第23話 月夜・三

「う、ぁ、あ……」


 月明かりの中、ジクはシロツメクサの花畑に膝をついて顔の左半分を抑えていた。指の間からは絶えず生温かい血があふれ出ている。 


「ギ」


 痛みにぼやける半分になった視界の中で、長い虫のようなあやかしが半身をもたげて満足げに金泥色の目を細める。早く刀を抜いて切り捨てないといけない。そう思い震える手をなんとか柄にかけ立ち上がると、細かい牙が生えそろった丸い口が窄まった。


「ギ」


「うわっ!?」


 避ける間もなく吐き出された黒い泥が残された視界を覆う。


「ぐっぅ……っ!」


「ギ、ギ」


 塞がれた視界の中、牙が合わさるガチガチという音と長い身体が地を這うズルズルという音が聞こえてくる。痛みを堪えて顔を拭うと、ぼやけた視界の中で円形の口が腿に添えられているのが見えた。


 マズいと思ったときにはすでに遅く、細かい牙がズボンごと腿を抉っていた。


「うぁ゛ぁぁあっ!?」


 激しい痛みに、ジクは思わずてらてらと光るあやかしの頭を掴んだ。

 

「っ離れ……ろっ!」


 必死に押し返すが円形の口は嫌な水音を立てるばかりで少しも離れない。


「っぐ、ぁ」


 痛みが激しさを増すにつれ腕と脚から力が抜けていく。


「うぐ……」


 堪えきれず後ろに倒れ込むと肉を削ぐように食んでいた口がゆっくりと離れた。破れたズボンから覗く傷口の中心には、薄らと白い骨のようなものが見えている。


「ギ」


 あやかしは口から血を滴らせながら金泥色の目を細めた。ジクはなんとか体勢を立て直しそうと身をよじったが、身体が思うように動かない。そうこうしているうちに、今度は逆の脚に向けてゆっくりと頭が近づいてきた。


「っ……さっさと腹を食い破ればいいのに……、なぶり殺す気、か……」


 憎々しげな呟きに金泥色の目が更に細められる。それからすぐに再び脚に円形の口が貼り付いた。

 再び鋭い痛みが体中を走り抜ける。


 このまま、痛みに身を任せてしまえば夜が明ける前には腹を食い破られ命を失うだろう。

 それもまた、償いの形なのかもしれない。



「じゃあ楽しみにしてるよ」



 不意に朝日に照らされた包帯まみれの微笑みが脳裏をよぎった。


 今ここで命を失えば呪いはどうなるのだろうか。

 ロカは解くことを放棄したと明言している。

 次に魂が還ってくるのがいつになるかは分からない。

 そもそも、今度も全てを思い出せる補償もない。

 呪いを解いてくれる他の者が現れるのがいつになるかも分からない。



 その間、セツはずっと地獄のような仕事・・を繰り返すことになる。


 

 それならば。


「……!」


 ジクは痛みと悲鳴を堪え、重くなった腕を持ち上げて再び頭を掴んだ。そのまま爪を立てると脚を食い進む口の動きが止まった。


「っ悪い、けど、まだ死ねない、から……」


「ギ……」


 あやかしはゆっくりと口を離しながら頭をふった。指はすぐに振り払われれたが、爪が食い込んでいた部分からは紫色の体液が滲んでいる。


「ははっ……、ざまあみろ……」


「ギ」


 軽い挑発に金泥色の目が不服そうに歪んだあと腹部に向けられた。

 腹を食い破ろうとしているのはすぐに分かった。腕はまだ重いが少しも動かないというわけではない。それでも、致命傷を負わせられるほど自由には動かせそうにない。ただし、口ならばまだある程度は自由に動かせる。


 緩やかに近づいてくるあやかしに向かって、ジクもおもむろに身を起こした。

 腹を食い破られる前に、頭を食いちぎってやろうと顎に力を込める。


 

 その瞬間、辺りが甘い芳香に包まれた。



「ほら、もっと美味いものをくれてやるから、こっちにおいで」


 夜風に紛れ酷く穏やかな声が聞こえてくる。


「……ギ」


 あやかしはゆっくりと声のほうへ頭を向けた。その動きを目で追った先で、退治人装束のセツが微笑みながら血の滴る手をヒラヒラと振っている。


「ギ」


 ズルズルと音を立てながら、長い身体が甘い香りに向かって這いずっていく。


「よしよし、いい子だな。ほら、めしあがれ」


「ギ」


「ぐっ!」


 あやかしが腹部に食らいついた途端、薄灰色の目が歪み白装束の肩が大きく跳ねた。


「セツ……っぐぅ!?」


 ジクは立ち上がろうとしたが、両脚からの激しい痛みに遮られた。


「……っふ、ふ」


 滲む視界の中で、薄い唇が軽く孤を描く。そして震えながら「まだ、待て、だ」と弱々しく動いた。

 その間も、あやかしは腹を食い進んでいく。


「……かはっ!」

 

 不意に薄灰色の目が大きく見開かれ、華奢な身体が弓なりにのけぞった。その途端、あやかしもビクリと跳ね、深紅の糸を引きながら腹から頭が離れていった。


「ギ、ギ」


 呻くような声を漏らしながら、黒い体が灰色に変わっていく。


「……」


 全身の色が変わると、長い虫のようなあやかしは塵となり崩れていった。


「セツ!」


 ジクが激しい痛みを堪えて駆けよると、セツは口の端から血を垂らしながら微笑んだ。


「っず、いぶん深手を負ったみたい、だな」


 腕の中に倒れ込みながら血に濡れた手が優しく頭をなでる。


「よしよ、し。痛かった、ろ?」


 覗き込んだ顔に、穏やかな微笑みが浮かんだ。それでも、密着した腹からは生温かい体液が流れ出る感触が絶えず伝わってくる。


「戻ったら応急処置を……」


「……セツは?」


「……ん?」


「セツは、痛く、ない、の?」


「……」


 今さらすぎる質問に薄灰色の目が軽く見開かれ、すぐに穏やかに細められた。


「……痛かったに決まってるだろ」


 当たり前すぎる答えを呟いた薄い唇が、すぐに緩やかに孤を描く。


「でも、ジクがちゃんと終わらせてくれるんだよな?」


 むせ返るような芳香の中、酷く優しい微笑みが首を傾げる。


「う……うぐっ!?」


「わっ!?」


 返事をしようとした途端に激しい痛みに見舞われ、ジクは抱きしめたセツを上に乗せるような体勢でシロツメクサの上に倒れ込んだ。 


「はは。こんなときに転ぶなんてなかなか様にならないな」


「……ごめん」


「ま、いいさ。そんなことより」


「……っ」


 黒い紋様が刻まれた血まみれの手が軽く胸を撫でた。


「悪かったな、ジク。面倒な役割を押しつけてしまって」


「っそれは、セツのせいじゃなくて、全部、僕のせいで……」


「はは、違うだろ。私をめちゃくちゃにして呪いを掛けたのは、あの赤髪のあやかしだよ」


 穏やかな声と共に手が滑るように頬へと移動していく。

 

「あいつはもう、ずっとずっと昔に塵に帰したんだ。ジクが気に病むことじゃない」


「でも、魂が……」


「それもきっと、前に使ってた鎮静剤の名残と私から聞いた昔話のせいで、たちの悪い思い込みに囚われてしまっただけだろうさ」


「……っん」


 血に濡れた手が慈しむように頬をなで続ける。


「まあでも、ジクがヒサだったのは事実かもしれないな」


「え?」


「昔から、私のことを気に掛けてくれる優しいいい子だったから」


「そんな、ことな……い゛っ!?」


 突如として脚からの激痛がジクを襲った。ある種の興奮状態によって忘れていたが、傷が塞がったわけではない。


「ぅ……、ぁ……」


「……っよしよし。痛い、よな。ん」


「う……ん……」


 呻き声を上げる口に、薄い唇が覆い被さり舌が入り込む。吐血の名残なのか、鉄と花と果実がデタラメに混ざった味が一気に広がっていく。しかし、不思議といつも感じていた薬臭さはない。


「ん……?」


「ん……っは、どうだ? 少しは楽になったろ」


「え? あ……」


 セツの言うとおり、違和感に気を取られているうちに激痛はやわらいでいた。それでも、傷口から血が流れ出ていく感覚は止まらない。


「文献によるとな、人の血やら肉やら諸々を食うことのできるあやかしは、食事をすると通常ではありえないくらいの回復をみせるそうだ……ん」


 穴の開いた腹が体に密着し、薄灰色の目が僅かに苦しげに細められた。


「……セツ?」


「さっきのあやかしがつけた傷は、血が止まりにくくなるからな。このままだと、応急処置をしたところで夜明けまで持たないかもしれない」


「そう……」


「もしも、もう疲れたと言うならこのまま最期まで看取るよ。ただ、そうじゃないなら目はもう無理かもしれないが……っく」


「……っ」


 白い指が触れるか触れないかの距離で唇をなでた。


「……私の呪いを解いて傷を癒やすといい」


 穏やかな声からは悪意も皮肉も感じられない。


「どちらを選んだとしても、恨み言を吐くつもりはないよ」


「……」


 密着した腹からは絶えず温かい液体があふれ出ている。

 それでも、この穴も夜が明ける頃には何事もなく塞がっているのだろう。


 そしてまた、この任務の続きか新しい仕事・・に向かうことになるのだろう。


「……っセツ」


「ん?」


「……っぐ」


 再び襲ってきた痛みを堪え、背中に腕を回し白い首筋に顔を埋める。



「……愛してる」


「……そうか。ありがとう」



 囁いた言葉に酷く優しい声が返された。


「ジクは優しいいい子だな」


 頬を撫でていた手が頭に移動し緩やかに赤銅色の髪をなでる。


「……」


 このまま頭をなでる手をずっと感じていたくなる。

 それでも、もう約束を果たさなくてはいけない。


「じゃあ、いくよ……」


「ああ……っぅっ!!」


 首筋に牙を突き立てると口中に花と果実と血がデタラメに混ざった味が広がった。


「っぐっぅぅぅぅ!」


「っう」


 押し殺した悲鳴と甘美な味と激しい痙攣に追い立てられるように、ジクは更に深く深く牙を突き立てていく。白い首筋からはブチブチという音が響き始めた。


「――! ――!」


 腕の中で華奢な体が何度も何度も跳ねるように痙攣する。


 それを押さえつけるようにきつく抱きしめながら、ジクは白い首筋を食いちぎった。

 

 噴き出した血からは芳香が溢れ、口の中の肉からは歯を立てる度に甘美な味がにじみ出す。薄い肩に顔を埋めながら名残を惜しむように咀嚼しているうちに、腕の中の痙攣が弱々しくなっていった。



 咀嚼を終え肉を飲み込むころに、傷口から噴き出す血が止まった。上に乗った体からはいつもより重さを感じる。

 ジクは肩から顔を上げると、脱力した体を少し持ち上げ血の気を失った顔を見つめた。


「……セツ」


「……」


 呼びかけても返事はない。

 滲んだ視界の中にはただ穏やかな寝顔が浮かんでいる。

 

「……お休みなさい。どうか、安らかに」


 冷たい唇を軽く食み、力を失った体を再びきつく抱きしめる。


 月明かりが照らすセツの手は、黒い紋様など初めから存在しなかったかのように白く滑らかだった。

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