胎動(2)

「いたいた! どこ行ってたんだ二人とも! おまえらを探すのにおれまで担ぎ出されたんだぞ!」


 医務室を出て廊下を曲がったところで、走ってきたゲルベンスにそんなことを言われてしまった。フェルティアードはさも無関係だという風に、彼に愚痴まがいの台詞を吐く。


「わたしが原因ではないぞ。こやつがいつまでも話し込むからだ」


 首を下に傾ければ、それを予期していたゼルが全身の力を両目に注ぐ勢いで仰視する。


「なんだよ。そんなに急ぎだったなら部屋に戻って引っ張り出せばよかったじゃないか」


 貴族であれば、一兵卒がこんな具合に大貴族と言葉を交わしているのを見たら、その顔は畏れで青ざめるか、不敬だと怒り紅に染まったことだろう。ゲルベンスも確かに貴族で、しかも高位に属する男だった。それなのに彼はゼルをまじまじと見つめると、我慢というものを知らないのかと思う豪快さで笑い出した。


「いや、こいつはいいな! レイオス相手にして、んな喋り方するとは……くっ」


 笑い過ぎてまともに声すら出ていない。内側から出てくる衝動に巨体も耐えられなくなったか、腹を押さえていないほうの手をフェルティアードの肩に乗せてくる。

 緑の大貴族は、心底うんざりしているようだった。呆れ笑いすらない、どちらかといったら見慣れた冷たい顔つきなのに、ゼルにはなぜか彼らしくなく見えた。棘のような威圧感もすっかり消え失せている。


 この人がいるせいだろうか。腹にやっていた手でもう片方の肩をばんばんと叩く大柄の貴族。思い起こせば、フェルティアードとゲルベンスが一緒にいるところに立ち会うのは初めてだった。ゲルベンスの話しか耳にすることはなかったが、お互い気の知れた仲なのはよくわかった。あのフェルティアードが追い払いもせず、渋い顔をしつつ彼を受け入れているのだ。


「やあ、ゼル君。傑作だなあこりゃ。おまえもそう思うだろ?」


 涙まで浮かべたゲルベンスが、自身の腕の下から覗くようにゼルに声をかけてきた。だが後半の問いかけはフェルティアードに対するものだ。にこりともしない男の何が面白いのか、ゲルベンスはまた喉を震わせ出す。


「いつまで笑っている。足止めしているのはおまえじゃないか」


 それもそうだな、とゲルベンスはぱっと手を放した。


「で、おまえらの様子を見る限りでは、予定通り叙任式ってことでいいんだな?」


 話は歩きながらすることにしたらしい。先導しようと歩き始めたゲルベンスは、だが一歩しか進むことができなかった。ぽかんと棒立ちになっている小さな青年を目にしたからである。


「叙任って、え? 何しに行くんだ?」


 ゼルは傍らの大貴族に尋ねる。その相手はゲルベンスを追う歩みを止めずに答えた。


「陛下にお言葉を頂くだけだとでも思っていたのか? 一芝居打っていただいたと言ったろう。おまえがわたしの騎士になると承諾した今、陛下がおまえにしてくださるのは騎士の位を叙することだ」


 行くぞ、とゲルベンスの肩を押して、フェルティアードは歩き続けた。ゲルベンスはそれに逆らわないまま、棒立ちの式の主役を振り返り、


「早く来いよ、ゼル君! 叙任式ってのは作法だらけで面倒臭いんだ、来ないとやり方教えてやらないぞ!」


 これからすぐ騎士になる儀式が行われるとは。日を改めるものとばかり思っていたゼルは、その事実を半分しか受け止めていなかった。そこを追い打つように、ゲルベンスのこのからかいである。


 何もかもが初めてのゼルをフェルティアードが、式に関する知識が皆無の状態で参上させるとは考えられない。絶対に間違えてはならない箇所だけは洩らさず指導するだろうが、ゲルベンス卿だったらもう少し親身になって教えてくれそうな気がした。


「い、行きます! 行きますから、詳しく聞かせてください!」

「んー、どうすっかな~」


 ゼルが追いかけると、ゲルベンスは駆け足になった。足を早めれば、同じくらい速度を上げて彼は遠ざかってしまう。


「ゲルベンス卿っ、なんでいきなり走るんですか!」


 叙任式について多くを知りたかったゼルは、その糸口をちらつかせたゲルベンスにすがりつくようだった。彼に遊ばれているのは、貴族でない者でもわかる。気付いていないのは、強烈な緊張で圧死することを憂うゼルだけだったろう。


 こんな追いかけっこをするのは、半分は早めに控えの間に戻るためだ。しかし残りの半分はゲルベンスの性分なのだろう。フェルティアードは、親友と騎士身分を約束された青年の忙しい背中を見送り、ふうと吸い込んだ空気を吐いた。


 こうしてこの場を去る三人の背後で、二人の男が足を止めていた。一人は求めるものを何一つ見落とさんとばかりにじっくりと、もう一人はさも興味がなさそうに、そのくせしっかりと視界の中心に、遠ざかる金色の頭を留めていた。


「シャルモールのやつ、しくじったのか」


 光を跳ね返す片眼鏡の奥で、瞳が横に流れた。


「彼、というよりは、彼が持っているあの使いですかね。どうも詰めが甘かったようで」


 大した損になることではない。そう言いたげな答えを返され、男は角に消える三つの影の端だけを垣間見た。


「あの男が騎士を取ったか……。これから面白いことになりそうだな」

「面白くするのはあなたでしょう」


 遊び半分のような、真摯さの見当たらない微笑の中に、薄く狡猾なひずみが生じる。男は否定を示すしぐさも言葉もなく、傍らの者しか気づけない程度に唇を緩ませただけだった。


「さ、わたし共も参りましょう。かのジルデリオンが騎士を抱える、またとない光栄な場に立ち会えるのですからね」


 流れ落ちてくる黒髪を背に払い、彼が先立つ。男は刀傷の走る片目をぴくりとしかめ、半歩遅れて続いた。

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