世話人貴族(1)

 ゼルはまず下宿に戻り、外套と皮手袋を引っつかんで王宮へ走った。今回はいつものように兵として赴くわけではないので、剣は持たなかった。門番には兵の証である、ベレンズの紋章が描かれた札を見せ、早足で入り口へと進んだ。試験の日は人気ひとけのない庭だったが、今では騎士や女官が散歩を楽しみ、庭師が草木の手入れをしているのも目に付く。


 大貴族である彼の部屋は奥まった場所にあり、しばらく歩かなくてはならなかった。彼の態度に難癖をつけられても、部屋の場所にまでは文句は言えない。それに、彼が部屋にいる可能性はまずなかった。

 扉のいかめしい装飾は、今ではフェルティアードの態度そのものを表しているように見えた。ノックをする前から、ゼルは諦めの混じったため息をつき、あの取り付けられた鉄の輪で戸を叩く。間を置いてもう一度叩いてから、またため息をついた。


(まあ、忙しいんだろうけどさ……)


 こうもつかまらなさ過ぎるのも困るのである。

 今度ばかりは自分ではなく、フェルティアード本人に対する、しかも至急の用なのだ。廊下で会う人々全員に、彼の所在を聞いて回るゼルの足取りは、焦りから次第に早くなっていった。


 こういう時に限って、有力な情報が得られないものだ。見かけたという場所に行っても本人はいない。懐中時計などという高価なものをゼルが持っているはずもなく、王宮に入ってからどれだけ時間が経ったのかさっぱりだ。これでは、一般兵が王宮に留まれる刻限になる前に、見つけることはできないのではないか。


 ゼルは、そんな不安を募らせる自分を少し可笑しく思っていた。相手はどうも好きになれない人間なのに、なぜこんなにも必死になっているのだろう。たった今侍女から聞いたフェルティアードの行方を、一瞬だけ頭の端に追いやって考えてみる。答えは案外すぐにわかった。自分は、自分の感情と成すべきこととは、切り離して考えているのだ。


 気に食わないからって、フェルティアード卿が不利になるように、やらなきゃいけないことを放棄するなんてできない。大体この用件は自分が進んで引き受けたんだし、その責任はちゃんと――


「わっ!」


 どうも考え事に没頭し過ぎていたらしい。廊下の角からぬっと現れた影に気付けず、早足どころか駆け足になっていたゼルは、盛大に正面衝突してしまった。


「おっと! 大丈夫かい」

「す、すいません」


 じわじわと痛み出した鼻を押さえ、ゼルは相手の顔を見たが、にじんだ涙で歪む視界では、色の判別しかつかなかった。どこかで見たことのある髪の色。ゼルには、まずそれしかわからなかった。


「したたかぶつけたみたいだな。血は出てないか」


 声のする場所が低くなった。わざわざ自分のためにしゃがんだようだ。泣いたわけではないが、涙を見られるのは恥ずかしい。急いで両目を腕で拭き、「大丈夫です」と力を込めて答えた相手は、剣術試験の時ゼルを部屋に案内し説明をした、あの偉丈夫だった。


「おや、きみは確か試験で」


 夕日のような髪と口髭に鋼色の瞳は、間違いなくあの時の貴族だった。何より、彼の今の言葉が裏付けている。しかしゼルはにわかには信じられなかった。試験時に一時だけ見せた、緊張を解くように和らいだ顔。それよりさらに緩んだ笑顔が、目の前にあったからだ。


「はい。あの時はお世話になりました。あの、わたくしのほうこそ、ぶつかりなどしてすみませんでした」


 立ち上がった彼を目で追いながら、ゼルはまだむずむずする鼻をもんだ。やはり背の高い人だ。その上横幅も大きい。フェルティアード卿もそれなりに体格がよかったが、この人の前では平均的に見えてしまう。


「なあに、おれなら鎧を着た兵士がぶつかったってびくともしないさ。えっと……、確かゼレセアン、だったかな?」

「へっ? えっと、はい、そうです」


 つい素っ頓狂な声を上げてしまったが、彼は気にも留めていないようだった。頭をかき、探るようにゼルを見回す貴族が、自分とは軽く二十は歳が離れているはずなのに、まるで同年代のように感じる。

 それにしても、彼はなぜ自分の名前など知っているのだろう。そんなに目立つ名前だったのか。


「本当に大丈夫か? 鼻」

「えっ。はい、なんとも……」


 なくないですけど、と続いた呟きは、無意識のうちに鼻を覆っていた手の中に吸い込まれた。かの貴族は眉をひそめ、嘘ついてないか? と心配そうな眼差しだ。


「でもなあ、そう言うやつに限って、重症だったりするんだよな。念のためだ、医務室に連れてってやるよ」

「いえ、あのっ」


 否応なく肩を抱かれ、歩かせられる。心配してくれてるのはわかるが、いささか強引だ。


「さすがに大げさすぎて嫌か? 医務室は」


 歩くのに多少遅れを取ったのを、ささやかな抵抗と受け取ったらしい。彼はすぐに足を止めた。これで用事があることを伝えられると、ほっとして口を開こうとしたのだが、それもつかの間だった。


「ああ、おれの部屋によく効く塗り薬があるんだ。そっちにしよう」


 友達でも連れ込むのかとゼルが勘違いしそうになるほどの、気軽で明る過ぎる言葉だった。彼は大股に歩き出す。いや、ゼルがそう歩かざるを得なかっただけで、彼は普通の歩幅だった。

 ゼルはもう一度この状況を見直して、自分は彼の友人などではないし、たかが鼻を痛めた程度で薬なんて、しかもそのために大貴族の部屋に行くなど、できるはずがないと言い聞かせた。


 そう、この貴族と話すあいだ、ゼルは彼の外套を留める金具の中心で輝く、宝石の色をしっかりと確認していたのだ。それが、フェルティアードのジルデリオンに次ぐ階位を表す紫の石、ヴェルディオであることを。

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