12
「玲奈ちゃん、助けて!」
溺れながら小春が助けを求める。
彼女は黒い靄がかったものに襟首を掴まれて、どんどん川の中に引きずりこまれる。必死で追いかけるが、膝までしかない水はまるで粘土のように重く足を引き抜けない。もう川面に手しか出ていない、急がないと。
「——夢か」
旅館の布団で目覚めるのは、昨日に続いて二日目だ。
強張った身体をほぐすようにぐっと伸びをした。のろのろと立ち上がって汗で湿った浴衣を脱ぐ。顔を洗うために洗面所で鏡を見ると、額に玉のような汗が浮かんでいた。ザブザブと贅沢に水を使うと、少しだがすっきりした。
嫌な夢だった。
現実では全て終わった後に彼女を見つけたのだが、もし間に合っていたらどうだったか。定時内で仕事を片付けて、なおかつ姉からもっと早く連絡をもらえていたら。その後悔が見せた夢だと思うが、全ては後の祭り。私は間に合わなかったのだ。
だがこれで終わりではない。小春は亡くなったが、その理由を突き止めなければならない。そう考えると燃えるような闘志が湧き上がってくる。そして、この朝比町でようやく手がかりをつかめたのだ。
あの田、あれを見つけた時は本当に驚いた。
のんびりとした景色には似つかわしくない邪悪な黒い靄。
そして谷原。
半狂乱でドアをノックされた時は、正直怖かった。
警察官といえども、現場で危険な目にあったことはまだない。警察学校で柔道ではなく剣道を選んだことを、今更ながら後悔した。徒手空拳で戦うことを覚悟し、恐る恐る出てみると、白いワイシャツのその男は怯えていたのだ。
その尋常ではない様に何かを感じた。
もしかしたらと思った。部屋に招き入れて話を聞くと、お互いの感じた感覚が同じであることが分かり、確信はより強くなった。朝比町の重要人物に顔が利く彼に同行してもらいたかったが、その場では首を縦に振らなかった。最初は慌てて出した警察手帳のせいだと思ったが、違った。やはりあの亡者が怖かったのだ。
実はその気持ちも分かる。
小春が関係ない場面であの空気を感じたら、私は尻尾を巻いて逃げ出すだろう。今は姪の仇討ちで気持ちを昂らせているが、ふと冷めてしまう時がある。燃やしていた
彼は直接亡者を見ているのだ。恐ろしいだろう。
「でも結局協力してくれたんだよな」
思わず独り言ちた。
和モダンにまとめられた洗面所で、いそいそとメイクをする。髪を整えて、着替え終わったタイミングでこつこつと戸が叩かれた。
どうやら朝ごはんのようだ。
朝比町に原因があると睨んで、この旅館を選んだ。小春のこともあり、リフレッシュしたくて、普段泊まらないような高い宿にしてみた。この土日で何とかあれの正体を掴みたいと思った時に、谷原が部屋の扉を叩いたのだ。偶然というにはあまりにも出来すぎている。何かに導かれているような不思議な感覚を覚えた。
仲居の配膳が終わり、机に広がる豪華な朝食に気分が良くなる。
ただ一点、炊き立てのアサヒカリだけは受け付けない。
旅館には申し訳ないが、これだけは食べることができない。
山椒の香りが効いた味噌汁を一口飲んで、考える。昨日の調査で阿須賀神社が鍵だということが分かった。そして来週の神事後に、神主から事情を聞くというところまで手筈は整えた。
明日は小春の通夜だ、葬儀は明後日。不審な死とされた姪の遺体は、司法解剖に回されて時間がかかったため一週間も遅れてしまった。
そして水曜日以降は出勤しないと流石にまずい。職場では悲劇の人となっていたので、特別休とは別に有給を取得できたのだが、これ以上は無理だろう。つまり今日が自由に動ける最後の日となる。
柑橘を絞り、焼き魚の身を毟った。
酢で煮込んだという、朝比名物の鶏肉を頬張る。
今日は取りこぼしがないか、もう一度資料館に行ってみよう。あとは他に落雷のあった場所がないか見て回るのも良いだろう。やることを整理したら後は実行するだけだ、自分に気合を入れる。
考えながら黙々と顎を動かしていたら、すぐに朝食を食べきってしまった。お米を残したことに罪悪感を覚えつつ、歯を磨いて、手早く荷物をまとめる。
昔からテキパキとものごとを進めるのは性に合っていた。
ボストンバッグ一つとっても、華美なものよりも実用性の高いもの、メイクポーチだって同じだ。そうすれば旅行先で荷物が散らかることもなく、素早くまとめることができる。
ふと姉のことを思い出した。全部が私と真逆だった。
家族旅行でも、姉はいつも荷物が多くて、チェックアウトぎりぎりまで整理をしていた。
可愛らしいポーチに、たくさんの洋服、櫛やらなんやら、よくそんなに持ってきたなというほどだった。ごめんねーと言いながら丁寧に服を畳む彼女を手伝ったものだ。
小さい時の振る舞いも全然違った。多忙のため、電話一本でいなくなってしまう父に縋りつき泣いていた姉。私はそんな父がかっこいいと憧れていた。お姉ちゃんの時と全然違うわねぇ、と母が呑気に話していたのを覚えている。今思えば、似てないからこそ仲が良いのだろう。
しゅっと背が高く、目元には泣き黒子、優し気な雰囲気に困ったような眉。外見も真逆な姉に憧れていた。あんな風になりたいと思っていた。
ドア前の姿鏡に写った自分を見る。
勝気そうな瞳、顎の黒子、険しい眉間がとげとげしさを纏っている。雰囲気の割に低い身長も気に入らない。表情が悪いのだろうか、ニコリと笑ってみる。鏡の中の女は、まるでアンドロイドのような無機質な笑顔を浮かべていた。
……もういい、どちらにせよ外見にはそこまでこだわりはないのだ。それよりも明日は姉にどんな声をかければ良いだろうか、少し憂鬱になった。
ロビーでチェックアウトの手続きをして、丁寧なお見送りを受ける。旅館から出ると小雨が降っていた。
「昨日はあんなに晴れてたのに」
低く垂れこんだ雲を見るとげんなりする。
肩を濡らしながら車に乗り込み、資料館へと向かった。
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