Day016 ひつじ堂

 とっくに日付が変わってしまった帰り道。トラブルに次ぐトラブルで一日中駆け回った体はくたくたに疲れきっていた。このまま家までの道半ばで倒れてしまえばどれだけ楽だろう。ただ、冷たくて硬いコンクリートでは寝心地が悪すぎるし、痛いのは嫌だという本能だけが、何とか家のベッドまで歩こうという気力を振り絞っていた。

 とはいえ、もう体は限界が近い。足取りも怪しくなってきてやっと事の重大さを理性が感じ取り、今からでも遅くないからタクシーを捕まえようと視線を走らせた。

「……なんだろ、あれ」

 見つけたのは小さな電灯を頭に乗せたタクシーではなく、やわらかい明かりを灯した提灯だった。こんな夜更けに点いているということは飲み屋だろうか。そう思い至ると途端に腹の虫が主張を始める。そういえば、今日は昼ご飯も食べそこねたのだった。なら、休憩がてら提灯のお店でご飯を頂いて、それから帰ろう。そうと決まれば崩れかけていた足は少しだけ軽く、また前に歩き出せた。

 心なしか早足で辿り着いたお店の引き戸をカラカラと開く。中は淡いオレンジ色の明かりが控えめに灯されていて、外から見るよりも広い空間が広がっていた。そして空間の中心には大人二人が入れるほど大きなコクーンチェア、それとたくさんのクッションがラグの上に拡げられている。残念ながら食事処ではなかったようだが、逆に一体どんなお店なのか想像も出来ない。

 ぼうっと突っ立っていると、奥の衝立の向こうから黒いシャツとスラックス姿の若い男が出てきた。男はこちらに気付くとまるで綿菓子のようなふわふわやさしそうな微笑みをこちらに向けてくる。

「いらっしゃいませ。ようこそ、ひつじ堂へ」

「あ……ごめんなさい、間違えて入ってきちゃって……」

「おや。でも、あなたは間違いなくうちのお客様だと見えますが」

 いまいち理解しきれない私の背をやさしく押して、あれよあれよと言う間にクッションの合間に座らせられてしまった。ずっとにこにこ笑顔を浮かべている店員も、この状況も何もかもがあまりにも怪しすぎる。もしかしてぼったくりにでも遭うのか、それともどこかに売り飛ばされてしまうのか。ふわふわのクッションとは対象的に、背筋は冷えて安心とは真逆の心地だ。

「ここ、ひつじ堂はお客様にひとときばかり深い眠りをご提供する店です」

 説明のようで何も分からない言葉をつらつらと吐きながら店員はてきぱきと私のコートを引き取り、カバンを側に置き、どこからともなく追加のクッションを取り出して私の周りを埋め始めた。ふわふわのクッションが気持ち良すぎて逃げられない。

「あの、でめ私は家に帰りたくて……それに、眠りを提供ってどういう……?」

「言葉通りの意味ですよ。さあ、リラックスして」

 そう言うやいなやそれまで羽のようにやわらかい手つきを徹底していた店員がはっしと手のひらで私の目を覆い、背後のクッションへ押し倒してきた。やっぱり危ないお店だったのだ。

「お代は今夜の夢でお支払いいただきます。では、また」

 今すぐ起きなければいけない。

 一度だけまばたきをした後、目の前に広がっていたのはクッションだらけの薄暗い店ではなく、自分の部屋の天井だった。

「っ!?」

 やっぱり帰宅途中で倒れたのか、しかし帰ってきて寝間着に着替えて布団に入った記憶がない。最後にある記憶は胡散臭い笑顔の店員と、夢をお代にもらうと言っていたこと。もう何がなんだか分からない。とりあえず、出勤の支度をしようとベッドから足を降ろした。

 だが、違和感を覚える。体があまりにも軽い。まるでたっぷりと質の良い睡眠をとれた翌日のような清々しい気分だ。

 これではまるであの店員が言っていたように、夢を対価に眠らせてもらったみたいだ。何がなんだか分からない。

 夢だったのか。それにしては妙にリアルだったし、何より体の調子が良い理由が分からない。ふ、とダイニングテーブルを見ると真っ黒い名刺が一葉置かれていた。勿論、自分で置いた覚えも名刺交換した記憶すらない。

 まるで夜のようにしっとりとした質感の名刺を手に取る。そこには真っ白い文字で一行、『ひつじ堂』とだけ書かれていた。

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