうだよな」
亨はそう言って、温くなったビールを飲んだ。
「達成感っていうか、メリハリだよな。俺達みたいな小市民レベルと比較しても仕方ねぇけど、クソみたいに忙しかったり、上司や周りと衝突したりした後に飲み屋に入ってから、上着を脱いでネクタイを緩め、キンキンに冷えたビールをキューっと飲む瞬間は、そういう輩には理解できないだろうな」
「まあ、俺達にはそれが至福の時だけどな」
「そう、冷えたビールが喉から胃に落ちている間は、お前が言う思考停止をしている状態だからな」
「そうか……だから駄目なんだな」
「何が?」
「俺達みたいな貧乏性的な生き方をしてきたら、オン・オフがないと楽しめないんだよ。辛かったり苦痛なことがあるが故に、他人から見れば、なんでそんなつまらないことに感激してるんだ、っていうようなささやかな事に喜びを感じるんだな、って、根っからの小市民だなぁ」
亨は新しい缶ビールを開け、今度は慎重にグラスに注ぎ、泡の量に満足そうに頷いた。
「そんなビールの泡に感激してんじゃねぇよ。マジで小市民だな!」
「うるせぇ!だから言ったろ。俺達みたいなティピカルな働きバチは、こんな事にしか喜べないんだって」
「バーカ!もっと他に楽しいことはあるだろが!」
「例えば?」
「……」
「な、お前も俺と同じなんだよ。大層な趣味があるわけでもなく、奥さんの尻に敷かれ、浮気をする勇気もなく」
「放っておけ!俺は俺で今の生活に満足しているからいいんだよ!俺のことを心配するより、てめぇの事を心配しろって!」
「うん、まあ、そうだな」
亨は早川の言葉に頷き、注いだばかりのビールを一気に飲み干した。
「以前も言ったが、再婚とかは考えないのか?」
「またその話か。今更面倒だって。第一、こんな草臥れた爺さんと一緒になろうなんて奇特な女がいるかって話だ」
亨は怒ったように言い、グラスにビールを注いだが、夏の入道雲のような泡がグラスを埋め尽くした。
「まあ、結婚とかは別にしても、話し相手になるような女性とかいないのか?」
「そんな上等な
亨は吐き捨てるように言って、泡だらけのグラスを持ち上げ、啜るように飲んだ。
「そりゃそうだな。確かに俺だって没頭できる趣味はねぇし、浮き立つように心待ちにしているイベントもねぇからな。毎朝起きてから自分でパンを焼き、インスタントコーヒーを飲みながら新聞を見て、顔を洗って歯を磨き、クソをしてから自分の部屋に戻って、広告以外に誰からもラインやメールはきていないスマホをいじって時間を潰す。カミさんが掃除を始めたら、俺も当番の洗面所とトイレの掃除をしてから、ブラブラと近所をほっつき歩いて昼飯までに帰り、インスタント食品の昼飯を食い、自分の部屋でYouTubeを観て、それから図書館なんかに行って時間を潰すくらいが関の山だからな」
早川は愚痴るように言い、柿の種を口に放り込んだ。
「そんなもんなんだろうな。俺も大差ない。でも、夕飯は奥さんと一緒なんだろ?」
「ああ、一応夕飯は一緒だ。でも話すことなんかないから、お互いにテレビを観ている、というより画面に視線を向けながらメシを食ってるって感じだな」
「娘さんは遊びに来たりしないのか?」
「独り暮らしを満喫していて、滅多に家には寄り付かないよ。もっとも、家に居た時からあまり俺とは会話はなかったけどな」
「まあ、娘との距離感は難しいよな」
「でも息子だからって、会話が多いっていうわけでもないさ。俺達は子供との距離の取り方が下手なんだよ。同僚なんかには子供と仲がいいってやつも、結構いるぞ」
「そうだな。坂本んところは三十歳になる娘と一緒にキャンプに行ってるって言ってたし、中村は大学生の息子と釣りに行くのが楽しみだって言ってた」
「坂本や中村だけじゃないけど、結構家族で行動している奴もいるよな」
「ああ、森田は奥さんと娘、二人の息子とゴルフに行くの楽しみだって言ってたし、中島に至っては、娘と海外にまでダイビングに行ってるからな」
亨は退職したばかりの会社の仲間の名前を挙げて言い、早川のグラスに冷酒を注いでやった。
「ってことはだよ、変なのは俺達だけか?」
「俺達だけってことはないけど、まあ、駄目な親父なのは確実だな」
自分のグラスにゆっくりとビールを注ぎながら、亨は肩を落とした。
「駄目親父だけじゃなく、不甲斐ない爺さんになっちまったな」
「そっちの方が問題だ。今のままじゃなんの楽しみも見つけられず、ボーっとした毎日を過ごして、お迎えが来るのを待つだけだからな」
「そう考えると、俺達はなんのために馬車馬のように働いてきたんだ?ようやく仕事から解放されたっていうのによ」
早川は真剣な顔で憤慨した。
「今怒ったところでどうしようもないだろ。ない頭で考えたって仕方がないって。それより、まだ大丈夫なのか?」
ベランダから差し込んできた西陽に目を細め、亨は訊いた。
「あ、うん。今日は夕飯はいらないって言ってきたから、まだ大丈夫だ」
「そうか、じゃあ夕飯はどこか外で食うか?俺ん
空になったビール缶を潰し、亨はトイレに立ちながら言った。
「そうだな。昼は寿司を食ったから中華にするか?」
早川の提案に、亨は指でOKをした。
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