待つ痛み
クニシマ
◆◇◆
「
開口一番、おれはそう叫んだ。
おれと灘井の冠番組であるこの『トゥーンボウイのソウル・ファイト・セッション』は、五年前に放送を開始して以来、押しも押されもせぬ大人気バラエティとして土曜の午後九時に君臨し続けている。レギュラー出演者はおれと灘井、二年後輩である365Hの辻尾と戸倉、そして三年後輩である前田の五人だが、今日は四人でやっている。
昨日、辻尾が逮捕されたのだった。
大した罪状ではない。居酒屋で酔っ払って見知らぬ相手と小競り合いになり、向こうが殴りかかってきたので応戦したところ運悪く勝利してしまったのだ。辻尾は酒癖が悪い、というのは戸倉を始めとした複数の後輩から何度となく聞いていたが、おれがそれを目の当たりにしたことはない。辻尾はおれの前では決して酒を飲もうとしなかった。先輩にはええ顔しときたいだけですよあいつ、と戸倉は言うものの、灘井などはしょっちゅう辻尾を飲みに連れていってやってはあいつほんまあかんわと愚痴をこぼしているから、どうやら辻尾にとって灘井はええ顔をしたい相手ではないらしい。
辻尾を——というより365Hを見つけたのはおれだ。事務所傘下の小さな劇場にて、デビューしたばかりの彼らのネタを初めて目にしたとき、ぞっとしたのを覚えている。面白くなかったのではない。ただ、おれがやりたかった、おれが作りたかったネタだと思った。鼓動が速くなるのがわかったが、それはちっとも喜ばしいような心臓の跳ね方ではなかった。
出番を終え舞台を降りた二人はまっすぐにおれのところへ挨拶に来た。前置きもそこそこに、ネタを作っているのはどちらかと尋ねた。僕です、辻尾です、と名乗った男の、やたらに澄んだその目。貧乏ゆえの不健康さが滲む風貌ながら、芸人らしからぬ男前ぶりだった。
それからおれは事あるごとに365Hを飯に連れていき、いくつも仕事を与えた。おれが司会の番組に無理を言ってねじ込んだことも一度や二度ではない。そんなふうにできる限りを尽くしてかわいがってやったことに打算がなかったといえばむろん嘘になる。放っておいても勝手に売れていくだろうというのは充分承知のうえで、おれが、トゥーンボウイ
トゥーンボウイを中心とした複数の芸人をレギュラーに据えて不定期にゲストも招き、漫才やコント、トーク、その他にも様々な企画を行うという新番組の構想が立ち上がったのは、365Hがおれと関わりのないところでの仕事を次第に増やしてきた頃だった。誰をレギュラーにするか考えているとき、ちょうど辻尾と飯に行く機会があった。ラーメンをすすりながらとりとめのない話をする中、ふと新番組のことを彼に話してみようという気になり、そうした。出演を頼もうというわけではなかった。365Hが忙しいのはよくわかっていた。ここのところ辻尾も戸倉も付き合いが悪いと灘井が腹を立てていたのだ。
おおまかに番組の内容を説明すると、辻尾は「いつからですか」と訊いてきた。
「まだ先や。誰出すか決めなあかんねん。おれら以外で三、四人な。前田は呼ぼう思てんねんけどな。おまえら来えへんやろ、どうせ」
「行きますよ。菱本さんが呼んでくれはるんやったら、なんぼでも行きますよ」
そして彼は歯を見せて笑った。ネギの破片がついていたので、汚いねんおまえ、とその頭を叩いた。そうやって『ソウル・ファイト・セッション』は始まったのだった。おれと辻尾の笑いに対する感覚は似ていて、収録中でもおれたちばかりが笑っているような瞬間がよくあった。他の誰も笑っていなかったとしても、おれはそんなときが一番楽しかった。
「——で、辻尾くんは、しばらく謹慎ということで」
「ええ、まあ、犯罪者ですからね」
エンディングトークの収録時、そう言ってみるとそれなりに笑いが起こった。灘井がにやりと笑いながらおれの肩を小突いた。
辻尾の逮捕から一ヶ月ほど経ったある日の帰宅途中、おれは彼が住むアパートの前でタクシーを降りた。夕方から降り出した雨がやや強くなり始めていた。彼の部屋の窓はカーテンが閉まっているものの、明かりがついていることはわかる。階段を上り、インターホンを鳴らした。しかし辻尾が出てくる気配はない。何度か鳴らした後、しびれを切らしたおれは直接ドアを叩いて「おれや。菱本や」と声を張り上げた。すると中から慌ただしい足音がしてドアが開き、ほんますいません、と言いながら辻尾が姿を現した。
「なんでパッと出てけえへんねん」
「いや、すいません、ほんま。ちょっと、中入ってください」
早口の小声でそう言う彼はやけに憔悴しているようで、おれを部屋に上げると急いでドアを施錠する。蛍光灯の薄明かりの下で改めて見た彼の顔はひどいもので、髭は伸びっぱなし、頬は痩け、伏せた目にはまるで光がない。
なぜインターホンを鳴らしてもすぐに応対しなかったのかと尋ねると、辻尾は黙ったまま部屋の隅に放ってあった週刊誌を開いて渡してきた。どうやら彼が逮捕されてからすぐに発売されたもので、見開きの紙面には『逮捕の人気芸人、衝撃の素顔!』などという派手な字がでかでかと踊っている。ざっと読んだところ、辻尾にまつわる醜聞があることないこと書き立てられているようだ。この記事が出た後でどこからかこの家の住所が漏れたらしく、見知らぬ人が面白半分でここへ来てはインターホンを鳴らしたり郵便受けにいたずらをしたりでうっとうしいのだと彼は語った。返す言葉が見つからなかった。
窓を叩く雨音が突然うるさくなった気がした。辻尾はおれの顔の端をちらりと見て、つぶやくように言った。
「降板ですか、俺。ソウルファイト。」
「なんや、急に」
反射的にそう応えたが、辻尾を降板させようという話は実際に出ていた。結果として示談が成立し不起訴処分になったとはいえ、世間における彼の印象が大幅に悪くなったのは事実だ。しかし、芸人の価値というものは、どれだけ面白いか、どれだけ笑いが取れるかというところにあって、どれだけ聖人君子であるかなどはどうだっていいことなのだ。
「降板はさせへんよ。謹慎も早よ解けって上に言うてるところやし、おまえのことみんな待ってんねんで」
みんな待っている、というのは半分ほど嘘だった。相方である戸倉はともかく、灘井と前田は辻尾の復帰をそれほど望んでいないふうであることをおれは知っていた。
「……ほんまですか。……菱本さんにはいろいろ……ほんまにいろいろ世話になって……」
窓の外で雷が落ちた。蛍光灯がかすかに瞬いた。辻尾が大きく息を吐くのがわかった。
「すいません。……帰ってもらえますか……。」
タクシー呼びますんで、と彼は言って、おれの返事も待たず受話器を手に取る。それからすぐにタクシーが到着して、おれは追い出されるようにアパートを去った。
翌日おれは昼下がりに目を覚まし、陽が沈み出した頃、夜から始まるトーク番組の収録に向かうべく家を出た。わずかながら時間に余裕があったため、また辻尾のアパートへ寄ってみることにした。昨日の雨は午前中まで降り続いていたようで、アスファルトには水たまりが残っている。夕焼け空がうっすらとそこに映り込んでいた。
アパートの階段を上っていくと、辻尾の部屋の前に若い男がしゃがみ込んでいるのが見えた。近づいてみれば、その男はドアの鍵をこじ開けようとしているようだ。がちがちと鈍い金属音が響いている。おれは大声でオイと怒鳴った。すると男はすぐに走って逃げ出した。よっぽど追いかけていって殴り飛ばしたく思った。しかし、理性がしつこく唸ってそれを阻んだ。
ドアに近づきノブを捻ってみると完全に解錠されていた。チェーンがかかってはいるものの、ドアを開ければ部屋の様子が見えるほどの隙間ができる。一度インターホンを鳴らしてみたが、辻尾は出てこない。部屋の中を覗くと、狭いワンルームでうずくまるように座り込んだ彼の姿と、その向こうに鮮やかな色彩が蠢くブラウン管があった。それが先週放送された『ソウル・ファイト・セッション』だと気づいたとき、ふと画面の中におれが映った。面白おかしい衣装に身を包んで、滑稽な化粧をして、大口を開けて笑っていた。
辻尾の背中はぴくりとも動かなかった。
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