私が汐里よ

ペコ

序章  聞こえてきた讃美歌

1  不思議な後ろ姿



 それは予告された風もない蒸し暑い夜に、数発の花火らしき物が上がってから一週間ほどしてのことであった。寝入る直前からしくしくと泣くか細い声と、小刻みな音が部屋中に響いていたのは分かっていたのだが……。

 久しぶりに学校に行き、いつも通り夜の十一時に起きると、トイレのついでに一階の居間に入った稲垣智明いながきともあきは、椅子に腰掛けるなりその本を読み始めた。

【昔々、さらに昔のもっと昔、ある所にとても美しい女のが住んでおりました。女の娘は月の王子様と恋に落ち、ある満月の夜、家族と別れて一人月に召されていきました。バッタリ!】

「――お母さん。これ学校の帰りに道で拾ったんだけど、この本の話、なんか変なんだよ」

「何言ってんのよ、智明ともあきちゃん。どれどれ……」

 などと言いながら、夜食の準備をしていた母の花奈かなが、台所からやってきて本を覗くと何事もなかったかのように、

【――それから女の子は月のうさぎさんと友達になって、王子様と二人、幸せに暮らしました。そんなある日のこと、うさぎさんから『近くまで来ているから一緒に遊ぼうよ!』と電話がかかってきました。二人は喜び勇んで手を繋いで出ていったのですが……】

「智明ちゃん、何もおかしくないわよ。そんなことよりあなた、もう一度部屋に戻って長袖と長ズボンに着替えてらっしゃい。パジャマでもいいから。蒸し暑いからってそんな格好をしてちゃ駄目なの。決まり事はちゃんと守らなくちゃ。お母さんだってそうしてるでしょう!」

「うん、分かった」

 そして今一度二階に上がって着替えを済ませた智明が、居間に戻ってまた本を読み始めると、

【――でも二人は帰ってくるなり顔を洗うと、お互いに物も言わなくなりました。バッタリ!】

「お母さん……」

「何よ、また変なことが書いてあるって言うの?」

「うん。やっぱり……」

 再び母親の花奈がやってきて本を覗くと、また何事もなかったかのように、

【――うう~ん、そんなことはありません。それからうさぎさんの友達のネズミさんとリスさんを紹介されてみんなで遊ぶようになり、今までにも増して、とても幸せな毎日を過ごしました……】

「智明ちゃん、あなた熱があるんじゃないの?」

 そう言って智明のひたいに手を当てて、「ないわね。あなたが帰ったらすぐ寝て明け方まで勉強する癖がついてるから、自分では気付かないみたいだけどきっと疲れているのよ。大体こんな夜遅くに夕食をとるっていうのが間違っているの。昨日や今日に始まったことじゃないけど、ご近所を見てごらんなさいよ。電気がついているのはこの家だけよ。勉強も大事だけど、体のことも考えなくちゃ。今日はもう勉強はやめて、ご飯を食べたら早く寝るのよ!」

 それから花奈が再び台所に戻ると、

【――というのは真っ赤な嘘で、やがて死ぬ思いで王子様のもとを逃げ出した娘は新たな幸せを掴んだかのように見えたのですが、その幸せも大したことはありませんでした。バッタリ!】

「お母さん……」

「まったくぅ、何よ? またなの?」

 すぐにまた智明のもとにやってきて本を覗くと、「あっ! 智明ちゃん、あなた見ちゃ駄目!」

「どうしたの?」

「どうもこうもないの。あなたはご飯を食べたらお部屋に帰って寝なさい!」

 半ば怒ったように智明から本を奪い取って台所に戻ると、素っ裸の男たちが一点を睨みつけ、今にも飛びかからんばかりの絵がページいっぱいに描かれている。「智明ちゃん、ここの所に女の人の絵はなかったの?」

「うん、あったけど、なんか震えているように見えてかわいそうだったから、僕が切り取ったんだよ」

「どこにやったの?」

「二階の部屋のどこかにあると思うけど……」

「探して持ってらっしゃい!」

 思わぬ母の怒鳴り声に、慌てて階段を駆け上がった智明。

 ――フライパンの油の中ではアジの天ぷらが泡を上げているのであるが、その食欲をそそる音さえも、本に見入る母親の花奈には聞こえていない。

 膝に飛び乗ってきた愛犬マロンの頭を撫でながら頬を寄せると、余りのリアルさにうっすらと涙が浮かぶ。そして、聞こえてきた話し声につい振り返ってしまった窓の向こうには、丸い月がぽっかりと浮かんでいる。

 心の求めるままに窓際に立つと、もう十一時を回っているっていうのに冗談じゃないわよ……。などと、珍しく立ち止まっているいつもの二人組の男につい目がいってしまう。

 さらに、また引き込まれるように次のページをめくると、【たぶん昔話のたぶん上巻】というタイトルの後に、こんな話が書かれていた。

【『後で文句を言うんじゃないぞ。俺は庄屋しょうやさんに言われた通りにやっているだけだからな。間違っても俺を恨むんじゃないぞ! だいたい、おまえがあんな人から借金をするからこんなことになるんだ』

『借金……?』

 チヨはそうひとこと言っただけで返す言葉を持たない。『アヤちゃん、ごめんなさい……』

『どうして泣いているの? 私が一番いい場所を取っておくから、明日こそみんなでお花見に行こうね!』

『アヤちゃん……』

 そしてアヤが言われるがままに駕籠かごに乗ると、

『えっさぁほいさぁ! えっさぁほいさぁ! えっさぁほいさぁ、さっさ! えっさぁほいさぁ! えっさぁほいさぁ……』

 駕籠かごカキは、桜散る暗い夜道を遠ざかっていったのでした。おしまい。バッタリ!】

 ――花奈は遠い昔の出来事に思いを馳せていた。

 

 智明が居間と台所を仕切るカーテンから顔を覗かせて、自分を見ているのは分かっていたのだが、

「あっ、お母さん!」

 その大声とともに勢いよく開けられたカーテンの音に、やっと思い出して振り返った先で立ち上っていた煙が炎に変わると、智明の手から切り抜いた絵が音もなく床に落ちた。

「大変だわ!」

 悲鳴に近い叫び声とともに、慌てて片手で顔を隠して指の間から覗きながら、伸ばした手でガスコンロのスイッチを切ると消火剤を探すのだが、燃え上がる炎の勢いに気が動転してしまって何も思い出せない。

「お母さん、消防車を呼ぼうか?」

 智明のその声に、我に戻ったかのように見上げた冷蔵庫の上の消化剤を手に取ると、離れた所から勢いよく吹き掛ける。

「あっ!」

 と言った智明の言葉に塞いでいた手を取って見上げてみると、油のついた換気扇に火が燃え移り、そちらに消火剤を向ける前に配線がショートした弾みでブレーカーが落ちたのか、家中が真っ暗になってしまうとすぐに二階のガラス戸が割れる音がして、思わず二人とも首をすくめてしまった。

 ――誰かが走り去る音がしたのは覚えているのであるが……。


 呆然と窓の外に目を向けてみれば、暗いはずの外の景色が揺らぎながら明るさを増し、すでに数人が離れた所から見上げていることからしたら、二階で何が起っているのか容易に想像できる。

 たまらず、智明の手を引いて家の外に出て消防に連絡したのであったが、

「あれっ、お母さん! 何か聞こえない、人の泣き声みたいなのが?」

 必死の形相で花奈のパジャマを引っ張る智明であるが、炎に包まれた我が家から一人の女が飛び出してきたのに、

「ぎゃぁぁぁぁぁぁ――! 誰かぁぁぁぁ――!」

 目の前の光景が目に入らなくなったのはもちろんのこと、そんな智明の声も耳に入らず、ただその後ろ姿を見ていることしかできない花奈であった。

「お母さん! ねえ、お母さんってば……」

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