第4話 静かな朝

 窓から差し込む朝日の眩しさと、漂うトマトの香りにジクは自然と目を覚ました。


「う……ん?」


 目をこすりながら起き上がると、香りの発生源はすぐに判明した。部屋の中央で灰色の作務衣を着たセツが、トランクをテーブルがわりにしてインスタントのスープパスタを食べている。その様子をぼんやりと眺めていると、薄灰色の目が視線を向けた。


「ああ、おはよう、ジク。よく寝ていたから先にいただいていたよ」


 機嫌のよさそうな笑みが、白い手袋をはめた手でスープパスタのカップを差しだす。


「お前も食べるか?」


 たしかに空腹は感じている。しかし、それよりも汗や諸々の体液でベタつく身体が気になった。


「……先にシャワー浴びてくる」


「分かった。同じものを台所に置いといたから、上がったら食べるといい」


「うん。分かった」


 ジクは立ち上がると、玄関脇の小さなキッチンスペースに置かれた電気ケトルとスープパスタを一瞥してシャワールームへ向かった。


 身体を清めスープパスタを片手に部屋へ戻ると、セツはすでに食事を終えて白いナプキンで口元を拭いていた。


「ああ、おかえり……ん?」


 不意に薄灰色の目が訝しげに細められた。


「ジク、お前その格好どうした?」


「え?」


 どうしたと言われても、いつもどおりの格好をしているだけだ。それなのに、目の前の顔は釈然としない表情を浮かべている。


「……なにか、変?」


「変と言うか、それ結社の仕事着だろ?」


「そうだね……ああ、大丈夫だよ。昨日のやつはセツのと一緒に、今ちゃんと洗濯してるから」


「それはありがたいが、私服に着替えないのか? 今日は非番なんだろ?」


「ああ、うん。服はこれ以外持ってないから」


「持ってないって……、服を買うくらいの給料は出てるはずだよな?」


「ああ、そうみたいだね。でも、シキ班長が管理してるから」


「は? 管理してる? シキが?」


「うん。だって半妖の報酬は上司が管理するっていうのが、青雲の決まりごとなんでしょ?」


「あー……」


 白い手袋をはめた手が、落胆した表情を覆う。その姿に胸が軽く締めつけられた。

 

「ごめん。なんか僕、変なこと言った?」


「いや、問題発言ではあるけれど、ジクが謝ることはないよ」


 顔を覆っていた手がゆっくりと外れて、苦笑いが現れる。


「とりあえず、それを食べるといい」


「あ、うん。いただきます」


 進められるがまま、トランクを前に腰掛けカップのふたを開ける。白い湯気を立てる赤いスープに、自然と昨夜のことが思い出された。


 牙が肉を抉っていく感触。

 苦しげな吐息と優しい声。

 口に広がる血と薬と果実がでたらめに混ざった味。

 身体中の血が沸き立つような快感。


 目の前にあるうっすらと噛み跡が残る白い首筋に食らいつけば、あの感覚がまた。


「しかし、この部屋はやけに静かだな。わりと安普請っぽいのに」


 呑気な声にジクは我に返った。


「ああ、うん。今この宿舎にいるのは僕だけだから」


 衝動をかき消すようにカップの中身をかき混ぜると、向かい合った顔に再び釈然としない表情が浮かんだ。


「お前、だけ?」


「うん。少し前に他のやつは処分・・になったんだ」


「……マジかぁ」


 深いため息とともに、またしても落胆した表情が白い手袋に覆われる。


「えーと、ごめん。また僕なにかまずいことを……」


「ああ、まあマズいのは大いにまずいが、ジクのせいじゃないからな。黎明期に異世界に飛ばされたやつらみたいな顔をしなくても大丈夫だ」


 それはどんな顔なんだ。そんな質問をするまもなく、薄灰色の目が金泥色の目を射抜くように見つめた。


「すまないジク。食べながらでいいから、その処分・・についての質問に答えてくれないか?」


「あ、うん」


 真剣な目つきと声に、自然と首が縦に振れる。


「ありがとう。それで、ことが起きたのはいつ頃だ?」


「たしか先々月くらいの、珍しく宿舎の全員が一斉に非番になった日だったかな」


「そうか。処分・・の口実……いや、理由はなにか知ってるか?」


「脱走しようとしたのが理由だって」


「脱走?」


「うん。そのときはなぜか、非番の日に宿舎から出られなくなるする術が切れて……」


「ちょっと待て、なんだその物騒極まりない術は?」


「なにって、半妖を集めて管理する宿舎には必ずかかってるっていう術だよ? ほら、あの外に出ようとすると嫌な音が大音量で鳴るやつ」


「……そうか。それで、その脱走は失敗したんだな?」


「うん。術の音の代わりに悲鳴があちこちから聞こえて、しばらくして様子を見にきたシキ班長が、脱走したヤツらは全員処分・・したって言ってた」


「お前は逃げなかったのか?」


「あー、うん。そのときも聞かれたけどね。別に逃げたって行くところもないし、捕まったらまた痛い目にあうだけだし」


また・・、ね」


「うん、そう」


 他人事のような相槌のあと、ジクはカップに残ったスープを飲み干した。


「……ごちそうさま。他に質問はある?」


「ああ、まあ脱走の件は大体把握したよ。それよりも、それでだけで足りたか?」


 白い手袋をはめた手が、からになったカップを指差した。


「うん。すごく久しぶりにあったかい物を食べたから、むしろいつもよりお腹いっぱいな気がする」


「そうか……ちなみに、いつもは何を食べてるんだ?」


「え? ほら、半妖の社員用に支給されてる、ブロックタイプの栄養食だよ」


「……分かった。色々と確認したいことが大渋滞しているが、とりあえず先に私がここに来た理由を話そうか」


「ああ、うん」


 そういえば、自分の世話も任務に入っていると言っていた。そう思っていると、薄灰色の目がどこか遠くを見つめだした。


「少し前にな、本部にタレコミが入ったんだよ。あやかしの血を引く社員たちが、不当な扱いを受けていると」


「そう、なの?」


「ああ。それで、本部長からの命令で実態の調査と社員の保護……と言っても、ジク以外は全員長期休暇で不在ということになっていたから、まずはお前だけでも保護することになったんだ」


「そうだったんだ」


 自分とそう変わらない年齢に見えるのに、本部長から直接命令を受けるなんて相当優秀なんだろう。そんなことを考えていると、薄い唇から乾いた笑いがこぼれた。


「そうだ。まあ、多少のことは覚悟していたが、さすがに予想以上だったよ……ちなみにシキには、『社員が多数長期休暇をとっている分の業務の手伝いと、人間関係の困りごとを解決するために来てる』って伝えてあるから、本当のことは内緒だぞ」


「うん、分かった」


「ありがとう。バレたらまた、厄介なことに……」



──ブー、ブー。


 突然、振動音が話を遮った。


「ああ、すまない。出てもいいか?」


「あ、うん」


「悪いな」


 セツが苦笑を浮かべ、作務衣のポケットからスマートフォンを取り出した。


「はい、こちらセツです。ああ、シキ班長でしたか! いえ、私もお会いしたかったところです!」


 乾いた笑いを浮かべる顔が、わざとらしく嬉しそうな声を出す。


「はい! すぐに伺いますね!」


 その声に、昨夜聞いた嬌声が重なった。


「では後ほど! ……まったく、シキめ。非番に呼び出すなんて公私混同にもほどがある、が、あわよくば本人の証言がとれるかもしれないしな」


 よいしょ、という掛け声とともに華奢な身体が立ち上がる。


「すまない、ジク。買い物にでも連れていってやろうと思ったんだが、急な呼び出しが……ん?」


 気がつけば、作務衣の上着の裾に手を伸ばしていた。


「こらこら、そんなに引っ張るなよ」


「なら、行かないで」


「そう言われても、これも任務のうちだし」


「でも、行ったら酷い目にあう」


「まあ、その辺も任務のうちだ。残念ながらね」


 苦笑を浮かべて肩をすくめる姿に、かける言葉が見つからない。それでも、手を離したくはない。


「……よしよし」


 うつむく赤銅色の髪を、白い手袋が優しくなでた。


「ジクはいい子だな。大丈夫、今までの任務に比べたら、このくらいなんてことないから」


「でも」


「まあ私もこのままバックれてしまいたいところだが、そんなことしたらより酷い目にあいそうだし」


「……」


 苦笑まじりの声に、裾を握る手が離れた。


「ふふ、お前は本当に優しい子だな。安心しろ、ついでに非番の日の自由行動くらいは勝ち取ってくるから」


「……別にいらない」


「そう言うなって」


「ん……」


 薄い唇が額に軽く触れて離れていく。


「すぐに帰ってくるから」


「……うん」


 ジクはあやすような微笑みから目を逸らして、小さく頷いた。


※※※


 大きな窓から日の光が差し込む部屋。

 白い詰襟のスーツに身を包んだセツが、愛想のいい笑みを浮かべていた。机を挟んだ向かいでは、同じく白いスーツ姿のシキが頬杖をついてにやけている。


「それで、本日のご用件は?」


「いや、なに。明るいところで貴様の姿をよく見ておきたくてな」


 脂下がった顔が舐めるように全身を見回す。


「ふん。夜目でごまかされていただけかとも思ったが、なかなかではないか」


「お褒めにあずかり、恐悦至極でございます」


 社交辞令はいいから早く本題に入れよ。そう思いながらも、愛想笑いは崩れない。


「そうかしこまるな。貴様のことは少しは気に入っているんだ」


「本当ですか? シキ班長のような優秀な方にそう言っていただけるなんて、嬉しいです」


「ははは、ずいぶんと見え透いた世辞を言うじゃないか」


「そんな、本心ですよ。なにせ半妖の社員たちをあれだけの数率いているのは、社内でもシキ班長の他には誰もいないですからね。色々とご苦労もなさったのでしょう?」


「……ああ。まったくだ」


 上機嫌だった表情が俄かに険しくなった。


「あのバケモノどもめ、拾ってやった恩を仇で返してくれて」


「おや? 何かトラブルでもあったのですか?」


「……貴様、上から何か聞いてないのか?」


「ええと、先日お伝えしたとおり『長期休暇をとっている社員たちの穴埋めをする』および、『危険集団制圧班の人間関係を円転滑脱にする』という命を受けていますが、それ以外はなにも」


「……ふん、そうか。まあ、ろくに役にもたたないバケモノどもが騒ぐから休暇をくれてやったおかげで、仕事が滞って仕方ないというのが目下頭を抱えている問題だ」


「さようでございましたか」


 さすがにすぐには口を滑らさないかと、愛想のよい笑顔が内心で舌を打つ。


「シキ班長の素晴らしさに気づかず権利ばかり主張するなんて、愚かな奴らなんですね」


「そうだろう、そうだろう」


 それでも、少しおだててやればすぐに気をよくする。必要な言質をとるのにも、そう時間はかからないだろう。そう考えていると、プライドの高そうな顔に再びにやけた笑みが浮かんだ。


「まあ、そんな多大なるストレスを抱えた責任者のにつきあうのも、人間関係を円滑にする第一歩だと思わないか?」


「……ええ、まったくですね」


 わざとらしく艶っぽい笑みをつくると、頬杖をついた顔が満足げに頷いた。


「うむ。従順なのは嫌いではないぞ」


「ありがとうございます。では誠心誠意、気晴らしの相手を務めさせていただきますね」


「結構、結構。ならば、自ら服を脱げ」


「かしこまりました」


 セツは軽く頷くと、襟元に白い手袋をはめた手をかけた。

 上から順に時間をかけてボタンを外していき、身体を大袈裟にくねらせて見せつけるようにしながら上着を脱ぎさる。シャツのボタンも、同じようにゆっくりとはずしていく。


「おい、貴様」


 しかし、胸元までボタンを外したところで、シキの声が動きを遮った。


「なんだ、その汚らわしい跡は?」


「え……? あ」


 咄嗟のことで戸惑ったが、見当はすぐについた。忌々しげな視線が首筋に向いている。


「まさか、ジクにやらたのか? あのバケモノめ。従順だからと目をかけてやっていたのに、これは即刻処分をせねば」


 これは厄介なことになった。そう思いながらも、セツは笑顔を崩さずに首をかしげた。


「シキ班長、どうかお待ちを。あの子はなにも悪くないんです」


「ふざけるな! バケモノのくせに人様のものに傷をつけておいて、なにが悪くないだ!?」


「ええ、お怒りになる気持ちは分かります。でも、そのお怒りは私に向けてください。すべて、私のせいですから」


「……どういうことだ?」


「はい。実は昨夜シキ班長に躾をしていただいてから、身体が疼いてしかたなかったのですよ。しかしお忙しい貴方を呼び戻すのは忍びなくて、宿舎に押しかけあの子を無理やり玩具代わりにして疼きを慰めていたんです」


「……それで? 疼きはおさまったのか?」


「いえ、少しも。所詮は玩具代わりですからね。だから、早くシキ班長にお会いしたくて仕方なかったんです」


 吹き出したくなるくらい白々しい言葉。しかし、目の前の男を満足させるには充分だったようだ。


「はっはっは。貴様はとんだ淫乱だな! 少しは可愛がってやろうかと思ったが、気が変わった。許可なく一人で楽しんでいた罰もかねて、望み通りたっぷりと躾けてやろう!」


「はい、どうかお願いいたします」


「うむ。少し待てだ」


 口で満足させて適当に切りあげようと思ったのに面倒なことになった。そんな心の内を知るよしもなく、シキが嬉々としながら机の引き出しを漁りだす。取り出したのは赤黒粘液が入った小瓶。


 中身を確認した途端、セツは一瞬だけ眉をひそめた。


「ほう、これが何か分かるのか?」


「……ええ。以前、同じタイプのあやかしを退治したことがあるので。媚薬で弱らせた獲物の身体を溶かして捕食するスライムですよね?」


「その通りだ。まあ、これは尋問用に改良してあるから、物を溶かすほどの威力はないがな。さて」


 瓶のふたを捻りながら、下卑た笑みがゆっくりと近づいてくる。


「跪け」


「はい……うっ」


 床に膝をつくとふたを開けた瓶が突きつけられた。微かに腐敗臭が混ざった甘い香りが鼻をつき、目の前がグラリと揺れた。


「はっ……、はっ……」


 呼吸が浅くなり、鼓動が早まり、全身が火照っていく。どうやら威力が弱められているのは、溶解能力のみのようだ。


「もう待ちきれないようだな? ほら、存分に味わうといい」


「はい、ありがとうございます……」


 はだけた白い胸元に赤黒い粘液が垂らされ、欲望に塗れた躾が始まった。



※※※


「……っ」


 全ての躾が終わると、セツは崩れるように床に伏せた。頭上からは満足げなため息とズボンの乱れをなおす音が聞こえる。


 ようやく終わったと、涎に塗れた薄い唇がため息を漏らす。


「悪くない気晴らしだったな」


「っありがたき、しあわせ……。あの、シキ班長?」


「なんだ?」


「口づけをして、いただけますか?」


 ふらつく身体を起こしズボンと下着を上げながら微笑むと、プライドの高そうな顔に笑みが浮かんだ。


「ははは! 随分と可愛らしいことを言うな! いいだろう、躾をまじめにうけたほうびだ!」


「んむ」


 銀色の髪が乱暴に引き上げられ、乱暴に割り入った舌が口内で暴れまわる。


 キスもジクのほうが好みだ。ぼんやりと考えているうちに、唇は離れていった。


「っは。これで満足か?」


「……はい、シキ班長にこんなにも可愛がっていただけるなんて幸せです」


「ははは! そうかそうか!」


 白々しい言葉にもかかわらず、向かい合った顔は上機嫌なままだ。


「それと、もう一つだけお願いが」


「欲張りなやつめ。なんだ? 言ってみろ」


「はい。実はお恥ずかしい話、私は生活能力というのが皆無でして……、小間使いのようなものがいると助かるのですが。奇襲を受けたときにの盾にもできるようなものが」


「ああなら……、言い聞かせておくからジクを持っていけ」


 投げやりな言葉に、薄い唇が弧を描いた。気晴らしに付き合ったおかげて、憤りも落ち着いたのだろう。成果としては上々だ。


「あれは頑丈で、まだ従順なほうだからな」


「ありがとうございます」


「ただし、玩具代わりに使うのはなしだ」


「かしこまりました」


「では、俺はもう行くから部屋の掃除をしておけ」


「仰せのままに」


 深々と頭を下げているうちに、ドアが閉まり足音が遠くなっていく。


 完全に足音が聞こえなくなると、セツは疲れた顔で頭を上げた。


「まったく。生活能力がないと伝えたそばから、掃除なんて押しつけてくれて。さっさとシャワーを浴びて休みたいのに」


 ブツクサと呟きながら、白い手袋をはめた手が上着を拾いあげる。


 

  ああ、うん。

  服はこれ以外持ってないから。



 不意に、ジクの顔が頭に浮かんだ。


「……とりあえず、休むのは買い物の後かな」


 シワのできた上着を羽織りながら、セツは掃除用具を探しに部屋を出た。 

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