探偵はトイレにいる -3

 突然登場した耳に馴染みのない四字熟語に、僕はてきめんに面喰らってしまった。「ふうせ……失礼? 風船がなんですって?」


「ふう・せい・かく・れい。漢字で表すと、風の声に、ええと……なんでもいいだろ? 平時ならなんでもないごくちっぽけな物事も、異常な状況下では臆病者の脅威になりうるって意味さ。三国時代の末期に、迫り来る敵軍に怯えた敗残兵が、風の音や水鳥の声のような些細な物音にも浮き足立ったことが由来らしいよ」


 部長の言いたいことが、なんとなくわかってきた。「つまり部長は、このミドウサマの怪異も同じだとおっしゃりたいので?」


「そういうことだ。君にも覚えがあるだろう? あの山の呼び声事件や、うがいをする幽霊事件のこと」


「ああ……」

 僕はめいっぱい渋面をつくってしまった。


 山の呼び声に、うがいをする幽霊。どちらも僕ら民俗学研が関わった事件であり、そして──蓋を開けてみれば、怯えた心が生み出した錯覚の産物だった。ことにうがい幽霊の方は、思い出すだにへなへなと力が抜ける、なんともしょうのない事件だった。

 誰もいない洗面台から、うがいの音が聞こえてくる。是非とも民俗学研の方で調査してみてほしい──そんな依頼を受けて駆けつけた、旧校舎のじめじめと薄暗い男子トイレで僕らが発見したのは、なんのことはない。口をゆすぐような音を立て続ける、詰まったパイプだったのだ。


「想像してみるといい。薄暗い、放課後の教室。ゆらゆらと揺れるキャンドルの灯り。ボソボソと囁かれる降臨のまじない。神経が張り詰めた状況下では、たとえそれが画鋲が落ちた音でも、恐ろしい警告のメッセージに思えるだろうよ。そして──」


 僕は言葉を引き取った。「──そして平時なら見逃してしまうようなささやかな幸運でも、そうした状況下ではあたかも恩寵の如く感じられる」


 にっこりと笑って、部長は大きく頷いてみせた。「その通り!」


 僕は彼女ほどには愉快な気分になれなかった。「なんか、夢のない話ですね」


「なんだか不満そうじゃないか」


「別に不満はありませんよ。ただ、なんというか……野暮な話だなぁって。別にいいじゃないですか、何にでも理屈を付けなくたって。儀式の最中に何か不思議な現象があって、それが参加者にとってミドウサマの怪異らしく見えたのなら、それでいいじゃないですか。なんでみんな、何でもかんでも白黒つけなきゃ気が済まないのかなぁ」


 最後の一言は、吉川君や須羽さんだけに宛てた言葉ではない。民俗学研に調査依頼を持ち込んでくる、傍迷惑なお客さんたちにも向けられた文句だった。

 みんな勘違いしていると思うのだけど、民俗学とは別に噂の内容の真贋を突き止める学問ではない。日常生活の中に根付いている伝承を蒐集し、それがどのように成立したか、そしてどう発展してゆくかを考察する学問なのだ。

 嘘か実かに拘泥するなんて、無粋とさえ言える。


「君が気に入らないのは、わからなくもないよ」珍しく、慰めのようなことを言われた。「だけど、考えてもみたまえよ。私たちはこれから、貴重な民間伝承のサンプルを、タダで拝ませてもらえるんだぜ。民俗学研として冥利に尽きるってもんじゃないか。な?」


 僕もその点に関しては、同意せざるを得なかった。「……そうですね。成立の背景や儀式のあらましをうまくレポートの形式にまとめられたら、来年の文化祭の発表に使えるかも」


「写真や映像を撮らせてもらうのも、悪くないかもしれないね」


「撮影するんですか?」


 他の参加者から許可が下りるだろうか──そう言おうとしたその時、コツコツという足音が近づいてきた。


 やがてぬっと顔を覗かせたのは、山崎という顔見知りの男子生徒だった。

 丸眼鏡に五分刈りの頭。なんだか戦前の軍医を思わせる風体だが、美術部所属のれっきとした文系人間だ。


「やぁ。君、まだ残ってたのか」職員室まで響くんじゃないかとハラハラさせられるほどの大声で、山崎は言った。「早く帰んないと、槙センがうるさいぞ」


「お互い様だろ。こっちはもう帰るとこだよ。山崎は何やってたの」


「美術室の机借りてオベンキョ。次の試験で結果出さないと、本格的に進級できるか不安だからね……ところで話し声が聞こえたけど、君、いったい誰と喋ってたんだい?」


 嫌な汗が滲むのを覚えた。きょろきょろとトイレの中を見回す元クラスメイトに、僕はさりげなさを装いながら言った。


「電話してたんだよ。ええと……腹違いの姉と」


「ふーん? スマホもないのに?」


「おや、ご存じないのですか山崎クン」大袈裟な身振りで、僕はポケットのスマホを取り出してみせた。「今のスマートフォンには、スピーカーモードという便利な機能がついているのですよ」


 嗚呼、清く正しき正直者の悲しいさがよ。咄嗟に出てくるのが、こんなあからさまに怪しい作り話だけとは。特にひどいのは、腹違いの姉のくだりだ。もう少しマシな嘘は思いつけなかったものか。


 幸い山崎は単純な男だった。「そうか」と一つ頷いただけで、それ以上の追及はしないでくれた。ここに来た本来の目的であろう手洗いを始めながら、唐突に話題を変える。「そういや、君、実習生の先生とは話した?」


「実習生? そんなの来てたっけ」


「嘘でしょ? 存在さえ知らないの? あんなに可愛い先生だったのにさぁー。ダメだよ香宮クン、妖怪だの幽霊だのばっかり追っかけてないで、たまには健全な男子高生らしく女子おなごにも目を向けなきゃ」


 大きなお世話だ。「今、だった、って過去形で言ったね。するとその先生はもういないのかな」


「ああ、ついこないだ実習期間が終わって、大学に戻ったって」


「なんだ、じゃあもう僕らに関係ないじゃないか」


「ちなみに担当科目は地理だったらしいよ」


「ならもっと関係ないじゃないか」


 野羽高では地理は一年生の必修科目であり、当然僕たち二年生はとうに履修済みなのだ。


「ま、ね」

 しれっとそう言うと、彼はようやく手洗いを終えた。まだ手の側面に絵の具の赤みが残っているようだったが、ともかくポケットから取り出したハンカチで水気を拭う。

「じゃ、そろそろ行くよ。同じ部のやつを、昇降口で待たせてるからね。今度みんなでカラオケでも行かないか? 中間が全部終わった頃にでもさ」


「うん、そうしようか。誘ってくれてありがとう、お疲れ」


「お疲れさん」それだけ告げると、彼は気さくに手を上げて、悠々と去っていった。


 ところであの男、自習をするために美術室に行ったはずなのに、なぜ手に絵の具がついていたのだろうか。……こりゃあ次の試験の結果は、期待できそうにないな。


 彼の行く末を案じていると、頭上から茶化すような声が降ってきた。「どうも、腹違いの姉です」


 見上げると、部長はあろうことか個室のドアの上に腰掛けて、にやにやとチェシャ猫じみた笑みを浮かべていた──そんなところに隠れて、いったい何の意味があるというのか。


 呆れ果てて言葉も出ない僕をよそに、部長はひらりと軽やかに飛び降りた。そして今しがたの闖入者など目にも入らなかったような口調で、言った。

「くだんの須羽嬢とやらの妙に自信たっぷりな態度から察するに、だ。ワトソン君、きっと今回の儀式ではひと波乱あるぜ。とくと拝見しようじゃないか。いったい何が起こるのか、あるいは──何を見せてくれるのか」

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