14

 昨日は全然寝れなかった。

 理由は一つ、ガリガリと寝室の戸を引っ掻く音だ。

 家鳴りで軋む音ではない、もちろんペットを飼っている訳はない。それは部屋に入りたいと言わんばかりに、夜通し戸を掻き続けていた。

 職場でもお構いなしにやって来る。

 直接見える訳ではないのだが、何かが触ったり、気配を感じるのだ。昨日安川と昼飯を食べている時には、はっきりと尻尾が足に触れた。

 思わず飛び上がりそうになったが、周りの目もあるので何とか悲鳴を飲み込んだ。それ以前にデスクで何度か大騒ぎしていたので、意味がなかった気もするが。

 一つおかしいことがある、感触が犬らしくないのだ。

 触れたと思われる尻尾は、細くて毛も少ないように感じた。何より、動きも妙だった。足に絡みつくような軌跡で、ねっとりとした不快感があった。まるで何者かが自分を捕えるために、触手を伸ばしているような……。

 出勤の準備を整え、玄関でへらを使って革靴を履く

 姿鏡を見ると、冴えない男が立っていた。

 くまが酷く、生気が感じられない顔、ぴっしりとしたスーツが全く似合っていない。足長効果のある細身のパンツも、今は貧相に痩せこけて見えるだけだ。まるで憑りつかれてるようだな、と自嘲した。十中八九その通りなのだが、肯定する勇気はない。

 ふうと溜息をついて、玄関のドアを開けた。

 睡眠不足で腕に力が入らないため、身体ごとぶつかるようにして押し開ける。

 電線に止まっていたカラス達が一斉に飛び立った。かろうじて朝日は出ているものの、一見夕方の様にも感じる。薄紫色の空を見上げて、一日の始まりと終わりの景色は似ているなと思った。

 傍から見れば、自分の顔は死にそうに見えるだろう。

 こんな早朝に出勤するとはブラック企業にお勤めで、と思われるに違いない。

 今日は午後休みなので、早めに出勤してるんですよ。

 と心の中の他人に言い訳をする。

 そうなんですね、休みをとられてどこに行くんですか?

 病院です、ちょっと精神科に。

 ブラックジョークみたいな話だが、悲しいことに事実なのだ。

 駅に着いて、ちょうど到着した電車に乗り込む。

 妻が生きていた頃は、都内のマンションから三十分足らずで職場に着いたのだが、今はその倍かかる。東京寄りの埼玉と言えば聞こえは良いが、結局都心に向かう電車はすし詰めとなるため、通勤時間は短いに越したことはない。

 幸い早朝なので、座席は空いていた。

 歳も四十近くなり、長時間立っていると腰が痛むのだ。まばらに座っている乗客を一瞥して、空席に腰を下ろす。暇を潰すためにスマートフォンを開き、適当なニュースを流し読む。

『高齢者の失踪が増える、近年で最多』

『異常気象、四月で気温が二十度後半』

『五月の解散総選挙で野党が返り咲くためには』

『関東地方は夕方から夜にかけて雷雨』

 また雷か、もうたくさんだ。

 朝比町での出来事を思い出して、思わず心の中で舌打ちをする。今夜はカーテンをきっちり閉めて寝よう。犬に加えて雷までトラウマになるとは、沙耶に笑われてしまう。

 画面をスクロールしていくと、ある見出しで指が止まった。

 そのタイトルに自分の顔が険しくなるのが分かる。

『また都内で水難事故、男性が心肺停止』

 続きを読むのに躊躇する。もちろん亡者が原因とは限らない。が、どうしてもその存在が頭から離れず、関係があるのではと勘繰ってしまう。

 恐る恐る記事を読む。

『隅田川の河口付近で、男性が溺れていると消防に通報がありました。溺れたのは都内在住会社員の男性(三十歳)で釣り道具が川岸に残っていたことから、深夜に釣りをしていたと見られています。駆けつけた消防が捜索し、通報から四十分後に川の中で発見されました。その後心肺停止の状態で病院に運ばれ午前一時三十二分に死亡が確認されました』

 記事には続きがあり、河口の汽水域は絶好の釣り場だが足場が悪く、誤って川に落ちたのだろうと締めくくられていた。

 隅田川の河口。荒川ではない。

 ほっと息をつく。悲劇には変わりないが幾分かましだ。

 最後にあの死の匂いを感じながら水に沈められる、それだけはゴメンだ。自分であろうが他人であろうが、そんな死を迎えるのは耐えられない。

 しかし、ふと気になった。隅田川は一体どこを流れているんだ?

 都内の駅や地名だったら大体分かるが、川の通る場所までは流石に把握していない。地図アプリに切り替えて、都内の河川を辿っていく。隅田川は都内の東側、下町エリアと都心の境界線になっており、東京湾に注いでいる。源流を探して上にスワイプしていくと大きな河川に当たった。

 ……荒川だ。

 隅田川は荒川の支流となって東京湾へ流れていくのだ。

 ぞわりと首筋の毛が逆立った。

 亡者は夜須川から荒川へ移動しただけだと思い込んでいた。それが可能なら、入間川、中川、新河岸川、市野川、その他細かい河川にも移ることができる。

 荒川は関東の動脈のような川なので、農業用水も当然ここから取水している。

 田に至るまでの経路はせいぜい溜池があるくらいのもので、複雑な中間施設はない。もし水田に亡者が到達したら、あのアサヒカリのような米が出来上がってしまう。

 今分かっている限りあの米に危険性はない。だがそれで良いとは全く思わない、美味い米がたくさん獲れる代償に川辺での事故が増えるだろう。

 漁村などでは水死体が漂着すると、丁寧に埋葬し「エビス様」として祀り上げる風習がある。

 死体が上がると豊漁になるからだ。

 しかし不思議なことは何もない、人間という質量の大きい餌が降ってくれば、当然そこに魚が湧く。でっぷりと太った魚達が何を食べて育ったかは、口にしなくても分かるだろう。

 同じことだと思った。

 人が死に、豊作となる。

 まるで質の良い肥料だ。

 亡者という存在を介して、命を米に変換する。

 現代の世界では化学的に合成された肥料により全人口の半分以上が養われている。それ以前は有機肥料、つまり植物や動物を原料にして作られた肥料が主となっていた。日本では魚粉や人糞だったが、安定的に生産できないので、十分に行き渡ったとは考えにくい。

 となるとどうだろうか。

 肥料もなく、土地も貧しい朝比町で供給できるものは何だ。

 ――人の命しかない。

 自分の考えに思わず鳥肌が立った。

 だが一つだけ疑問が残る。

 あれほど美味い米であれば、昔から朝比町は有名になっていたはずだ。だが名産地として名前を聞いたことがない。

 このことも神主に聞くとしよう。

 全ての疑問が見たこともない人物に委ねられていた。イエスキリストのような、長髪で髭の生えた柔和な男性を想像する。何もかも鮮やかに解決してくれるような全知全能な人間であることを祈ろう。

 電車は東京に近づいており、早朝とは言え人の密度が高くなっていた。

 四月は暑い日と寒い日が交互に来るため、服装が難しい。電車の空調も日ごとの温度差に対応しきれず、今もジャケットの中が少し蒸れている。こういう陽気のせいで天候が安定せずに、雷になってしまうのだと天を恨めしく思った。

 電車は鉄道橋に差し掛かっていた。

 ここを超えれば都内に入り、二十分ほどで職場に着く。顔を出しかけている朝日が、川面に反射してキラキラ眩しい。

 無数の煌めきに目を細めると、この川が荒川であることに気付いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る