真たる直情(1)

 今ほどゼルが人目を気にしない時はなかっただろう。気にする暇すらないのだ。床を駆ける靴音には遠慮などない。

 右手に廊下が現れたのを見て、ゼルは壁に手をつきながらやっと走るのをやめた。思いのほか全速力で走っていたらしい。呼吸がかなり速くなっている。もし話を聞いたのが王宮へ着いたばかりの時だったら、ばたばたと騒がしい外套にまで気を配らなければならなかった。


 喉が焼け付くようで、すぐにでも水を流し込みたい気分だ。だがそんな悠長なことは言ってられない。唾を飲み込んで、ゼルは通路を曲がった。ここまで来れば目的地はすぐそこだ。震える足は、もう早足程度にしか動いてくれなかった。


「ここか……」


 案の定、医務室の入り口を前にして出した声は、ほとんど音を伴っていなかった。咳払いをしてから、拳で強めに扉を叩く。


 中からの返事を待っていると、ばたばたと細かい、叩きつけるような音がちらついた。ゼルはすぐその原因を理解した。雨だ。昼間だというのに黒く沈んだ空。そこから落ちてくる雨粒が、ゼルが立ち尽くしている廊下の窓を鳴らしているのだ。この時期の雨はありがたいものだとわかっていても、今の彼にとっては気分を滅入らせるばかりだった。


「どうしました?」


 ゼルを迎えたのは初老の男だった。銀にも見える短い白髪に、眼鏡をかけた医師らしい彼は、息切れしているゼルを見て小さな目を丸くした。


「あの、こちらにデュレイク・フロヴァンスがいると聞いたのですが」


 一息にまくしたて、少しむせてしまった。心配そうにゼルの肩に手を置いた男は、ゼルが落ち着いて、彼と再び視線を合わせてからそっと話し始めた。


「きみは、もしかしてジュオール・ゼレセアンかな?」

「はい」


 男が名を知っていることに、ゼルはさして驚かなかった。きっと、こうやって彼が訪ねてくるのを見越して、デュレイが話していたに違いない。


「彼を見舞いに来てくれたのかい?」


 それ以外に何があるというのだろう。友が怪我を負ったと聞いてから休憩の時間に入るまで、こんなに時が流れるのが遅いと思ったことはなかった。しかも、その怪我の原因が決闘で、相手があのフェルティアード卿だなんて。

 今すぐ会えるかどうか聞くと、彼は表情を曇らせた。


「わざわざ来てくれたところ申し訳ないんだが、彼との面会はできないんだ」


 会えない?

 決闘では、負けた側は証拠として傷を受ける。デュレイがここに運ばれたのも、彼が負けてしまったからだ。でも、面会もできないぐらい、ひどい傷を負わせられるなんてことはありえない。


「そんなに深い怪我なんですか?」

「いや、そういうわけではないんだがね……。詳しくは言えないけど、彼の治療はもう少し長引きそうなんだ」


 彼はそう言葉を濁した。あまり多くを語れない状況なのだろうが、それはゼルをさらに不安にさせた。深手でないのなら、なぜ話もできないのだろう。まさか、怪我が悪化してしまったのか? そうであるなら、普通より時間がかかるのもわかる。


 男が立ちはだかる向こうにデュレイがいるのに、言葉も交わせない。しかし、彼が面会もできないほどの痛みに耐えているかと思うと、押しのけてまで医務室に飛び込む気にはなれなかった。


「そうですか。では、あとどのくらい経ったら会えますか?」


 男が口にしたのは、ちょうどゼルが戦地から帰ってくる辺りの日にちだった。もしかすると、会える日すら目星がつかないと言われるかもしれない、と想像していたので、具体的に教えてもらったのには安心した。予定通り帰還するまでに、良くなっていることを祈るばかりだ。


「先生、患者のフロヴァンスのことなのですが」


 医務室の奥からの声に、男が後ろを振り返った。デュレイについての話があるようだ。

 これ以上、用のない自分がいても仕方ない。ゼルは、彼が教えてくれた日が近づいたらまた来ますと言い残し、立ち去ろうとした。だが、男が静かに閉じようとしていた扉の隙間からこぼれてきた言葉を、ゼルは拾ってしまっていた。


 かすかで、ほとんど不確かな音の羅列。しかし、これは絶対に言っていた、と確信の持てるものが、数個だけあった。


 彼。器具。そして、手術。


 帰ろうとしていた足が止まり、耳をそばだててしまう。だがその時には、すでに扉が閉まっていた。声どころか、物音すら聞こえない。

 どういうことだ? あの一連の言葉を発したのは、デュレイの姓を言っていた人だった。それは間違いない。その人が彼、と言うのだから、それはきっとデュレイを指している。器具は治療に使うものだろう。じゃあ、最後の手術は?


 あの流れから察するに、今のデュレイは手術が必要な容態だということだ。たかが決闘の傷ってわけじゃなかったのか。でも、あの医者は深手ではないと言っていた。じゃあやっぱり、傷が悪くなったのか。


 やっと歩き出しながら、ゼルはフェルティアードを思い浮かべた。どちらにしろ、彼がデュレイを傷つけなければこうなることはなかった。それにその行為は、決闘においては必須ではなかったはずだ。フェルティアードは一方的にデュレイに斬りつけたのではないか。そんな考えに行き着くと、ゼルはすぐにでもフェルティアードのもとへ話をつけに行きたくなった。


 いや、そういえば今日は、訓練のあとで執務室に集まるよう言われていたんだ。新兵が戦地に行く日も近い。多分そのことについての説明でもするんだろう。

 大体、今行ったとしても、手ぶらで戻ってくることになるのはわかってるじゃないか。なら、それを聞いたあとのほうが確実だ。


 デュレイに会えなければ、その相手であったフェルティアードに聞くしかない。一体何が原因で、決闘などすることになったのか。彼の都合のいいように歪曲される可能性も考えたが、当事者は彼しかいないのだ。


 雨は激しさを増していく。ガラスを叩く水音は、徒歩で廊下を戻るゼルの耳を、いつまでも追いかけていた。

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