幕間

第16話 いつか私を

「いつか私を──」


 穏やかで哀しげな声に、ロカは目を覚ました。目覚めの気分は最悪というほどではないが、再び眠ろうと思えるほど穏やかでもない。

 サイドボードに置いた目覚ましは午前五時ちょうどを指している。執務室には確認および承認しなくてはならない書類が山ほどある。疲れは残っているが、このまま起きてしまったほうが得策だろう。

 深いため息とともに、翼の生えた身体がベッドから起き上がった。


 朝日が差し込むダイニングで朝食を口にしながら、ロカは先ほどまで見ていた夢のことを考えていた。物心ついたときからよく見ている夢だった。


 木漏れ日の中で誰かが自分を見下ろしている。顔は影になって見えない。それでも、悲しそうにしていることはなぜか分かった。

 その人は頭をなでながら謝罪の言葉を繰り返す。謝らなくていいと伝えたいのに声が出ない。しばらくすると、見上げる顔が悲しそうにしたまま微笑むのを感じる。


「いつか私を──」


 薄い唇が全てを言い終わる前にいつも目が覚める。

 

 それでも、言葉の続きは何故かずっと昔から知っていた。




 軽い痛みが走るこめかみをさすりながらコーヒーを口にすると、廊下から軽い足音が聞こえてくる。扉が開くと、黄色いパジャマを着たヒナギクが駆け寄ってきた。


「ロカ様、おはようなんだよ!」


「おはようございます、ヒナギク。サンドウィッチを作ってありますが、食べますか?」


「うん、食べるよ! ロカ様が作るサンドイッチは美味しいから大好きなんだよ!」


「それはどうも。じゃあ、持ってくるんで待っててください」


 柔らかな髪の毛をなでると、幼い顔に満面の笑みが浮かんだ。


「うん! 分かったんだよ!」


 いそいそと席につく姿を横目にキッチへ向かい、サンドイッチと牛乳の入ったコップを持ってテーブルに戻る。


「どうぞ、召しあがれ」


「いただきますなんだよ!」


 元気よくそう言うと、ヒナギクは酢漬けのキャベツとニシンが入ったサンドイッチを頬張った。


「やっぱり、ロカ様の作る朝ごはんは美味しいんだよ!」


「それはよかった。ヒナギクは好き嫌いがないから助かりますよ」


「ふふん、なんだよ! でも、この間ロカ様がしゅっちょーのときにセツに作ってもらったご飯はちょっと、だったんだよ……」


「あの人の料理はなんというか、あれですからね……」


「うん、あれなんだよ……」


 ダイニングに二人分の悲しげなため息が響く。


「まあ、壊滅的な人がそばにいたおかげで、料理を含めた家事全般を身につけられたと思えばいいのかもしれませんが」


「前向きなことはいいことなんだよ!」


「ははは、まったくですね」


 再びコーヒーを口にしながら、ロカはセツと出会ったころを思い出した。


 

 セツと出会ったのは数十年前、翼と腕の両方を持つ珍しいセイレーンとして興行師の人間に飼われていたころだ。あやかしのひしめく円状の舞台に張りぼて武器を持たせた活き餌・・・たちを放ち、必死に抵抗をしながら食われるさま見せるというのが興行の目玉だった。

 ある夜、飼い主が良い香りを放つ銀髪の青年を担いで檻の前にやってきた。


生け簀・・・が一杯だから、しばらくお前のところに置いておく。お前はまだ利口だから分かると思うが、本番まで絶対に食うなよ」


 そんな言葉とともに、白い服を纏った身体が檻の中に投げ込まれた。


「痛たた……。食材はもうちょっと丁重に扱ったほうがいいと思……ん?」


 珍しいこともあるのだと眺めていると、薄灰色の目に見つめ返された。


 そして……


「……ははははは! 君、目つきわっるいなぁ!!」


 ……失礼極まりない言葉とともに大笑いされた。




「ロカ様、どうかしたの? 頭痛い?」


 心配そうな声でロカは我に返った。向かいの席で、サンドウィッチを手にしたヒナギクが首をかしげている。


「……いえ、大丈夫ですよ。ただ、ちょっと腹の立つことを思い出してしまって」


「それはよくないんだよ! ヒナギクがリラックスできるお茶を淹れてくるんだよ!」


「ふふ。じゃあ今はまだコーヒーが残っているので、仕事のときにお願いしますね」


「分かったんだよ! 今日はロカ様、お部屋でお仕事だよね?」


「はい。今日中に承認を終わらせておきたい書類がいろいろとあるので」


「そっか! ヒナギクはね、お昼からこの間届いたあやかしの身体を検査するんだよ! あ、でもジクに言われてお道具を貸しちゃったから取りにいかないとなんだよ」


「道具を貸している?」


「うん! なんかね、昨日の夜中にね、ちょっとセツの具合が悪いから検査したいっていわれたんだよ!」


「そう、ですか。一体、なにを貸したんです?」


「えっとね、クスコとかなんだよ!」


 満面の笑みとともに返された答えに、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。ろくでもないことになっている予感しかしない。少なくとも、ヒナギクに向かわせることは避けたほうがいい。


「ロカ様、やっぱり具合悪い?」


「……いえ、大丈夫ですよ。さっきの道具の話ですが、私が取りにいってきます。なので、ヒナギクは洗い物とお片付けをお願いできますか?」


「うん! 任せてなんだよ!」


「では、お願いしますね。私はジクたちの部屋にいってきます」


「いってらっしゃいなんだよ!」


 言いようのない脱力感を抱きながら、ロカはダイニングを後にした。


 ※※※



「毒餌?」


「そう、毒餌だよ。この下劣極まりない興行をまるっと綺麗にするためのね」


 セツと名乗った人間の青年は、自分の体質と課せられた任務を他人事のように語った。

 毒餌という役割りには多少戸惑ったがほぼ不老不死という体質と、体から漂う甘美な香りを鑑みれば当然のことだとも思った。人間にしろあやかしにしろ、自分の利益のためなら他者を文字通り食い物にする者をここでたくさん見てきた。


 それでも、言いようのない怒りが込み上げてくる。その原因は皆目見当がつかない。


「ところで、君は目玉の出し物には出演するのかな?」


 不意に目の笑顔が首を傾げた。


「あ、いいえ。今回はあやかしの数が充分なので、俺は恐怖心だとか敵愾心とかを煽る歌を歌う役を任されています」


「そうか、セイレーンの歌は聞くものの心に作用するもんなぁ……なら、そのまま歌に専念してくれ。間違っても私を齧りにきたりしないようにな。下手すると一口ぐらいで死んじゃうから」


「そう、ですか。でも良いのですか? 殲滅対象の俺にそんなこと教えてしまって」


「……いーのいーの! その感じだと、出し物に出るとき以外ろくに食事もとらせてもらってないんだろ?」


「それは、まあ」


「なら好都合だ。君みたいに堅物で扱いやすそうな子をたぶらかして、結社の手駒になるように仕向けるのも私の任務の一部だから」


「……貴方も、所属している組織も、こちらに負けず劣らずろくでもないですね」


「はははは、それは間違いないな!」


「必要ならそちらが有利に動けるようになる歌を歌いましょうか?」


「いや、大丈夫だよ。あいつらに怪しまれて君になにかあってはいけないからね」


 格子のはめられた窓から差し込む月の光が、銀色髪と穏やかな笑みが浮かぶ血の気のない顔を照らす。それが息を飲むほど美しく、胸が高鳴るのを感じた。


 同時に、繰り返し見る悲しい夢の人影と姿が重なるのも感じた。


 ※※※


 昔のことを思い出しながら長い廊下を歩くうちに、ロカはセツとジクが暮らす部屋の前にたどり着いた。チャイムを鳴らしてみるが、中からなんの返答もない。二人とも今日は非番だからまだ眠っているのかもしれない、しばらく時間をおいてまた来よう。そう思った矢先に、ドアがゆっくりと開いた。


 姿を現したのは私服姿のジクだった。


「……ああ、ロカ本部長でしたか。おはようございます」


 一瞬の間をおいて、向かい合った顔に社交的な笑みが浮かんだ。


「おはようございます。今、少し時間をもらえますか?」


「セツに何かご用ですか?」


 目の前の笑みが深まり、肌がひりつくほどの殺気を感じる。今までは牽制をされることはあっても、ここまであからさまに敵意を向けられることはなかった。

 そんなに変わっていないという言葉はなんだったのかと、眉間に鈍い痛みが走る。


「ジク、今日はセツではなく貴方に用があるんですよ」


 眼鏡の位置を直しながら告げると、向けられた殺気が消えてどこかあどけない表情が現れた。


「え、僕に?」

 

 目を丸くして首を傾げる姿はたしかに以前と変わらないかもしれない。そう思いながら、本題を切り出す。


「はい。ヒナギクが貸したという道具を返してもらいたくて」


「あ……」


 金泥色の目が面白いくらい分かりやすく泳ぐ。こういうところも、あまり変わっていないという所以なのだろう。

 言いようのない脱力感に襲われ、自然と深いため息がこぼれた。


「その様子だと、やはりヒナギクには説明できないような使い方をしているんですね」


「えーと、その……、はい……」


「まったく……。部下たちのプライベートにとやかく言う気はありませんが、ヒナギクが仕事に使うので昼までには返してくださいね」


「分かりました……」


「それでは、私はこれで」


「え?」


 帰ろうとした矢先、金泥色の目が再び見開かれた。


「どうかしましたか?」


「えーと、セツには会って行かないんですか?」


「ええ。しばらくは仕事・・の予定もありませんし、先ほども言ったように部下のプライベートに口を挟む気はありませんから」


「……ふーん?」


 不意にジクの顔に笑みが浮かんだ。先ほどのように殺気までは感じないが、どことなく不穏な気配を感じる。


「まだ、何か?」


「うん。ロカ本部長、今って時間あったりします?」


 心なしか以前より幼く感じる口調に背筋が軽く粟立った。

 セツとの関係は既に終わっている。余計なことに首を突っ込まずにさっさと立ち去るべきだ。

 頭の中で警鐘が鳴り響く。


「……午前中に終わらせないといけない仕事は、特にありませんね」


「よかったぁ! それなら、ちょっとの間セツを見ていてください」


「セツを?」


「はい。昨日身体をキレイにしてあげてたときに約束を破ろうとしたんでそのお仕置き中なんですけど、ちょっと道具が足りなくて買いにいかないといけないんですよ」


 予想通り、というよりも予想以上に状況はろくでもない。


「あ、僕が帰ってくるまでの間なら、好きに触ってくれて構わないですよ。お仕置き中だからセツが嫌がる・・・ことしたほうがいいですし。それじゃあ、僕はこれで」


 返事を待たずにジクは部屋を出ていった。呼び止めても無駄なことは一目で分かる。


「……」


 ロカは翼を軽く動かすと玄関を上がった。薄暗い廊下には微かに淫靡な香りが漂っている。


 その香りを辿り寝室の扉を開けると、ベッドに横たえられた一糸纏わぬ姿のセツが目に入った。



 薄灰色の目は黒い布に、耳はヘッドホンに塞がれ、頭上でひとまとめに拘束された手首はベッドの柵に括り付けられ、脚はヒナギクが貸した器具をつけられた下半身を晒すように縛られている。


「……っぁ」


 人の気配に気づいたのか白い裸体が微かに身じろいだ。


「ジク……、わるかったからこれ、もっはずし……っ」


 切なげな声とともに器具に苛まれる身体がゆれる。


「ジクぅ……、おねがいだからぁ……」


 熱に浮かされた声が自分の名を呼ぶことはもうない。それは約束を違えたときに覚悟していたはずだった。

 それなのに、胸の奥がチリチリと痛んだ。


「……」


 ロカは衝動的に薄い唇を塞いだ。舌を擦り合わせ、吸い上げ、薬と果実がでたらめに混ざり合った味を堪能する。


「っ、ん……」


 次第に舌が自ずから絡みだした。縋るような動きの舌から逃れるように口を離すと、目を塞がれた顔に戸惑いの表情が浮かんだ。


「っは……。ロ、カ……?」


 呼ばれるはずない自分の名前が部屋の中に響く。


「……」


「……っはは、これはまた、無様な所を見せてしまったな」


 快感に震える薄い唇が弧を描き、やや正気を取り戻した声がこぼれた。


「本部長殿が部下と……っ備品・・の痴話喧嘩に構っている暇なんて……、ないだろ?」


 どんな状況でも余裕を崩さずいつも自分を小馬鹿にする。


「……っだから、も、部屋に戻りなさい……。また、面倒ごとに、巻き込まれる前に」


 そのくせ、本当に厄介なことからは自分を遠ざけようとする


 そんなセツに自分だけを見ていて欲しかった。

 ずっと、ずっと昔から。



  いつか私を──。



 今ここでその願いを叶えれば、薄灰色の目に最後に映るのは自分だけになる。


「……っそれとも、ロカが呪いを解いてくれるのか?」


「……」


 それでも、この人の呪いは解かないと決心した。


「私はそれでも構わない、よ。前に用意したいざというときのあても、まだ使え……んっ」


 決心を揺らがせる言葉をこぼす唇を再び塞ぎ口内を蹂躙する。


「っ……はっ、ろ……か……」


 口を離せば薄い唇から苦しげな吐息と自分の名前が溢れる。惑わすような言葉はもう聞こえない。


「っぅ。ロ、カ……っ」


 名前を呼ばれるままに体を重ねしまえば、少なくとも淫らな熱に囚われているセツを解放することはできる。しかし、そのあと自分が厄介な執着に囚われることは明白だ。


「……ロカ本部長」


 不意に翼をやけに優しい手つきでなでられた。振り返ると満面の笑みを浮かべたジクが目に入った。


「セツを見ていてくれてありがとうございました。用事終わったんでもう帰って大丈夫ですよ」


 その手には小さなソーイングセットを持っている。


「っロカ、はやく……」


「ああ、ちゃんと遊んでくれたんですね。すっかりできあがっちゃって」


「ひぅ!?」


 軽く脇腹をなでられ、拘束された身体がびくりと跳ねた。


「ふふ、可愛い。こうなると、気持ちよくしてくれるものなら何でも・・・いいみたいなんですよ」


 満足げな笑顔があからさまな牽制の言葉を吐き捨てる。


「……そうですか。では、用事が済んだようなので俺はこれで失礼します」


「あれ? あっさり帰っちゃうんですね」


「帰れと言ったのはそっちでしょう。ともかく、器具は昼までに洗って返してください」


「分かりました」


「それと覚悟をしたのなら、ちゃんと呪いを解いてあげてくださいね」


「……分かっていますよ。そんなこと」


 ジクの表情が一転して不満げになる。


「っロカ……」


「じゃあ、僕はセツを可愛がらないといけないんで……ん」


「ロ……んむ!?」


 自分の名を呼ぶ唇が塞がれるさまを尻目に、ロカは寝室を出ていった。



「……ただいま、セツ。さ、お仕置きの続きをしてあげようね」


「っい゛!? や゛っ、いたひのや゛め゛っ」



 扉から聞こえる悲鳴のような嬌声に振り返らず薄暗い廊下を進む。




  いつか私を殺しにおいで。



 

 軽く痛む頭の中に、夢の中の言葉を告げるセツの声がはっきりと響いた。

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