第15話 侍女と若奥様


 同時刻。

 シエルは真剣な顔で心の中に浮かんだひとつの重大な問いに対する答えを考えていた。


(なぜミーティア様はあんなにかわいいのだろう)


 きっかけは数時間前の出来事だった。

 昼食としてシエルが作ったマトンシチューをミーティアは瞬く間に完食。


 二回おかわりしてから、幸せそうに言ったのだ。


『シエルの作るシチューが一番おいしいわ』


 言葉は、シエルの胸をいたく打った。


 なんというすさまじい娘力。

 長い人生の中で形成された常識も、嵐を前にした砂の城のように跡形もなく消し飛ばされてしまう。


(ミーティア様、やばい、愛しい、尊すぎる……!)


 くらくらするシエル。

 しばしの間、母親の理想郷的記憶を反芻して幸せに浸ってから、思いだされたのはミーティアに出会う前のことだった。


 八年前。

 シエルが、リュミオール家の採用試験を受けていた日のこと。


 若くして両親と妹を亡くしたシエルは身寄りがなく、貴族家の採用試験ではその家族構成を怪訝な目で見られることも多かった。


『家族がいない侍女は耐えられずに逃げることが多い』


 そんな偏見によって、シエルは採用試験に落ち続けていた。


 どんなにがんばって課せられた仕事をこなしても、伝えられるのは『雇うことはできない』の一言。


『あの子、仕事ぶりは一番よかったんだがな』

『一日くらいならごまかすことはできる。逃げられたら私たちの責任が問われるからな』

『やはり身寄りが無い子を雇うことはできんよ』


 面接を担当した執事たちがそんな話をしてるのを聞いたこともあった。


 悔しくて、つらくて、悲しくて。


 どうして私だけがこんな目に遭うんだろうって。

 自分が世界で一番不幸みたいに思える夜もあった。


 リュミオール家の採用試験を受けたのはそんなある日のことだった。


(どうせ受からない……いや、ダメだ。とにかく私にできるベストを尽くそう)


 弱い自分を振り払いつつ、汚れた別館の倉庫を掃除していたシエルに声をかけたのは、一人の若い女性だった。


「少しここで息抜きをさせてもらってもいいかしら。このところ忙しくて疲れてて」


 どうやら、先輩侍女の方らしい。


「いいですけど」


 断る理由もない。

 先輩が見てくれてるのは仕事ぶりをアピールするチャンスだ。


 古びた蜘蛛の巣を取り除きながら、埃かぶった棚の上を丁寧に拭く。


「そんなところまで拭くの?」

「みなさんがしていない分、アピールのチャンスですから」

「でも、細かいところに時間をかけすぎたら後で困る場合もあるんじゃないかしら」

「そこは全体のバランスを見ながらですね。大事な目立つところを押さえた上で、この隅っこにはこれくらい時間をかけられるかな、みたいな。あと、私に仕事を任せてくれた方がどのように考えているのかも基準にします。今回は時間を多めにいただいているので、丁寧に細部までしておいた方がいいかな、と」

「すごいわ。たくさん考えてるのね」

「いえいえ、先輩ほどではないですよ」

「先輩……?」


 先輩は少しだけ首を傾ける。


「あ、ごめんなさい。まだ試験中なのに先輩っていうのは失礼でしたよね」

「ううん、気にしないで。それより私、貴方のお話が聞きたいわ」

「私の? いいですけど」


 先輩はシエルに興味を持った様子だった。

 理由はわからないけれど、悪い気はしない。


 シエルは聞かれたことを正直に話した。

 家族のことについて嘘をつくという選択肢も一瞬考えたけど、後々面倒なことになりそうなのでやめた。


「ありがとう。いろいろ聞けて楽しかったわ。それじゃね」


 先輩がいなくなってからも、シエルは丁寧に掃除を続けた。

 誰に見せても恥ずかしくないと胸を張って言える仕事ができたように思う。


 採用試験の結果が伝えられたのはその数時間後のことだった。


『今回、貴方の採用は見送らせていただきたいと思います』


 結果は不合格だった。

 採用担当者である執事の方は、シエルが掃除した部屋に入ることもしなかった。ただ遠くから数秒見ただけだった。


(ああ、最初から結果は決まっていたんだ)


 シエルは肩を落とした。

 がんばったのがバカみたいに思えた。


 視界がぐにゃりと歪んだ。

 泣いてはいけない、と目を固く閉じた。


「ごめんなさい、少し良いかしら」


 掃除しながら話した先輩侍女の声が聞こえたのはそのときだった。


 現れた彼女の姿に、執事たちが背筋を正したのが気配でわかった。


「若奥様、どうしてここに」

「若奥様……?」


 呆然と言ったシエルに、先輩侍女は人差し指を唇に当てて、にっと目を細めた。


「ひとつお願いがあるの。この子を雇ってもらえないかしら。私付きの侍女として」






 その人はリュミオール家の若奥様だった。

 シエルは彼女から名家の侍女として働く上で必要な常識や原則を学んだ。


「どうして私を雇ってくださったんですか?」


 気になって一度、聞いたことがある。


「信用できる侍女がほしかったの。裏で誰かの息がかかってる人も多いから。そういう貴族家のしがらみを抜きにして、味方になってくれる人が欲しかった。私と、それから娘のために」


 彼女は自身の娘であるミーティアのお世話係にするために、シエルを雇いたかった様子だった。


「他の子どもたちは貴族家の常識の中で、優しさに欠ける性格に育ってしまったから。せめてミーティアだけは良い子に育ってほしいなって」


 しかし、お世話係を務めることになったミーティアは筋金入りのわがまま娘だった。


「こんな出来損ない食べられないわ! 全然美味しくないもの!」


 担当する侍女が何度も変わっているというその傍若無人ぶりは噂通りで、シエルは投げ出したくなるのを懸命に堪えて、親身にお世話を続けた。


 効果が現れたのは五歳になった頃だった。

 ミーティアはまるで別人になり、シエルはかけられた言葉に呆然と立ち尽くすことになった。


「私、シエルに本当に感謝してるの。今までたくさんわがままを言ってごめんなさい。これからはわがままなんて言わないから。もし嫌じゃなかったら、これからも傍にいてくれたらうれしいわ」


(あのミーティア様が……! こんなに、こんなに良い子に……!)


 誠実に向き合い続けた者だけが体験できる奇跡のような瞬間がそこにはあるように感じられた。


 苦難を乗り越えたことで強まる愛情。

 そこからは、彼女の魅力に夢中だった。


『シエルありがと! 大好き!』


 弾んだ声と笑顔を見れば、つらいことも一瞬で吹き飛んでしまう。


「ミーティア様、本当にかわいくて。背伸びして難しい本をたくさん読んで、大人っぽいこと言ったりするんですよ。でも、袖が余ってたりよく転ぶところは小さな子どもそのもので、もう尊すぎてやばいというかですね。最近では子どもができたらこんな感じなのかな、とかもしかしてこの子私の娘なんじゃないかって思うことがあるくらいで――」


 そこまで言って、シエルははっと口をおさえる。


「ごめんなさい。若奥様にこんなことを言うのはおかしいですよね」

「ううん、いいの。貴方があの子のことを大切に思ってくれてるのが私はうれしい。これからもいろいろ聞かせて。あの子のことだけが、今の私の生きる喜びだから」


 シエルはそれからもミーティアのことをこっそり若奥様に伝え続けた。

 ミーティアの魔法適性に問題があることがわかって、別館の地下に幽閉されるようになってからも密かな交流は続いた。


「若奥様、若奥様。今日の愛しいミーティア様情報なんですけど」


 誰にも必要とされずにいた自分を見つけてくれた彼女。

 過ごした時間は今も、シエルの心の中に深く刻まれている。


 窓から射し込む夕暮れ。

 少しだけ開いた自室の扉。


 主人であるミーティアが、鏡を前に洗練された身振りで何かを言っている。


「計画は第二フェイズに突入したわ。夕闇に紛れ、私たちは世界を変えるために行動する。すべては深淵で崇高なる計画のため。世界は今、私の手の中に落ちようとしている」


 芝居がかったステップでポーズを取ってから、「ふふふ、私かっこいい……」と小さな笑みをかみ殺すミーティア。


(貴方のミーティア様は、今日も楽しそうに日々を過ごされてますよ)


 窓から吹き込んだ涼やかな風に乗せて、そんな思いが彼女に届きますようにと願った。



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