第8話 【花魁】
蓮は今屋根裏にいた。そう、揚羽屋の孤蝶の部屋の屋根裏だ。天井の板の隙間から孤蝶の様子を観察する。孤蝶はいつも自分に対応するときと全く同じように旦那たちの相手をしていた。時には微笑み、時には冷たくあしらう。
そして、その様子一つ一つが艶やかなのは もちろんのことだった。
情事のたびにその艶やかさは色濃くなる。腰つかいから、指先まで。観ているだけで体が 溶けてしまうかと思うほど熱くなる。
その顔はかすかにほほ笑んでいたが、そのほほ笑んだ顔の奥に驚くほど毒々しく、強烈な 光があった。男たちに汚されてもなおも残るなにか。
あまりに強い光に蓮は目が離せなくなっていた。何かこの俗世とは違う何かを考えてい る目だった。その激情が潜んだ瞳。
諜報を生業とするものに特有 の死んだ魚のような目とは違った。
孤蝶が帰る客に火縄銃を向ける。街のざわめきが戻る頃に鋭く一発弾丸を放つ。孤蝶は何気ない顔をして、銃を置き、服装と整え始めた。
それが彼女の日常であったが、そんな日常を送る中でのあの目。蓮は自分に無いものを感 じた。
「奥河の主が、税を横領しています」 孤蝶は客に寄りかかるようにして耳元でささやく。今日の客はかなり若い。蓮と同じかそれより少し年上ぐらいだろうか。官吏らしく、上質な羽織を着ている。真面目に切りそろえた髪に、巷では珍しい眼鏡。
「そうですか」
客はそう言って、こちらをほんの少しだけ見る。
「上院様」
孤蝶はニコリと笑い、酒を差し出す。
上院は官吏で、定期的に孤蝶たちが集めた情報を聞いて、政府に報告する仕事をしていた。 「ああ、ありがとう」
ほんの少し耳を赤くする上院を見て、孤蝶はあらあらと思う。
諜報員ではないとしても官吏としては感情を簡単に読まれるようではいけないと思うの だが。
「それで孤蝶花魁、最近怪しい客はいますか?」
酒をあおってから、上院は孤蝶の手先に目線を落とした。
「特には......かなり狩りましたから。なりを潜めているようです」
孤蝶は上院の横顔を見つめる。その細面に、白い顔が少し神経質そうな印象を受ける。しかし、上院は賢く話が合う。何度が仕事の情報共有を共にするが、特に話している内容で知性の差異を感じたことはない。
話し合いが夜遅くまで延びたときに他の客に怪しまれないように 寝床に入ったふりをすることもあり、何度か夜を共にしているが、体の相性という面でも合 っている。
「孤蝶花魁。最近七華屋の若旦那が通ってきているようですが......情報があまりありません。仇を成すものではないでしょうね?」
そう少しためらいがちに上院が言った。孤蝶は抑えつけるように言った。
「今のところなにも怪しい点はありません」
上院はまだ少し気づかわしげな様子だ。 「そうだと良いのですが。ところで、その簪は新しいですね」
上院は孤蝶が挿していた蓮にもらった簪を指差す。
「ええ。七華屋の若旦那にもらいました」
上院は少しだけ顔を顰める。
「それは......かなり高価なものでしょう。噂ではかなりの美男らしいですが......」
煩わしい。
「そうですが、私が男に興味がないことをご存じですよね?」
孤蝶は少し強い語調で言った。
そうだ。この人は遠回しに嫉妬して、言ってくるところが煩わしくて好きになれないのだ。 「すまない」
上院はハッと気が付いて恥じらうように目を伏せた。
「構いません」
孤蝶は蓮のことをふと思い出した。蓮はあの静かな瞳でこちらを見つめ、他の客について何も言ったことがない。とてもおだやかな感情表現をする。
初心な様子の中に潜む大人びた 様子が心地よい。
「しかし、孤蝶花魁。七華屋の若旦那について少しでも調べておいた方が無難ではないでし ょうか。七華屋と言えば外の国のものも扱う商家で、敵国の諜報員が混じりやすいのも確かですから」
孤蝶はと少し目線を上院からそらして思案を巡らせた。
確かに、七華屋は他の国ともつながりがある。調べてみる価値がないわけではない。
「そうですね」
上院は眼鏡の位置を直し、孤蝶の肩辺りを見つめた。
孤蝶の白い肩がゆらりと揺れる蝋燭の光に照らされていた。おしろいに含まれた水晶の 粉がかすかに輝く。最近の流行のおしろいだった。このおしろいは上院からもらったもので、 必要ないといつも言っているのに、他の客に怪しまれるからという理由をつけて贈り物を してくるのだ。
「ところで......この紅などいかがでしょうか」 そう言って、上院がまたしても懐から取り出したのは、またしても入手が困難となっている非常に人気の紅だった。重ねて塗ると玉虫色の輝きが出る笹色紅と言われるものだったが、その中でもとくに人気の職人が作ったものだ。
「そのように高価なものをもらう義理はございませんよ」
孤蝶はそう決まって言うのだが、上院も決まって
「そんなことを言わず。どうかお納めください」
と言って、孤蝶の化粧台の上に置くのだった。
「さあ、もう仕事は終わりましたからお帰りになってはどうです?」
ため息をついて孤蝶が促す。上院は少し名残惜しそうに孤蝶を一瞬見つめたが、
「はい、失礼します」
と言って部屋を出て行った。
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