春の祭りは湖に灯籠とうろうを浮かべ、三夜に渡って宴を催す。

 昴龍には見飽きた祭りだが、文虎はひとつひとつに目を輝かせた。


「湖水に光が写って、星が落ちたようですね。離宮も見えますよ。水の中にも王宮があるようです」

 船から身を乗り出してはしゃぐ弟に、兄は溜息をついた。己の真意がわからなくなったのだ。


「兄上、ありがとうございます。衣まで仕立ててくださり、私を同じ船に乗せてくださった……兄上とふたりきりなど初めてです」

「そうだな、今なら己を殺せるぞ」

 文虎ははっとして兄を見返した。


 昴龍は弟の耳に口を寄せた。

「己が死ねば玉座はお前のものだ。暗い離宮からも出らる。臣下もそれを望んでいる。何故お前は己に笑みを向けるのだ」


 弟の黒い目に映る兄は、張り詰めた形相をしていた。文虎は初春の夜風で冷えた兄の頰を手で包んだ。

「私は既に数多のひとを殺した。穢れた手で玉座に触れられません。兄上が良き王になってください。私の呪いが良き国を造る礎となったと思れば、いずれ地獄に堕ちる私の唯一の光になるのです」

 昴龍は何も答えられかった。


 船は花と光を映す湖を進み、岸に着いた。その日から、昴龍は文虎を離宮から呼び戻し、同じ宮に住ませた。



 だが、昴龍の性根は変わらなかった。兄が冷たい皇太子として忌み嫌われるほど、弟の明るさと優しさが映えた。

 前帝の死期が近くなり、文虎に皇位を継がせたいと水面下で運びが起こったのも当然だった。


 昴龍は部屋で独り、朱塗りの透かし彫りの窓から庭を見た。

 侍従と朗らかに話す文虎は顔色も肉付きも良くなり、ますます己に似た。違うのは中身だけだ。己が王に向かぬことは知っていた。だが、それすらも奪われては、己は何もない亡霊だ。



 それに漬け込む奸臣が現れた。

「このままでは文虎が王になる。巫者が帝などあってはならない。あれを亡き者にしなければこの国に禍が訪れます」


 昴龍は見せかけの大義に縋った。

 弟を再び離宮に追放し、文虎を帝に押し上げようとした者全てを逆賊として一族郎党処刑した。花と灯籠で彩れた湖は、血と骨で染まった。


 口が災いしては困ると宮廷は静まり返ったが、昴龍への反意は言葉にせずとも広がった。

 弟と共にいた部屋も暗く鎮まった。朗らかに笑い、兄と慕う声も聞こえない。闇が幽鬼となって昴龍に押し寄せた。

 響くのは奸臣の足音だけだった。


「殿下、離宮からこんなものが」

 侍従が懐から出したのは、黒く焦げた木偶人形だった。巫蠱に使う道具だった。その背には昴龍の名が彫られていた。


 昴龍は従者を殴りつけ、文机を投げた。

「文虎が己を呪ったと言うのか」

 従者は痛みに耐えながら呻いた。

「兄弟の情は捨てられよ。殿下のお命を守るためです」

 昴龍はその場に蹲った。そして、永久にも思える沈黙の後、言った。

「使者を送り、離宮を探れ」



 離宮の土からは数多の木偶が現れた。

 前帝はこれを受け、三輔の兵を引き連れ、逆徒たる文虎を討つ詔を出した。

 逃げた弟を追う兵たちを率いるのは、昴龍だった。


 寒風吹き荒ぶ湖は、花も枯れ、褪せた葦が死人の髪のように垂れていた。

 湖水に一条の赤い紐が揺蕩っていた。血の跡だ。昴龍は止める兵を振り切って、湖に足を浸し、それを追った。霜が足を突き刺し、冷水が身を切った。



 葦の向こうに蹲る文虎は矢傷を受けて、血を流していた。

 昴龍は寒気と痛みに喘ぎながら震える手で剣を向けた。

「裏切ったな」

 文虎は首を横に振った。昴龍は枯れた喉で吠えた。

「己を殺すなら何故早くやらなかった! 絆すためか! 己にひとの情を教えてから裏切るのがお前の復讐か!」

「違います、兄上、私は……」


 文虎の手に一体木偶があった。昴龍は息を呑んだ。そして、今の今までまだ弟を信じていたかったのだとわかった。

 兄が剣を振り上げるより早く、弟は木偶を掲げた。



 音もなく湖畔に倒れたのは文虎だった。

 昴龍は悴んだ手から剣を取り落とし、弟の元に跪いた。

「何故……」

「兄上、良き王に……」

 文虎は太陽の如く微笑んだ。彼の目から光が失われた。木偶に書かれていた名は、文虎だった。


 昴龍は弟の亡骸に縋った。

 文虎は昔のように痩せていたが、腹だけが歪に膨れていた。帯を解くと、衣の下から大量の木偶が溢れた。その全てに昴龍を誑かす君奸の名が書かれていた。


 空は冴え冴えとして、雪を降らせた。

 文虎の亡骸は見る間に黒く染まっていった。墨の如く変わり果てた身を隠すように、白雪が彼を包んだ。


 その場に座り込んでいた昴龍殿下に、無数の足音が響いた。

 若兵が彼に駆け寄って告げた。

「ご無事でしたか、殿下! 信じられないことです。殿下の侍従から官吏に至るまで次々と死に絶え、遺体が黒く変わったのです。やはり、文虎は巫蠱で……殿下?」


 若兵の目には、弟と同じ顔をした己が映っていた。

 己は立ち上がり、若兵に向き直った。

「逆賊は全て死に絶えた。これからは良き世になるだろう」

 己は太陽のように微笑んでみせた。

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