梅雨入り

「そういえば、千影さんも『待宵』に通ってるんだよね。何か知ってるなら、教えて欲しいんだけど!」


 陽汰が勢いよく立ち上がる。


「お、教えるというのは……?」


「貫井さんはあの通り舞い上がっちゃってるし、冷静な判断ができないと思うんだ。だから、小夜さんっていうひとが、どういうひとなのか知りたい」


 陽汰の表情はいたって真剣だ。貫井のことを本気で心配しているのだと分かる。


「物静かな方なので、あまりプライベートなことを話したこともありません。どういうひとかと問われても、よく分からないというのが正直なところです……」


 千影は、二ヶ月に一度のペースで通うただの客だ。多少の世間話はするものの、深い付き合いではない。


「陽汰は、小夜さんがわるいひとなんじゃないか、貫井さんが騙されたりひどい目にあったりしないかってことを心配してるんだよね?」


 結野の言葉に、陽汰は深くうなずく。


「……私が言えるのは、仕事に対してはすごく真面目な方だということと、あの店を大事に思っているということくらいです」


「それってすごく良いひとじゃん! なんかすっごい良さそうなひとーー!」


 力が抜けたのか、陽汰が倒れ込むように自分の席に座る。


「貫井さんがひどい目にあう心配がなくなって良かったね」


 結野も安堵したようにほっとした顔を見せる。


 ふたりとも同僚思いだなぁと千影が思っていると、急に結野が「あ、でも」と不穏な表情になった。


「そんなに良いひとならさ……」


「なんです?」


「付き合ってるひと、いそうだよね」


「…………」


 わずかに沈黙が流れた。言われてみれば、そうかもしれない。仕事に対して一生懸命だし、腕は確かだし、仕事のせいで髪は傷んでいるけど、それ以外はぴかぴかでいつも身綺麗にしている。


 ぴかぴかというのは、派手という意味ではない。いつも服にピシッとアイロンがかかっている感じとか、爪の先まで手入れが行き届いている感じとか、そういうさりげない綺麗さだ。


「い、いや。そんなことないですよ! 俺だってめちゃめちゃ良いひとだけど恋人いないし!」


 陽汰は自らを「良いひと」だと宣言し、同時に「おひとりさま」だと暴露する。


 こんなに格好よくて愛想がよくて、自分とは違う世界のひとみたいにきらきらしている陽汰でもおひとりさまなのだ。千影は同じおひとりさまとして、密かに陽汰に親近感を抱いた。


 結局、結野が言ったことは正しかった。


 そのことに気づいたのはしばらく経ってから。ちょうど東海地方の梅雨入りが発表された頃のことだった。


 じめっと湿気を含んだ空気をわずらわしく思いながら、千影は夕食の下準備に取り掛かっていた。


 大きなカボチャとまな板の上で格闘していたとき、食堂の入口で「カタン」と物音がした。視線をやると貫井が立っていた。


 今日、貫井は有休をとっている。立て込んでいた仕事がひと段落したらしいのだ。やっとまとめて休みが取れると、数日前に喜んでいたのを千影も知っている。


「貫井さん?」


「……た」


「え?」


 貫井がぼそりとつぶやく。うまく聞き取れない。千影は作業している手を止めて、貫井のほうへ向かう。


「どうかされたんですか」


 よく見ると、彼には表情がなかった。まるで幽霊でも見たように真っ青になっていた。


「大丈夫ですか? 体調が悪いんですか?」


 おろおろする千影に、貫井はさっきより多少はっきりした声で「短かった」と言った。


「みじかかった?」

 

「……髪が、短くなっていた」


「誰の髪ですか?」


 そう問いながら、きっと小夜のことだろうと思った。貫井は、今日も『待宵』へ行ったのだろう。


「……小夜さん、髪を切ってしまっていた」


「そう、なんですか……」


 大切なはずの髪。彼女が『待宵』で仕事をする上で、なくてはならない髪。その髪を切ってしまった……?


「店を閉めるそうだ」


「え……?」


「東京へ行くらしい」


 それだけ言って、貫井は自室に引きこもった。


 千影は作業に戻り、下準備を終えた。早朝から仕事をしていたから、今から長めの休憩に入る予定だ。


 一度アパートに戻ろうと思っていたけど、どうしても小夜のことが気になる。千影は自宅とは反対の場所へと向かった。


 出格子が連なる道を歩く。黒いしっかりとした造りの町屋が並ぶエリアを抜け、細い路地に入った。風情ある小路の一角。『待宵』の看板は、まだ残っていた。


 店の中をのぞくと、薄暗い店内の中に彼女はいた。


 貫井が言った通り、小夜の髪は短くなっていた。胸元まであった彼女の髪は、フェイスラインできれいに切り揃えられている。


「お店、なくなるんですか……?」


 千影がたずねると、小夜はすまなそうな、寂しそうな顔になった。


「ごめんなさい、急で。お客さまに十分なお知らせもできなくて、本当に申し訳ないと思っています」


「あ、えっと。東京へ行かれるって聞いたんですけど」


「もしかして、貫井さん?」


 貫井がワカミヤの社員であり『杉野館』で暮らしていることを彼女は知っている。もちろん、千影がそこでまかない係の仕事をしていることも。


 千影がうなずくと、小夜はぽつりぽつりと語り始めた。

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