心來人
ハヤシカレー
『未練影憑藻の成り済まし』—《壱》
——此処は何処だ。
僕は何故此処に立つ。
確実に〈アジト〉のソファーで眠りについたはずだ。
それなのに何故、僕は砂浜に居るのだろう。
つま先に触れ、離れを繰り返す白波が厭に冷たい。
人体の六割を占める水分全てを雲の糧としようとする有り得ぬ猛暑により、蒼穹と蒼海の出会う所、地平線が歪められている。ぼおっと眺めていると、なんだか呑み込まれてしまいそうだ。
こういうのは大抵は夢に過ぎないのである。
だから、気にする必要は無い——目が覚め、夢が覚めるまで待っていれば良いだけの事だ。
いや……違う?
これは……夢では無い?
感覚があまりにもリアル過ぎる。
先に述べた白波の冷たさもそうだ。
段々と砂に埋もれる足に覚える熱も、
黒髪が象る
まさか
それも無い、そんな事は有り得ない。
ならば何故、どうして……此処に僕は立つ。
寝ている内に運ばれた?
それならば、意識が覚醒した瞬間から直立しているのはおかしいだろう。
だったら自分で移動しただけであるのに、その事を忘れている?
それも無いだろう、まだ痴呆は始まっていない。
……やはり夢か。
まあ——現実も夢も、脳の描く映像に過ぎないのだから、現実のように思えてもおかしくはないか。
脳と意識は——これは持論だが——別々な物である。ならば僕自身が夢であると認識していても、現実にしか見えない、という現状は十分有り得るだろう。
「……誰だ」
——居る。
誰かが……人が、居る。
僕はかかとに触れる砂が、僅かに盛り上がったのを感じ、背後に何者かが立ったのだと察する。
吐息は……無い。
心音も聞こえない。
そこに人が居る根拠となるのは砂の移動と気流の変化だけである。
——暗殺?
「背後のあんた。あれか、忍者の類か?」
ジョークを交えて問いかける。
「いえ——忍者ではありません。〈術〉は使いますが」
高音——女の声だ。
溌剌とはしていない。淡々とした感のある、抑揚が出来る限り抑えられた冷たい声である。
直前までの暑さが嘘——夢であったかのように消え去り、背筋が凍らせられる。
殺意。
これは殺意だ。
この女……おそらく少女は僕に対して明確な殺意を向けている。
——敵だ
「敵じゃあないですよ、少なくとも——今現在は」
心の内を見透かした風に言う。
敵ではない、
少なくとも今は——つまりこれからの僕の返事によっては敵になる。この殺意がただの思想ではなく実行=事実殺人行為となるのだろうか。
——まあ、殺されるつもりは毛頭無いのだが。
刀も銃も毒も、
暗殺者だの機動隊だの——そして忍者。
如何なる攻撃が、戦略が牙を向こうと僕は死なない。
——過信なのかもしれない。
しかし、それが過信であろうと、事実に基づく自信に違いはない。
「過信ではないかと。実際、今貴方が並べられた物や者をしても、貴方は傷一つ負わずに勝利すると思いますよ?」
「……読心術だとか……技術による物か? それとも——」
さっき言っていた〈術〉とやらで思考を読まれているのだろうか。
「今思考した通り、術——総称は
厳密に言えば、読心は心來式による物ではなく副産物のような物なのですが——と、少女は付け足す。
「それにしても……流石は兵器人間だの、殺戮人形だのと呼ばれる〈
呆れたような口調だった。
事実呆れているのだろう。
「殺意を向けているのはあんたの方じゃないか」
「この程度の殺意を殺意と捉えているのは貴方の方ですよ。随分と生に執着しているようで」
生に執着、生きる事にまっしぐら——か。
それについては図星である。
彼女の言う通り、僕は生きる事だけを考えて——そして、生きている。
「……そろそろ本題を話したらどうなんだ? 夢なんてのはさっさと覚めるべきだ」
「ですね——ええ、私もお話をする為だけに貴方のような怪物の背後に立った訳じゃありませんし」
訥々と言いながら、少女は歩き出し——僕の横に立ち——そのまま正面に行く。
正面に立つ。
「たったの二人の何でも屋でありながら——そういう世界の組織と名を連ねる〈オムニス〉、その主戦力——弑抒忍さん」
白だった。
少女は白い——そうとしか言い表せない。
脱色している訳ではなく、ただただ一切の汚れを纏っていない純白の髪……ショートヘア。
同じく白のローブとニーソ。その合間に覗く素肌もそれが生体とは思えぬ程に白い。
生者のように赤くない。
死者のように黒くもない。
ただただ——どこまでも——白い。
僕の前で言葉を綴るのはそんな少女であった。
「貴方に通告——いえ、命令があるのです」
少女は握手を求めるように右手を前に突き出す。
命令などと言っているくせに——握手?
言葉と動作のチグハグさに困惑している間も、彼女は続ける。
「今日、貴方は人間としての尊厳を失い、
その手は、握手など求めていなかった。
その手には、刀が握られている。
刀は——
——刃は僕の額を、脳天を貫いていた。
——
勢いよく目を覚ます。
生きている。
僕は生きている。
死んじゃいない、脳天など貫かれちゃいない。
——なら額に感じるこの痛みはなんだ?
ソファーから降りてみると、その疑問への答えはすぐに見つかった。
「……ぶつかっただけか」
床には少女が転がっていた。
少女……
オムニスの——僕の相棒を名乗る——
どうやら飛び起きた際に衝突したらしい。
掛け時計に目をやると、長身がもう既に十二時——お昼の頃を指していた。遅起きにも程があるから起こそうとしていたのだろうか?
ともかく、額の痛みは剱と衝突による物であり……やはり僕は脳を貫かれていない。
所詮は夢、絵空事である。
「……」
灰色の、殺風景な部屋、と呼べるかさえ怪しい箱と外とを繋げる扉を見る。
——閉ざされている。
しっかりと閉められている。
侵入者は……まだ居ないはずだ。
「……全部夢だ、あまりにリアルで、痛みがあるだけの——普通の、夢だ」
ソファーに背を掛ける。
自分の温もりの残滓が不快だった。
「僕は——生きている」
生きている、生きている——?
これまで固執してきた事であるというのに、なんだか初めて覚えた感覚である——風に思えた。
そんな訳無いのに。
僕はいつだって——生きていたはずなのに。
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