独身寮のまかないさん~おいしい故郷の味こしらえます~

水縞しま@『あやかし旅籠』発売中

1.赤かぶ漬け(岐阜)

朝市

 早朝からの仕事に一区切りがついたところで、有村千影ありむらちかげはふっと肩の力を抜いた。


 年代物の柱時計に目をやると、時刻はちょうど九時を指している。


 背中に手を回して結び目を解き、割烹着を脱いだ。朝市は昼頃まで開催しているが、目当てのものが売り切れる前に行きたい。


 千影は出かける準備を整えて、職場である社員寮「杉野館すぎのかん」を後にした。


 杉野館は、岐阜県北部に位置する高山市、観光地でもある飛騨高山ひだたかやまの一角にある。


 この辺りは「古い町並」と呼ばれ、江戸時代の城下町の情緒がいまも色濃く残っている。黒くしっかりとした造りが特徴の町屋が多く立ち並ぶエリアだ。杉野館も同じく、中二階建てで屋根の低い町家造りになっている。


 出格子が連なる通りを歩くと、いつも江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。


 通りにある酒造には、スギの葉の穂先を集めて球体にした杉玉が軒下に吊るされていた。酒林さかばやしとも呼ばれるそれは新酒が出来たことを知らせるためのもので、杉野館の名前の由来でもあった。


 三月の朝の空気は、まだ少しひんやりと冷たい。


 市街地を流れる宮川沿いに、宮川朝市はある。日本三大朝市に数えられる朝市で、地元の農家や高山名物の民芸品「さるぼぼ」を扱う店舗、カフェなどが出店している。ずらりとテントが並ぶ様はいつ見ても壮観だった。


 今日も宮川朝市は盛況らしく、地元の人たちに混じって大勢の観光客の姿が見えた。


 まだ泥をつけたままの新鮮な野菜たちが所狭しと並んでいる。寒暖差が激しい飛騨高山では、旨味が濃縮されたおいしい野菜がたくさん育つのだと、いつだったか馴染みの店の女性店主が教えてくれた。


 香ばしい匂いを放つみたらし団子を横目に足を進めると、馴染みの店のテントが見えた。今朝採れたばかりのみずみずしい野菜が、プラスチック製の番重ばんじゅうにぎっしりと、けれど丁寧に並べられている。


「千影ちゃん、よう来てくれんさったなぁ」


 高齢の女性店主が飛騨弁と笑顔で迎えてくれた。この店の野菜は、どれもこれも野菜本来の滋味深い味がぎゅっと詰まっている。いつの間にか常連になり、気づくと店主に顔を覚えられていた。


 手書きで「春キャベツ」と書かれた札の番重には、大きな春キャベツがドンと積まれている。千影の目当てはこの春キャベツだ。番重の中からひとつ掴むと、「千影ちゃんの顔の何倍もあるなぁ」と店主がにこやかに笑う。


 確かに大きなキャベツだが、何倍もあるというのはさすがに言い過ぎだろう。「そんなにキャベツと差がありますか?」と苦笑いしながら他の野菜を選んでいると、店主は大きく頷いた。


「小顔で若く見えるしなぁ。そういえば千影ちゃん、いくつやったかね?」


「25歳です」


 童顔だと指摘されたことはこれまでにも何度かある。体格も小柄なので、実年齢より幼く見えるらしかった。一度も染めたことのない黒髪のせいか、初対面の際に店主から「学生さんがおつかいに来たのかと思った」と言われた。さすがにそれは、彼女流のお世辞なのだろうと思うのだけど。


「これも持っていきんさい」


 帰り際、店主がおまけをつけてくれた。袋の中を見るとそれは、自家製の赤かぶ漬けだった。


「ありがとうございます」


 赤かぶ漬けは飛騨高山の名産だ。朝市でも多くの店が取り扱っている。


 店主にお礼を言って別れた後、千影は朝市の通りを入ってすぐのところにある鮮魚店へ向かった。


 今晩のおかずのメインになるものが手に入れば良いなと思いながら店先を覗くと、魚と目が合った。思いがけず数秒見つめ合う。よく見ると大きなぶりの頭が、骨付のアラと一緒にデデンと竹ざるに盛られていた。値札を確認すると、かなりのお買い得商品であることが分かる。


 店員に声をかけて包んでもらい、支払いを済ませた。今日も良い買い物ができた、と心の中でひとり満足する。


 千影の仕事は、岐阜県高山市に本社を置く株式会社ワカミヤの社員寮、杉野館での朝夕の食事作りだ。杉野館で生活しているのは現在十名で、希望者には昼食用の弁当も用意することになっている。ワカミヤの社屋には食堂がないため、今のところ全員が千影のこしらえた弁当を持って毎朝出勤している。


 企業の人手不足は死活問題だ。ワカミヤも例外ではない。若い人材の流出を避けるために、数年前から福利厚生に力を入れるようになった。まかない付きの社員寮はその一環だった。


 ファミリー向けの寮もあるのだが、杉野館は一部屋ごとの区切りが小さいため単身者用となっている。男性社員向けの単身寮で、暮らしている全員が独り身であるということから社内では独身寮と呼ばれている。


 杉野館は町家造りのため、元々は襖で区切られた部屋があるだけだった。内部をリフォームして、今は完全に独立した部屋として使用することができる。


 ちなみに千影もワカミヤの社員だ。寮の近くにあるアパートに住み、毎朝寮に出勤している。決められた予算の中で献立を考え、食材の調達をするところまで任されているのでやりがいがある。


 なるべく美味しいものをたくさん食べてもらいたい。そのためには新鮮で良い食材を安く仕入れることが必要がある。宮川朝市は、そんな千影にとって大切な仕入れ先のひとつなのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る