25
モデルハウスのような高い天井に、遥か上でくるくると回るシーリングファン。
大きな嵌めこみ窓からは
そして、胡桃の木で出来たイタリア製のテーブルには、似つかわしくない和食が乗っている。
「
父さんが心配そうに覗き込んできた。
安川家の食卓にはいつも家族が揃っている。どれだけ忙しくても、一日一食は皆で食べるというルールなのだ。選挙期間中は父さんの会食が多くなるので、こうして朝食を共にすることが多い。
「選挙は体力勝負だからな。食べられる時に食べないと、きついぞ」
朝一で街頭演説を行ってきた父は、美味しそうに鮭の切り身を口に放り込む。僕の将来の出馬に向けてだろうか、最近はこういうアドバイスが多い。
「それに、うちは米問屋のころから農家の方達にお世話になってますからね」
すぐ隣のキッチンカウンターの向こうから、母さんが笑いかけてくる。うちは江戸時代から続く米問屋なので、米を残すのはあまり良くない行為だ。
「本当に具合が悪くて、ちょっと食べられないや」
「あら、お米以外は綺麗に食べてるのに変ね」
食卓を覗き込む母の言葉にぎくりとした。
確かにおかずは完食しているが、米だけは食べられない。谷原さんからアサヒカリの真実を聞いてから、白い米を見ると気持ち悪くなってしまう。
「まあそういう時もあるだろう、ほら俺が食べるよ」
元ラガーマンだった父は、ひょいと僕の茶碗を取ってむしゃむしゃと食べ始めた。
またこれだ。甘やかされている。
いつまでも十歳やそこらだと思われてるのだろうか。
「父さん、ありがと。電車の時間危ないからそろそろ行くね」
「おお、そうか」
「実道さん、気を付けてね」
両親の声を背中に受けて、玄関を出た。
母さんの趣味である手入れされた芝生の庭、イタリアンパセリやローズマリーが伊万里焼の鉢に植わっている。以前は鹿威しや鯉の泳ぐ池があったのだが、家の改装に合わせて洋風になってしまった。
外門まで敷かれた煉瓦風の石畳で足を止める。
庭の隅、その一角だけが周りの雰囲気と一線を画していた。
大きな蔵。
小さい頃中に入って遊んでいたが、古い帳簿や昔の道具が入っているだけだった。定期的に漆喰を塗り直すおかげで外観は保たれているが、やはり周りとはそぐわない。その蔵が、幼い時の名残のようで懐かしくなった。
門を出て塀沿いに歩きだすと、一気に喧噪が耳に飛び込んでくる。
家は都内の一等地と呼ばれる地域にあるが、とんでもなくお金を持っているわけではない。たまたま田舎から出てきたご先祖が、この土地で米問屋をやり始めたおかげである。
庁舎までは電車も含めて三十分ほどで着く。
この通勤時間の短さも、ご先祖のおかげだ。
月曜の出勤は憂鬱だが今日一日だけ働けば、明日からはゴールデンウィークとなる。
歯磨きは職場でする主義なので、毎日早めに出勤するようにしていた。それでもちらほらとデスクで仕事をしている同僚達を見かける。彼らを尻目に荷物を置いて、歯磨きセットを手にトイレへと向かった。
流石に用を足している人がいると嫌なので、
「うわっ、何だ安川か、良かった」
「あ、谷原さん。おはようございます」
上司はこの世の終わりのような顔で驚いていた。
手には筆のようなものが握られ、前髪を上げた顔は中途半端に綺麗になっている。その表情の可笑しさに思わず笑みが溢れた。
「ふふふ、ついにメイクデビューですか?」
「違うよ、ほらあれだよ。あざ」
「あー、例の動物達に齧られてたやつですか」
そうそう、と言いながら、ブラシを動かして液体を塗り広げている。
安心したのか、谷原さんは鏡を見ながら得意気に話す。
「知ってるか、コンシーラーにはスティックタイプとリキッドタイプがあるんだ」
「へー、どうせ日置さん情報ですよね、それ」
「ばれたか」
上司は鏡を見ながら、懸命に肌むらを指でなじませている。
事情を知らない人間に見られたらまずい構図だ、入ったのが僕で本当に良かった。
「調子良さそうですけど、もう動物は大丈夫なんですか」
「うん、神主が祓ってくれたよ。やっぱ専門職は違うな」
上機嫌な上司は、そのまま週末に朝比町で起きた話を聞かせてくれた。酒浸りの神主の話や、かのしという動物霊を祓った話、社で見た夢の話に、鍾乳洞の中にいるという麻生山の神の話までも。
「その修験者が鍵になるんですね」
「でも、全国の工藤さんを探す訳にはいかないし、困ったもんだよ」
困ったと言いつつ、鼻歌でも歌いそうな調子。
先週の死にそうな雰囲気とはまるで別人に見える、もう大丈夫そうだ。
「でも、ずっと火傷って設定で職場に説明してましたよね、前より肌綺麗になっちゃってますよ」
「……あ」
トイレから出た谷原さんは、先週同様に包帯で顔が覆われてた。
デスクに戻ると、部署の人間はほとんど出勤している。
「まだ治らないなんて相当大変だね」「良い整形外科知ってますよ」と同情の言葉を投げかけて、ますます上司が包帯を外すタイミングを奪っていく。
そのまま午前中の業務を終え、昼食をとり、夕方の定時後に柿崎部長から呼び出しがあった。
「二人とも定時終わってからで悪いが、今日中に朝比町の報告書出してくれんか。連休前に出すよう、今さっき局長から電話があった」
「……ああ、あれですか」
谷原さんは苦々しい声で呟く、包帯で覆われているので表情は分からない。
「安川くんも頼むな。忙しいだろうから、何か雑用があったら他の人に振っちゃっていいから」
柿崎部長は、にこやかにこちらを見てくる。
揉み手でウインクでもしそうな勢い。またこの目だ。透視するかのように僕の身体を突き抜けていく視線。それは父さんと、その地盤を継ぐ未来の僕を見ている。
大人になってから父の偉大さを知った。
世襲の多い国会議員の世界に裸一貫で飛び込んでいって、盤石な地位を築いている。まだまだ若手だが、将来の総理なんて声も出始めている。
父さんがあれほど影響力をもっている理由は、人脈と資金だ。
問屋時代から培ってきたネットワークで全国の農協に協力者がおり、一定の票数と農業関係の政治力を持っている。謎なのは金の方だ。元々貧しくはなかったが、選挙資金を自在に調達できるほどの財力まではない。
自分の父を疑うのは心苦しいが、正直後ろ暗い部分があると思う。ただ清濁併せ吞むのが政治家であるし、他の議員達も潔白な人間は少ないはずだ。
だが生まれてこの方、善人の父しか見たことがない。家族の前ではそんな片鱗を見せたことがないので、とても信じられない。
「さて、どうするかな……」
向かいの机で谷原さんが頭を抱えている。
先週未処理だった書類が乱雑に散らばっていた。
「報告書の件ですか?」
うん、と力無く頷く上司の心情を察する。
アサヒカリの美味の陰にあんな背景があったのだ、素直に合格とするには抵抗がある。しかし、上からの案件のため却下するには相応の理由が必要だ。その狭間で苦しむ谷原さんに同情した。
「どうしましょうね。一応作成は僕で、承認が谷原さんですけど」
「とりあえず認可で上げてくれ。結論はこっちで考えるよ」
「分かりました。一応もう出来ちゃってますし、送りますね」
「ああ、出したら先帰っちゃっていいぞ」
連休前日ということもあって、珍しくフロアはまばらになっていた。
上司には申し訳ないが帰宅するとしよう。
「この後、日置さんと会う予定あるから連絡入れないとな」
「朝比町の報告ですか?」
「そうそう。どうせ渡しちゃうから、これ見せてやるよ」
谷原さんはそう言うと、内ポケットから黒ずんだ木片を取り出した。
「神主にお守りもらったんだ。すべすべだぞ」
ほら、と渡された木仏に触れた時、身体に電流が走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます