第52話 英会話教室のマリリン先生
ラベリッツ英会話教室札幌校で健治の担任になった先生は、他の先生たちから、
マリリン先生と呼ばれていた。本名は、キャサリンなのでマリリンとは関係ないし、マリリン・モンローのようなグラマーなタイプでもないので、どうしてだろうと健治は不思議に思っていた。
ある日、マリリン先生は「ケンジは洋楽は聞きますか」と、授業中は絶対に使わない日本語で話した。
「ええ、聞きます」と、答えると「ナッキンコール」はどうですか?」
ナッキンコールとは多分、日本人がよくいうナット・キング・コールだろうと思い、ええ、よく聞きます」というと、「キングコールの歌を聞くと英語ができるようになるという人がいますけど、そんなことはありません。歌を聞いても話せるようにはなりません」と、言った。
そのころ、ナッキングコールの歌い方は単語の区切りがはっきりしていて、日本人にも分かりやすくて、「英語の勉強になる」と、言われていた。
続けてマリリン先生は「映画も同じです。セリフを字幕で見ている限り、話せるようには絶対になりません」と、きっぱりと言った。
どういうことなのかな……? と考えていると「意味が分からなくても、私が言ったことをそのまんま、言って下さい」と、言ったあと、彼女は「アヌゥマダァ」と、言った。
健治も同じように「アヌゥマダァ」と、言ってみた。するとマリリン先生は「グーゥ」と言ってにっこり笑った後「ヘロゥ」と言った。
健治も「ヘロゥ」というと「グーゥ」と言ってにっこり笑い、握手を求めてきた。
マリリン先生は「アヌゥマダァ」とは殺人犯という意味です。「ヘロゥ」とは健治もよく使いますね、ヒーロー、映雄のことです。この二つの単語が使われる有名な映画があるのを知ってますか?」
「いいえ知りません」と答えると「チャップリンは知ってますね、チャップリンが作った殺人狂時代という映画を見て下さい。字幕は見てはいけませんよ。
すると今言った二つの単語が聞こえてくるはずです。それが聞こえたら、今のように自分も声に出してください。意味は分からなくても後で分かります。
聞いて覚えても、それだけではダメです。聞こえたことをそのまんま自分も言えて、初めて英語を覚えることができるのです」と言った。
そのあともポイジェン(毒薬)とかストレィジェイション(絞殺)など、殺人狂時代に出て来る言葉を言っているうちに段々と、英語の文が聞き取れるようになってきた。
チャップリンの殺人狂時代という映画には「一人を殺せば犯罪者だが、100万人殺せば映雄になる」という有名なセリフが出てくる。
マリリン先生は「殺人」という「ドキッ」とするような単語なら、字幕を見なくても耳に残り、俗にいう英語耳ができると考えて、実践していたのであった。
彼女はこの教え方を他の先生たちと議論したことがあって、この英会話教室では他の先生たちも同じように教えていた。
この映画ではチャップリン扮するアンリ・ヴェルドゥという男が次々と女性を殺して、金を巻き上げるのだが、唯一殺せなかった人がいて、その女性を演じた女優が、マリリン・ナッシュという人であった。
それ以来、キャサリン先生はマリリン先生と呼ばれるようになった。
健治と一緒に入学した智子の担任は、ジェニファーという女性であった。
ジェニファー先生は智子に「映画『フラッシュダンス』を見て下さい。
「スツゥパァ」という単語が出てくると思います。そうしたら智子も「スツゥパァ」と言って下さい」といった。
「スツゥパァ」とは日本人なら多分、「ストリッパー」と発音すると思う。
そうあの裸で踊る女性のことである。映画フラッシュダンスには、ストリッパーが踊るシーンが何度も出てくる。
ジェニファー先生は敢えて、女性にとってあまり聞きたくない言葉を聞かせることで、英語耳を作らせようとしたのであった。
フラッシュダンスは封切りされた直後で、健治と智子はデートのとき、この映画を見に行くことになった。英語の勉強のためと思って内容には期待していなかったのに、終わってみれば、主人公の女性のお姉さんがスケートのプロを目指してるなど、智子とも重なる部分があって、智子にとっては結構泣ける映画であった。
偶然だと思うけど、映画フラッシュダンスの主演の女優は、ジェニファー・ビールスという人で、智子の担任のジェニファー先生と同じ名前であった。
この日以来健治と智子の二人は、メキメキと英語力を高め、健治は通訳がいなくても、クラブエスカイアに出演する外国人アーティストと打ち合わせができるようになった。
☆☆☆
寿町の洋子のマンションに里奈がやってきた。
「長崎屋が特売だったので、じゃが芋と玉ねぎを買って来たわよ」
「わあ、助かるわ、ちょうど切らしてたとこだったのよ。
「いいのよ、洋子はそのお腹でしょ、重たい物を持っちゃダメなのよ、言ってくれたら私が買いに行くから、特売のチラシをよく見とくのよ」
「里奈が近くにいてくれて、助かるわ」と言っていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴って、豚肉とキャベツを持った汐未がやってきた。
「あら、里奈もきてたの、ちょうどよかったわ、あんたに話しておきたいことがあるのよ」
「何のことかしら」
「昨日ね、高弁ちゃんとあんたの家のヤギを見に行ったのよ。それでさ、夜になったら野良犬が来るでしょ。だから高弁ちゃんのお友達の沢村さんという人に頼んで、夜警をしてもらうことにしたんだけど、ダメだったかしら?」
「ダメだなんてそんなことはないわ、逆よ助かるわ。実は私もあの家を留守にしてるとき、ヤギはどうしてるのかと、心配してたのよ。
それで沢村さんにいくら払えばいいの?」
「大丈夫よ、お金は要らないわ、沢村さんはただで、何でもやってくれる人なのよ。
それとね、冬になって雑草が生えなくなったら、キャベツとか新鮮な野菜を持ってきてくれるから、心配は要らないよ」
「沢村さんって人はそこまでやってくれるの?信じられないわ」
「だだね、ちょっとだけ里奈に謝らないとね」
「謝るって何なの?」
「実はね、沢村さんに『この洋館の女主人は私に『私は市に任命されて仕方なくここに住んでるのよ。一般庶民のあんたは、私の命令に従ってキャベツを買ってきて、お山羊さまに食べさせなさい!』って言ったのよ、そしたら沢村さんが同情してくれて『いいですよ、僕が代わりに夜警をやって、冬になったらキャベツを買ってきます』って言ってくれたのよ」と、実際に言った何倍にも膨らませて言った。
「えー! そんなことまで言ったの、ひどいわ」
「でもね、これくらい言わないと人は動いてくれないわ。㋖北村をみてごらんよ、
あの会社が潰れたのは、幹部の連中が部下を動かせなかったからじゃないの?、
私はね、もしニュー東宝が潰れてしまったら、そのときはどうやって生きていけばいいのかと、毎日考えてるわ」
「…………」
里奈と洋子は汐未の生き方に圧倒されて、声も出なかった。
「あのヤギをくれた中標津の紺野さんはきっと、娘を嫁に出すような気持ちで送りだしてくれたと思うわ。そんな可愛い娘みたいなヤギを粗末に扱っていいと思うの。
私は少しくらいなら誇張しても、あのヤギのためなら許されると思ったのよ、
里奈には悪いと思うわ、でもこういう言い方で相手を説き伏せて、結果が良ければそれが一番いいと思ったのよ」
「そうだったの、最初はびっくりしたけど汐未の考えも少しは分かったわ」
「私もよ」と里奈と洋子は少しだけ納得したようだった。
「そうそう、私が持ってきた豚肉とキャベツで和夫さんに、豚丼を作ってあげなさいよ、作り方は中標津の美津子に電話で聞くといいわ、美津子は豚丼の本場の帯広の出身だから、きっと知ってるわよ」
「じゃあうちも甚弥さんに豚丼を作ってあげようかな」と、寿町はヤギと豚丼で締めとなった。
「じゃあーね」といって帰りかけた汐未が「あー私ってバカね、もっと大事なことを忘れてたわ」と珍しく、反省して見せた。
「何を忘れたの?」
「あのね、高弁ちゃんと菊池順子さんが結婚することになったのよ」
「えーっ、本当なの」と洋子と里奈は今度こそ正真正銘、驚くこととなった。
「じゃあ、汐未が仲介したの?」
「私は何もしてないわ、自然の成り行きでこうなったのよ」と言ったけど、
汐未は少しだけ、高弁に持っていたある種の感情を、胸の奥に沈めて行った。
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