○9章 ファンタジー観と郷愁 ~ジブリからダークファンタジーまで~
「風の谷のナウシカ/宮崎駿:著」は1982年にアニメージュにて連載開始された漫画だ。科学文明が崩壊した後の終末世界を舞台にしたSF・ファンタジー作品であるが、そこだけをとってセカイ系の親玉や始祖だと言われることは基本的にない。「猿の惑星」などの海外発SFムーブメント作品との関係性を研究する動きはある。
劇場版「風の谷のナウシカ/宮崎駿:監督」は84年に公開されたアニメ映画だ。まず漫画の連載がはじまり、連載しながら(休載を挟みながら)映画製作を行った流れは有名だが、振り返ってみるとアニメ専門誌上での漫画からという流れはなんとも面白い。徳間書店の社員でありアニメージュ編集でもあった鈴木敏夫が深く関わっているのだが詳細は漫画史とアニメ史に委ねるとして、85年には徳間書店の子会社としてスタジオジブリ(以下:ジブリ)が誕生し、その少し後に鈴木敏夫もジブリへと移籍している。
「風の谷のナウシカ」は宮崎駿の代表作として有名だが、アニメ・クリエーターとしては「ルパン三世(71年)」「アルプスの少女ハイジ(74年)」「未来少年コナン(78年)」「ルパン三世 カリオストロの城(79年)」といった活動があり(※33)、漫画家出身でアニメに移ったわけでもジブリ映画監督として鮮烈デビューしたわけでもないのは頭に入れておきたい。
※33 それらの作品に全て監督として関わったわけではない
◆ジブリ作品は、ずばり何系ファンタジーか◆
ジブリ設立後は「天空の城ラピュタ(86年)」「となりのトトロ(89年)」「魔女の宅急便(89年)」「紅の豚(92年)」とコンスタントに劇場アニメを製作・公開。ジブリ創設以前より関係が深い高畑勲が手掛ける「火垂るの墓(88年)」「おもひでぽろぽろ(91年)」とあわせて、その最初から圧倒的大人気で社会現象化というわけでもなかったが、90年前後にはほぼ毎年新作が出るジブリのアニメ映画! という人気と風潮は出来上がっていた。
その後、全作品紹介は控えさせて頂くが06年までなら「耳をすませば(95年)」「もののけ姫(97年)」「千と千尋の神隠し(01年)」「ハウルの動く城(04年)」「ゲド戦記(06年)」などが話題となり歴史的ヒット作なども生まれた(※34)。
どの作品が一番好きか、面白いかなどは令和時代でもどこかで行われている永遠のトークテーマだが、ここまで見てきたファンタジームーブメントの愛好層に刺さったのは「風の谷のナウシカ(以下:ナウシカ)」「天空の城ラピュタ(以下:ラピュタ)」だった。
※34 ゲド戦記の監督は息子である宮崎吾朗。本筋ではやれないが原作の存在と扱いを巡って賛否両論が起きた作品でもあったりはする
ジブリの初期~平成中期は宮崎駿作品がファンタジー寄り、他監督作品が現実世界寄りなどと分析されることもあるが、海外ファンタジームーブメントの申し子である小説が原作の「ゲド戦記」を例外とすると、ジブリの全作品を通してSF要素も許さないゴリゴリの中世西洋風異世界ファンタジーは存在しなかったりもする。
「ナウシカ」は文明崩壊後の世界を舞台に科学的なアイテム・概念も多数登場するSF色も強い作品であり、「ラピュタ」はカテゴライズするなら「ロビンソン・クルーソー」や「ガリヴァー旅行記」の系譜とでもいうべき、近世・近代冒険活劇ものだ。ヒロイック・ファンタジーの系譜に連なるというならそれは間違いないが、中世西洋風ハイファンタジー至高論などでは扱いが難しくなってくる。
だが、06年ぐらいには既に昔のファンタジーなジブリが好きだった、ナウシカ・ラピュタ時代こそ最高だったというような声がファンタジー作品愛好家層からあがるようになっていた。
他のエンタメと比較しての声もあったろうが、ジブリ作品という枠の中でさえ「ナウシカ」「ラピュタ」を古き良き本格的なファンタジー作品の理想として、新作が出るほどにそうではなくなっていると評価する風向きが出始めていた。23年の今では視聴者側における宮崎駿流やジブリの本質みたいな解釈・アプローチは成熟している印象があるが、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」に対して説教くさい和風でなくてピュアでドキドキワクワクな西洋風をやれという声は実際にあった。
ジブリ作品は原則として劇場公開作品でありながら、定期的にTV放送されたという事情も大きいだろう。金曜ロードショーという番組でのジブリ作品放送は恒例行事として定着し、その時の最新エンタメと平行して「ナウシカ」「ラピュタ」と出会うという層も増えていく。そして初見者が食いつく横で聞こえる呟き。この時代はよかった。
この「ナウシカ」「ラピュタ」を回顧する郷愁感こそが、私は本格ファンタジー論の中核であると考えている。
本格ファンタジー至高論が展開された時、ハイファンタジーや中世西洋風などの特定の要素に強くこだわり独自だが明確に定義された『本格ファンタジー』を掲げる者もいる。だが論の数に対して少数であり、多くの論では「ナウシカ」「ラピュタ」は古き良き至高だった側に入る。
確固たる譲れないこだわりでもって定義化されたファンタジー論よりも、もっとざっくりと古き良き本格的なファンタジーの時代はよかった、その時代の代表作がナウシカ・ラピュタ・ドラクエ・ロードス島などだという望郷に基づく概念論の方が圧倒的に多い。そこには60年代、70年代、90年代とTVアニメ化され、再放送の頻度もあってあらゆる世代の少年少女や家族が目にしていた「ムーミン」などもはいってくるかもしれない(※35)。
手塚治虫とディズニーや、藤子不二雄なども本来は掘り下げるべきだろう。
※35 トーベ・ヤンソンが1945年に発表した小さなトロールと大きな洪水を始まりとするムーミンシリーズは、日本においては原作小説やその漫画化よりもTVアニメ版が有名になった
ファンタジー論を掲げる時、定義化を趣旨とするものと、郷愁への語りかけを趣旨とするものがある。誰かのファンタジー論がしっくりこない時、なんともいえない違和感を得る時、それは発信者と受信者のそれが噛み合っていない可能性がある。
それらの確認・すりあわせを行わないまま話を進めても着地点を見出すことは難しいだろう。ではどうすりあわせるか、その試金石としてジブリは実に効果的だと思う。その論における本格ファンタジーに「ナウシカ」「ラピュタ」は含まれますか? と。YESならファンタジー黄金期におけるエピック・ファンタジーの系譜を継ぐ作品たちへの郷愁が趣旨ですか? と続けられるし、NOならばそれはハイファンタジーではないから? この論の趣旨はハイファンタジー=本格的なファンタジーのような定義化? ならばまずハイファンタジーの定義をすりあわせましょう、などと続けられる。私はそう考えているがどうだろうか。
こういった定義化と郷愁が混在し、語っている人間も時に切り分けができなくなるものが他にもある。その代表格と私が考えているのがダークファンタジーという概念だ。こちらについても覗いてしまおうか。
◆ダークファンタジーと本格的なという感覚◆
ダークファンタジーという概念がある。これも絶対的な定義化がなされないまま、十人十色の解釈を生み出しながらもなんとなく共通認識が定着している言葉だ。現在の一般的な概念としては骨太でハードな世界観を有し、キャラクター造形や会話などもストイックで過激な暴力描写・性描写もしっかりと描き、人間の残酷さや闇深さなども掘り下げる、そういう作風のファンタジーとなるだろうか。西洋的世界のハイファンタジーであるかどうかはそっち側であるパターンが多いが絶対的ではない(※36)。
ダークファンタジーの代表と言われるものを一部挙げるならば海外からは「平たい地球」シリーズのタニス・リー、「月の骨」シリーズのジョナサン・キャロルなどが世界的に有名だ。そこに伝奇・怪奇・ホラーなども入ってくるためクトゥルフ神話が有名なハワード・フィリップス・ラヴクラフトなどもカテゴライズされやすい。さらにゴシック小説もよく拾われる傾向がある。「フランケンシュタイン」や「ドラキュラ」などがダークファンタジーの傑作という謳われ方をするのを聞いたこともあるのではないだろうか。
※36 論創社が刊行したダーク・ファンタジー・コレクションというシリーズはごりごりのSFやミステリーにホラー作品が含まれているなど、今まで色々と紹介してきたファンタジー作品の中でのジャンルわけとはそもそも違う使われ方もしている
国産では「バスタード」「ベルセルク」「クレイモア」の漫画3作はよく代表的存在とされる。小説から「グイン・サーガ」もよく言われるところか。夢枕獏や菊池秀行の作品もダークファンタジーとされるものが多い。
ゲームでは「ドラゴンクエスト」に対して「ファイナルファンタジー」がダークファンタジー寄りと呼ばれていた時代もある。なんとなく雰囲気や方向性は認識してもらえるだろうか。
このダークファンタジーという概念は伝統的で重厚的で本格的なファンタジー論と大変相性が良い。それは日本のファンタジーマニア限定での話ではなく、世界的に本格的なファンタジーの理想を語る時にダークファンタジーが骨格になっているケースは多い。本記事ではここまでライトノベル的なファンタジーと海外ルーツのヒロイックないしエピック・ファンタジーとの対比という描き方を多くしてきたが、ここでまた違う切り分け方が登場する。
メルヘンで幻想的なファンタジーとダークで重厚なファンタジーという分け方だ。「不思議の国のアリス」「オズの魔法使い」「ムーミン」などは前者となり、「ドラキュラ」「ラヴクラフト作品」「グイン・サーガ」「ベルセルク」などは後者となる。そしてこの後者側であることを本格ファンタジーの条件定義とする論があり、この論では「ロードス島戦記」が本格ファンタジーの理想となるかどうかは、ダークファンタジー的魅力をどこまで有しているかという話になってくる。そしてそれはライトノベルの定義論やハイファンタジーの定義論以上に見解が一致しない。そもそも「指輪物語」はダークファンタジー論とダークファンタジーではない論がある。
「ベルセルク」は日本での人気以上に海外での人気が高いという話を聞いたことはないだろうか。これはもちろん複合的な理由があるのだろうが、日本人にとって郷愁を誘うファンタジー観が宮崎駿世界や1980年代文学・ジャンプ作品・ファミコンRPGなどにあるように、彼らにとっての怪奇幻想・ヒロイック・ファンタジー望郷はダークファンタジーがベースであるからではないだろうか。
本来ならば日本人にとってのそれは「遠野物語」や小泉八雲文学の方かもしれないが、今回はそこまで拾うのは厳しそうだ。
海外ヒロイック・ファンタジーを親とする本格的なファンタジー至高論は、そういった郷愁も取り込んで継承しているのかもしれない。そしてこの価値観は個人によるブレ幅が非常に大きいため、指標として最適と思われていた「指輪物語」すら語る人によって立ち居地を変えてしまう。そして現代日本における本格的なファンタジー論では、ライトノベル的かゲーム的かという視線・評価と分離不可能なまでに混ぜられ、1つの作品を取り上げた時に何を軸にそれを語っているのかがより不透明になっていく。それは令和が近づくにつれより極端になっていくので、これから先の時代を見ていくために、その感覚を覚えておきたい。
◆やっぱり顔を出します手塚治虫◆
分離不可能で混ぜてみせたというフレーズで話を進めるなら、「火の鳥/手塚治虫:著」(1954年)は触れないわけにはいかないだろう。これはもう私としては断言してしまうが「火の鳥」は本格的なファンタジー作品だと考えている。そしてこの作品ほど何かを区分をすることの意味がないものがないとも。
火の鳥は本格的なファンタジーか否か。あれはSF作品だという人はいるかもしれない。だが、ファンタジーかSFかを切り分けるのが不可能という方が正確だろう。そして火の鳥をファンタジーでもあるとしてしまえば、大体の本格ファンタジー論において、火の鳥をどこに置くかを死ぬほど悩むことになる。
未読の方向けにスーパーざっくり紹介をすると、その生き血は永遠の命をもたらすと呼ばれる火の鳥を巡って、古代日本で、戦国時代日本で、近未来で、古代エジプト・ギリシャ・ローマで、未来都市で、宇宙船の中で、地球ではない星で、生命のドラマが描かれる物語だ。ロボも出る。
私はわりと本格ファンタジー論のジョーカーというか、理不尽な暴力の一撃的禁止カードですらないかと考えている。
でも、火の鳥は本格的なSF・ファンタジーですよね。
このカードを切ると話が終わってしまう。それを回避するには中世西洋風ハイファンタジーのみを可とするような絶対的な定義化を最初に行い、その枠内だけを見るしかなくなる。それもそれでなかなか難儀だ。
既に名前を紹介している作品から「火の鳥」に近い属性のものを挙げるならば「ライブ・ア・ライブ」だろうか。スクウェアはやはりそういうところがある。
和風の話が出た。エンタメとしてのファンタジーが発展していく過程で、分離不可能に混ぜられていったものはまだまだある。混在=否定の過激派から、どこまで許容するかの境界線探しを重要視する者、全面的に受け入れ済の寛容派まで目白押しな、本格的なファンタジー論と向き合うなら避けられないもの。
和風(東洋風)ファンタジー、学園ファンタジー、ロボット・ファンタジーはそれにあたるだろう。時代を進める前の最後の確認としてそれらを見ていくとしよう。
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