第10話 【飴玉】

「どうだいやり手? この顔立ち、十分花魁に育てられるだろう?」

そう言って、私を売ろうとする女衒の男は口巧にやり手におだてる。私はぐっと下を向い

て顔を見られないようにした。やり手は私をチラリと見て、

「こんな引っ込み思案な子はうちじゃあ取れないよ。揚羽屋に入るなんて頭が高いね」

と言い放った。女衒は無理やり、私の顎を持ち、やり手に見せる。やり手は目を丸くした。 「どうだ? これで文句は言えんだろう?」

やり手は頷く。

「そうさね。いくらだい?」

私は女衒の手から解放されて、今度は遊郭という鳥籠に入った。

親が貧しく、兄弟の中から一番顔が整っていたから女衒に売られた。親の顔なんてはっき り見たことがないが売るときは、私の顔ではなく、金の額を見ていたのだけは覚えている。


「こっちで新しい服に着替えな」

やり手に連れられて部屋に入り、そこに用意してあった桃色で花柄の着物に着替える。

「やり手、新しい子?」

優しい声だった。

「そうさ。女衒が売り込むもんだから見てみたら確かにあれは美人になるよ」

「そう。でも頭もいいのよね? 苦労はさせたくないわ」

「あんたは優しすぎるんだよ。花魁としてちゃんとしてもらわなくちゃあ困るんだよ」

「わかっているわよ」

その優しい声の主はこの揚羽屋の花魁だったらしい。

「新しい子と会ってもいい?」

花魁はやり手に了解を取ってから部屋に入ってきた。


その花魁は声から想像した通りとても優しそうだった。柔和にそして理知的に輝く大き な瞳。小さな花びらのように可憐な唇。それでも遊女らしく色香を纏っている。

「彩蝶というの。よろしくね」

そう笑う彩蝶花魁を見て、何故か不意に涙が出てきた。こんなにも優しくしてくれた人は 初めてだった。生まれた瞬間から食い扶持が減ると不平を言われ、愛されなかったせいだろ うか。

「彩蝶花魁......」

花魁はそっと私を抱きしめてくれた。

「やり手、この子を引込禿にしてもいいわよね?」

そうやり手に言っていた。やり手は渋々だったが承諾していた。これが彩蝶花魁との出会 いだった。

「あなたはなんて名前にしましょうか。そうね、もう独りぼっちじゃないから寄香とかどう かしら。私たちはずっと一緒よ」

そう言って、花魁は特別に私を可愛がってくれた。ずっと一緒にいてくれた。もちろん客 の相手をするときは違ったが、それでも客からもらった殆どのお菓子や飾りをくれた。


「寄香、ほらお菓子よ」

「お、花魁。私はお菓子で喜ぶ子供じゃありません」

そうためらってみせても彩蝶花魁は

「そんなことないでしょう。ほら、お食べ」

とにっこり微笑みながらくれるのだった。


そんな彩蝶花魁は諜報という分野も長けていた。あの淑やかで可憐な姿からは想像でき ないほどの妖艶さで客を籠絡してから情報を少しずつ器用に抜いていくのだ。まるでから まった糸を一本一本ほぐして抜き取るようなその技に孤蝶......いいや寄香は惚れこんでい いた。そしてあんなに優しい花魁が人を軽々と殺せることに対しても何故かゾクリするほどの憧れを持っていた。


あんなふうにとても優しく愛らしい人が闇の中でも燦然と輝いているのが美しく見えた のだ。

それにその人が私の事をいつも大切に思ってくれていることが嬉しかった。


「花魁、そろそろ寄香も年頃になってきたし、禿は卒業してもいいだろうね?」

そう私が十三になったときにやり手が言い出したときにも、彩蝶花魁は

「まだまだ子供ですよ。それにもっといい女にするにはまだまだ足りないわ」

と言って、止めていた。そう言った後でこっそり

「もう十分いい女だからね。でもまだお客の前には出たくないでしょう?」

とお茶目な笑顔を見せてくれるのだ。

こんなに幸せでいいのだろうかと思っていた。ほかの禿は次々と遊女になって、面倒な客 の相手をしている。この揚羽屋の外には夜鷹になった女たちが彷徨っている。でも私には面 倒な客が私の顔を見て、手を出そうとしても花魁がいつも守ってくれる。様々な勉強をして、 彩蝶花魁に琴を習って、女としての色香の出し方も学んだ。それに彩蝶花魁は嫌がって教え てくれなかった諜報や殺しの技も物陰からこっそり見て学んでいた。


満ち足りた生活をしていたからだろうか、自分でも鏡を見て思うほど振袖新造になるべきな風貌に成長していた。もうこれからはぐっと女の盛りに入っていくというところだ。


それに対して、彩蝶花魁も今までの可憐さに加え、落ち着いた魅力で客を翻弄していた。 いつからだろうか、彩蝶花魁の輝きがまた増してきた。その輝きはどこか危ういほどにみえたのを寄香はよく覚えていた。

その花びらのような小さな桜色の唇が、艶やかで色っぽい紅色の唇に変わり、健康的に白 かった肌が、まるで雪の妖精のように白くなった。今までよりももっと妖艶に、まるで...... 恋でもしているかのように変貌したのだ。


「彩蝶花魁。彩蝶花魁......」

窓の外を眺める彩蝶花魁に私は必死になって話しかけた、それでも振り向かない時があ った。そんなときはまるで彩蝶花魁が遠くへ行ってしまったように感じた。

それでもすぐに

「ああ、寄香。ごめんね。どうかしたの?」

と優しく言ってくれるのだった。

彩蝶花魁はどのお客に対してもまんべんなく愛想よくしていたが、寄香はたった一人だ け、ある男に対してだけは彩蝶花魁が特別な笑みを見せることに気が付いた。その客が来る 日はとても念入りに化粧をしていた。そして、夜遅くまでずっと一緒にいた。金の払いもた いして良くないのに

「まあ、また今度でいいから」

などと、彩蝶花魁が言うのだった。もちろんその相手の諜報は済んでおり、とくに怪しい

やつでもなかった。ただの金持ちの若旦那だった。


「彩蝶花魁。もう、寄蝶を振袖新造にしていいね?」

そうやり手が耐え切れなくなって言ったときがあった。そのとき私は丁度十六だった。 彩蝶花魁はこちらをちらりと見て、少し悲しそうに。

「そうですね」

と言った。寄香は嫌ではなかった。彩蝶花魁のように仕事ができるのだと思うと嬉しかっ

た。 でも私は結局振袖新造にはならなかった。彩蝶花魁がいなくなって、そのまますぐに花魁

になったからである。


それはある土砂降りの日だった。朝、彩蝶花魁の髪をとかす時間だったので、彩蝶花魁の 部屋に行くと、そこには彩蝶花魁はいなかった。

やり手としゃべっているのだろうかと思って、やり手の部屋に行ってもいなかった。

「どうしたんだい? 寄香」

やり手に彩蝶花魁がいないと言うと、やり手はびっくりしたような顔をしてから、ぐっと 顔をしかめて、とても低い声で

「そうかい。そんじゃあ探させるよ」

と言った。寄香はその時とても嫌な予感がした。足抜け。そんな言葉が一瞬頭をよぎる。

朝なのに雨のせいでどんよりとした空色をしている。


「やり手―! お手紙です!」

禿が走ってきて、やり手に手紙を渡した。やり手はその手紙を見ると胸糞が悪いという顔 をして、男衆に

「外れの川の近くの小屋だとさ」

と吐き捨てるように言った。そしてその手紙を寄香にぐいと渡した。 寄香は恐る恐る手紙を読んだ。 そこには、思わず酒の勢いで花魁を足抜けさせてしまった。外川の小屋にいるから、花魁を迎えに来て欲しい。と書いてあった。そしてその送り主の名を見た瞬間、寄香は体中の血 がぐわっと熱くなるのを感じた。その人は彩蝶花魁が恋心を抱いていた相手だったのだ。彩 蝶花魁と愛し合って足抜けしたのではない。からかう調子で足抜けさせたのだ。それがこの 無責任な手紙からひしひしと伝わってくる。

「彩蝶花魁はどうなるんですか」

柄にもなく声を荒げて、やり手に問い詰めた。やり手はひどく疲れた顔をしていた。そし

て、ゆっくりと首を振る。

「決まりに従うしかないよ。情けをかけるわけにはいかないし、仮にもこの責務から逃げよ うとしたということなんだから」

遊女が足抜けをしたということは......それなりにひどいことをされ、もう二度と会えないということだ。寄香は目の前が真っ暗になった。


自分の部屋まですごい勢いで走って戻った。そして彩蝶花魁がくれたものを大切にしま っていた箱の中を乱暴に開けた。そこにはとても貴重な宝石がはめ込まれた簪や、飴玉、香 り袋まで沢山の物が詰まっていた。私にこんな箱には収まりきらないほどの愛を与えてく れた人をからかって、未来を奪った男が許せなかった。どうしようもないほどの怒りが体を 巡っている。

なぜ、彩蝶花魁は男なんかを信用したのだろう。男を信用して、裏切られて、それでも責 められるのは私たちの方だ。男を信用したから......一瞬の恋に身を焦がして、もう戻ってこ

られない。男は信じてしまえば、男に恋をしてしまえば、女は苦しむ羽目になる。 彩蝶花魁がいない揚羽屋などただの牢獄に過ぎなかった。


「寄香、次の花魁はあんただよ。わかっているだろうけど、彩蝶の分まで稼いでおくれよ」

やり手は事件があった次の日に寄香に言った。

「わかっています」

寄香は言葉少なに答える。

「ところで名前は何にするんだい? さっさと決めておしまい。札を書かなくちゃあいけ ないからね」

寄香はふと、彩蝶花魁にもらった簪を見た。独り孤独に一羽、蝶の飾りがついている。

「孤蝶......孤蝶にする」

やり手は眉を一瞬だけひそめたが、渋々というように頷いた。


彩蝶花魁が寄り添ってくれなくなった、孤独な蝶。それが私だった。もう独りぼっちなの だ。男を愛してはいけない。それが遊郭の決まり事だったが、それは逆に私たちを守る決ま りだった。彩蝶花魁のように男を信じることのないよう、愛さないよう。それだけが私の心 の中を独占していた。

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