セニサイド~寿命を知っちゃぁお終いよ~

喜屋武 たけ

第一話

 仕事を辞め、収入が年金だけになる生活を目前にすると、ほとんどの人が一度は考えることがある。

 それは、『いつから年金を受給するのがベストなのか』である。

 繰り上げて受給する方がいいのか、それとも繰り下げて受給した方がいいのか……。

 テレビや雑誌などのマスメディアで取り上げられたりするだけではなく、ネットで検索すれば数え切れない数の情報がヒットする。

 だが、ファイナンシャルプランナーFPなるは、何歳が損益分岐点だという最大公約数的な話はするが、最後に必ず『ただ、人はいつ亡くなるのかは分かりませんので、一人ひとりの経済状況や家族構成、病歴などを考慮して決めましょう』と締めくくる。

 それを見た年金受給目前の人々は、溜息と共に『専門家っていうのは、誰もが分っていることを、難しく言うだけの人だから』と、揶揄しながら肩を落とす。

そして、『どいつもこいつも………そんな当たり前の話は分かってるんだ!自分がいつくたばるか分からないから訊いてるんだよ!』と、やり場のない怒りをどこにぶつけようかと考えるが、ぶつける先などありはしない。

結局は身近な人に頼るしかなく、既に年金を受給している先輩達に、酒を奢りながらヒヤリングをすることになる。

 だが、『俺は繰り下げ受給にして得している』と言う人がいれば、『受給年齢になったら素直に受給した方がいいよ。いつ死ぬのかは分からないからねぇ』と、それぞれが自分の受給方法を肯定的に言うだけで、参考になるような話は聞けない。

 仕方なく、同期の入社組や仲の良い同僚、あるいは長い付き合いの友人に訊くが、こちらも諸先輩方と同じようなことを言うか、『お前はどうするんだ?』と、逆に質問をされるだけだ。


「で、早川はどうするんだ?」

「俺?俺は素直に受給年齢になったら貰うよ。お前は繰り下げるのか?」

「いや、俺も素直にお上の指示に従うつもりだ」

 宮田亨はそう言って、たっぷりと醬油皿に漬けた中トロに、ワサビを載せて口に入れた。

「結局はそうなるよな。でも、俺んはカミさんが七十までと言わず、動けるうちは働いて、年金はそれから受給しろ!って、今だにギャースカ言ってるんで、まいっちゃうよ」

 早川良三はそう言って、苦いものを飲むように、猪口に残っている酒を呷った。

「大変だよな、女房がいると」

 亨は苦笑いをしながら言い、ジョッキに入っているハイボールに口をつけた。

「まあ、俺だって毎日あんなのと一緒にいたら気が狂っちまうから、どこでもいいから働くつもりだけどよ。お前は以前から言ってたように、何もしないのか?」

「ああ、もういい加減に楽をしたいっていうか、仕事場での煩わしい人間関係はご免だよ」

「独身は自分で決められる自由があって羨ましいよ。やはり、これからの老後は独りで生きていくのが正解だって、つくづく思う」

 空になった徳利を振って、店員にお代わりを頼みながら早川は嘆息した。

 

三か月後に定年退職を控えた二人は、師走の真只中、会社から真っ直ぐに御徒町駅の近くにある居酒屋に立ち寄り、ささやかな忘年会を行っている。

「独りがいいのかどうかは分らんよ……。この先病気になったりボケちゃったりしたって、誰にも手助けを頼めないからな」

「娘の……涼子ちゃんだったっけ?娘さんとかが面倒を看てくれるんじゃないのか」

「娘?そんなの絶対にないね!」

 亨は早川の言葉を言下に否定した。

「なんで?そんなに仲悪かったのか……」

「仲が悪い以前の問題だよ。何しろ娘(あいつ)が高校の頃からほとんど会話なんてないからな」

「今いくつ?」

「三十ニ……年明けに三十三になる。そもそも、仲が悪いとか言う前に、あいつは日本こっちにはいないしな」

 亨は頭の中で計算をするように、視線を上に向けてから早川に応えた。

「そうだった、うちのわがまま娘より三歳上だったな。でも、進学や就職の相談とか、結婚の時には何かしらの会話はあっただろ?」

「そんなのは全部女房と決めていて、俺なんかは蚊帳の外」

「奥さんが亡くなった時は……」

「そん時もあいつはフライブルグにいたけど、臨月だったので日本こっちには帰ってこなかったんだ。で、その後、あんまり乗り気じゃなかったようだけど、旦那にも言われたみたいで、一周忌に日本こっちに帰って来たけど、法事と墓参りをしたらソッコーでドイツに戻って行っちまった」

「一人で帰って来たのか?お子さん、孫は?」

「子供はまだ小さいから連れてこなかったって言って、スマホに保存している写真だけ見せられた」

 亨は平板な口調で言い、自嘲気味に笑った。

「じゃあ、婿さんというか結婚相手も来なかったんだな」

「子供の面倒をみなきゃいけないからな」

「仕事は何してるんだ?」

「ん?娘の旦那か……」

 亨の反問に、早川は頷く。

「高校の教師だよ」

「先生か?」

「そう」

 亨は短く応え、ハイボールの残りを飲み干して、近くにいた店員にお代わりを注文した。

「それから一度も帰国してないのか?」

「ああ、何で?」

「いや、お前に孫を見せるとか、奥さんの……何回忌だ?」

「来年で七回忌だ」

「それならって変な言い方だけど、七回忌っていうのは一つの区切りだから、帰ってきたりするんじゃないのか?」

「どうだろうな……あいつはドイツ人の旦那の影響もあってクリスチャンだから、そんな七回忌だのって関係ないんじゃない。三回忌だって何も言ってこなかったし。あいつドイツむこうに骨を埋めるつもりのようだから、こっちこっち》に帰って来たいとも思ってないんじゃねぇかな」

「そんなのキリスト教だとか関係あんのかよ。単純に母親の命日に、法事に参列したり墓参りをして、故人を偲ぶってことでいいじゃねぇか。それに、いくらドイツが好きだといっても、日本は生まれ故郷なんだから、そのうち日本が懐かしくなって、ひょっこり帰って来るかもよ」

「お前が怒ってどうする。まあ、それもこれもあいつの好きにすればいいさ」

 亨は苦笑しながら言って、届いたばかりのハイボールに口をつけた。

「お前は違った意味で親バカだな。娘に甘すぎる!俺んとこの娘がそんなんだったら勘当もんだ!だって、お前の奥さんが亡くなる前後は大変だっただろ。仕事の方は新しいプロジェクトがスタートしたばかりだったから、それこそ休む暇なんかなかったじゃねぇか。そこに奥さんの入院があったけど、娘さんは結婚してドイツだったし……」

「まあ、あの時は大変だったよな。でもお前にはいろいろと助けてもらったから感謝してるよ」

「俺は何もしてないって……。出張を代わったり、会議やプレゼンを代行したりはしたけど、そんなのはお互い様だからな」

 早川は少し照れたように言い、猪口を持ち上げ、カパっという感じで酒を口に放り込んだ。

「いや、仕事だけじゃなく、葬儀ではお前の奥さんに細々とした面倒なことをしてもらったし、お前だけじゃなく奥さんにも足を向けて寝られないよ」

「もういいって、そんな昔のことは……。でも一番大変だったのは亡くなった奥さんだけど……まあ、お前もな」

亨の妻、由紀子が肺癌で亡くなった時のことを思い出しながら、早川は湿った声で労うように言った。

「確かに、俺なんかより女房の方がな……」

 亨も声のトーンを落として呟いた。

「でも、あれじゃないか」

「あれって?」

 早川が少し明るい声で言った言葉の意味が分からずに、亨は訊いた。

「いや、何もずうっと独りでいなけりゃいけないなんて決まりがあるわけじゃないんだから、再婚でもしたら?」

「再婚!?」

「ああ、全くその気はないのか?」

「あるわけないだろ!第一、誰がこんな薄汚れた爺さんと一緒になってくれるんだ?そんな奇特な女がこの世の中にいるはずねぇだろ」

 亨は自虐的に言って、ハイボールのジョッキを持ち上げた。

「そうかなぁ。歳をとったと言っても、お互いにまだ六十五だろ?昔の年寄りと違って、今の六十五って、俺たちが子供がきの頃の爺さんとは比べ物にならない位に元気だぜ。見た目だって全然違うだろ?」

「まあ、確かに俺たちが子供がきの頃のお爺さんって、本当に老人そのものだったからな」

 亨は口うるさかった自分の祖父を思い出しながら言った。

「だよな。当時は五十五歳が定年だったから、還暦過ぎの爺さんなんて、マジで枯れてたよ」

「俺たちの爺さんや親父世代は戦争そのものを経験しているし、その後の大変な時期に、文字通り馬車馬のように働いたりして、苦労の連続だったろうからな……。そんな苦労から解放されて一息つけるようになったら、気が抜けて、急速に老けたりしちゃったのかもよ」

「そういうものかもしれんな、って、何の話だっけ?……そうだ、お前の再婚の話だよ!」

 早川は亨に話を逸らされたように感じ、抗議するように言った。

「なに怒ってんだよ」

「別に怒っちゃねぇけど、ただお前の行く末がちょっと心配になっただけだ」

「そんな風に思われて、感謝で涙が出てくるよ。だけど、余計なお世話だ。再婚なんて一ミリも考えたことないって」

 亨はそう言って、皿に残っていた最後のマグロを、たっぷりの醤油とワサビをつけてから口に放り込み、ワサビの辛さに鼻をつまんだ。

「アホ!ワサビが効いたか?ざまぁみろ!」

 早川は涙目になった亨を揶揄うように言い、美味そうに日本酒を飲んだ。

「参ったな……。鼻の奥がまだツーンとしてる」

 亨はハイボールをゴクっと飲んでから言い、おしぼりで目元を拭った。

「まあ、お前にその気がないのは分ったよ。でも、来年会社を退いてから、その先は長ぇぞ。いつお迎えが来るのかは分からねぇが、健康だけは気を付けないと。とにかくお前は塩分の摂り過ぎだって。ヘビースモーカーだったお前がタバコを止めたのは感心するけど、人間ドッグで何か言われてないのか?」

 早川は亨の目の前にある、醤油がたっぷりと入っている小皿を顎で指しながら言った。

「ガンマGTPがちょっと高い……。あと、少し肥満気味だっていうことくらいだ」

「それは俺もだが……確かに少し顔が丸くなったよな。性格は四角いまんまだけどよ。やっぱタバコを止めてから食う量が増えたんかね?」

「それはあるかもな。酒のつまみは確実に増えた。でも、お前こそ気を付けた方がいいぞ。尿酸値だって高かったろ?」

「少しだけだ。痛風の心配はない……今のところはな」

 早川は手に持ったお猪口を、口に運ぶのを一瞬躊躇したが、直ぐに亨の視線を弾き返すように、酒を口に放り込んだ。

「そんな飲み方してたら平均寿命まで生きるのは無理だぞ」

「お前こそ独りで野垂れ死にするなよ!俺はお前の遺体の確認なんか頼まれてもしねぇからな」

 早川は亨の突っ込みに反駁した。

「死んだ後の事なんか知らねぇよ。でも娘以外に近しい血縁者がいないから、マジでお前に連絡がいくかもな」

「だったらエロビデオとかは処分しとけよ。爺さんの死体の傍にそんなのがあったら、遺体の確認に立ち会う俺の方が恥ずかしくなるからな」

「そんなのは持ってねぇよ!第一、今はネットで観れるんだよ!」

「だったら、毎回観た後に視聴履歴は削除しておけよ」

「うるせぇ!何で視聴履歴までチェックするんだよ」

「馬鹿野郎!孤独死は一種の変死だからな。お前の死因に事件性があるのかないのかを確認するために、警察はパソコンやスマホも調べたりするんだよ。それに、娘さんが遺品の整理をして、お前のパソコンの視聴履歴がエッチなものばかりだったら娘さんが悲しむだろ、っていうより軽蔑されるぞ」

「だから、そんな死んだ後の事なんか知らねぇっつうんだよ」

 亨はそう言って、ジョッキに残っているハイボールを呷った。

「はあ?残された遺族や友人のことも少しは考えろ!だから、そんな変な動画を観てねぇで、再婚でもしろって言ってんだよ」

「アホか!そもそもそんなの観てねぇよ。お前がエロビデオとか古臭いこと言うから、今時はネットで観る人が多いってことを言ってんだよ」

 カウンターの近くにいた店員にハイボールと酒のお代りを注文しながら、亨は言った。

「絶対に観ないんだな?」

「何が?」

「エッチな動画だよ」

「そんなことどうでもいいだろ!何でそこに執着するんだ」

「別に執着してるんじゃない。ただ独居老人の性生活が、どんなのかを知りたいだけだ」

「お前こそどうなんだ?逆にシニア夫婦の性生活なるものを俺は知りたいね」

「そんなの知ったところで面白くもなんともねぇだろ!」

「それこそこっちのセリフだ!俺が何を観ようとお前には関係ないだろ」

 お互いに言いたいことを言い、届いたアルコールを口にした。

「しかし、下らねぇこと話してんな……。こんなの会社の連中に聞かせられねぇよな」

「……確かに」

 亨の言葉に早川は同調し、四捨五入で七十になる男二人は照れ笑いをした。

「で、何の話をしてたんだっけ?」

「年金だよ。繰り下げるのか、それとも素直に受給するのか……」

「ああ、何でそれがエロ動画の話になっちまったんだ?」

「お前が言いだしたんだよ!」

「何で?」

「何でって……お前、肝臓や痛風の心配より認知症の心配をしろ!」

 亨はハムカツに添えられていたパセリを、早川の取り皿に投げ入れた。

「食べ物で遊ぶな!」

「青物野菜は認知症にいいらしいから、それを食え!」

 亨はパセリを戻そうとしている早川に言い、ハムカツにパクりと齧りついた。

「こんなもので認知症が良くなるわけねぇだろ……でもボケたくはないよな。何歳で逝っちまうのかは分からんが、ボケたり病気で動けないような状態で長生きしたって意味ねぇからな」

「そうだよな。日本も安楽死とか認めて欲しいと思うときがあるよ。得体の知れない管が身体中に挿し込まれて、ただの生物として生きている状態だなんて………シャレで言うわけじゃないけど、想像しただけで死にたくなる」

「確かに生かされている状態なんて、御免こうむりたいな。ある程度の年齢になったら、安楽死できる薬とかくれねぇかな」

 早川は亨の話に同調し、タバコのヤニで薄汚れた居酒屋の天井を仰ぎ見た。

「寿命が分かるようになれば、そんなこともできるかもな」

「寿命が分かる?」

 亨の唐突な話に、早川は声が裏返る。


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