試読「新版 水のゆくえ」
葛野鹿乃子
序 この水の行方
産んではならぬと言われた。
体が保たぬからだという。
腰が曲がりかけた老薬師は皺の寄った顔をさらに皺にして、子を産むのは難しいと
逢瀬は寝具の上に身を起こしたまま、お腹に手を当てた。
出産に臨めば逢瀬の命は危険に晒される。お腹の子を堕ろせば命は助かるが、もう二度と子供は望めない。
逢瀬自身の命か、子供の命か。
二つの天秤に命がそれぞれ載っていて、逢瀬はどちらかを選ばなくてはいけない。
老薬師の話をともに聞いていた夫は、逢瀬が答える前に首を横に振った。
「そんな無茶な話があるか。駄目だ。体壊してそのまま
元々愛想のない夫の顔が渋面を作っている。
子供ができたと伝えたとき、夫は柄にもなく素直に喜んだ。
平素と変わらない声音でそうかいと言いながら、目元が柔らかく綻んでいたことを逢瀬は知っている。
本当は子供がほしいと思っているはずなのに。
だから逢瀬は、夫がくれるこの言葉だけで充分だった。
「わかってないね、あんた」
逢瀬は笑い、夫へ向けて言い放った。
「あたしはね、あんたの唯一の
夫は淡い青の瞳を見開いた。
添って初めてこの人の驚いた顔を見たものだ。
逢瀬は心底、夫をいとおしく思った。
お腹がだいぶ膨らんできた。
開け放った障子の外へ目を向けると、強い日差しを受けた庭の緑が揺れていた。
初夏の涼やかな風が座敷に入り込んでくる。
逢瀬は身重の体を寝具の上に横たえたまま視線を巡らせた。
ちょうど座敷の傍に背の高い花が咲いている。長い茎の周りに濃い赤紫色の花をいくつもつけていた。
ぴんと背筋を伸ばした姿は凛としていて、微かな風にもそよがない。逢瀬は日ごとに背を伸ばしていく立葵の花を見つめて過ごした。
夫はあれ以来何も言わない。仕事の合間にやってきて体調を尋ねた後は黙って傍に座り込み、そのうち仕事に戻っていく。納得しているようには見えない。逢瀬の決意の重さを知ってか、口を出さずに見守ってくれているようだった。
夫が傍にいるときは決めた道を逸らさずに見つめていられるのに、ひとりでじっとしていると色々と考え込んでしまう。
初めての出産がどれくらい大変か、想像もつかない。
子供を産んだら、自分は本当に死んでしまうのだろうか。
答えは出産後にある。拭えない不安だけが肥大化しては行き場を失くして、逢瀬の中で渦巻いていた。
子供を産むと決意はしたが、自分が死ぬかもしれないことが、平気なわけがなかった。
死ぬのは、恐ろしい。
自分の未来も、思考も、今ここにある幸せも、今まで感じてきた悲しみさえ消えてしまう。
そうなってしまうことを考えると、恐ろしくて堪らない。
子供を選んだ決意がその根元から折れそうだった。
心の底に蓋をして押さえ込んだはずの恐怖が溢れ出しそうになり、逢瀬はその蓋を今まで何度も押さえ込んできた。
堕胎も選べないほど、お腹は大きくなっている。
もう自分にはこの道しか残されていないのだ。
そう自分に言い聞かせた。
命を載せた秤はもう、傾いた後なのだから。
大きなお腹を見て、逢瀬はふと夢想する。
この子はどんな声で泣いて生まれてくるのだろう。
夫や自分にどれくらい似ていて、どんなふうに育ってゆくのだろう。
どれだけ考えても想像さえできなかった。
この子が生まれてくる世界に、逢瀬はいないのだ。
逢瀬は、夫や子に、母のいない生活を強いてしまう。遺される家族に何もしてやれない母親だ。
女として、母として生きるのは一瞬。
夫とともに年を取ることも、子供の成長を見守ることもできずに枯れ朽ちてゆく。それでも、種を残せない体に成り果てて生き残るより、その方がずっといいと思った。
夫とは、やはり初夏に出会った。
雨の日に、途方もなく立ち尽くしているところに傘を差しかけてくれた、優しい
父母の思い出もないほど幼い頃に孤児となった逢瀬にとって、夫は家族の温もりをくれた人だった。
ようやく愛すべき家族に出会えた。
逢瀬はようやく結んだ絆を、永遠に夫や子に遺したかった。
逢瀬は大きくなったお腹を撫でた。
生誕を司る神・
――どうかこの子が、無事に生まれますように。
逢瀬はきっと、生まれてくる我が子を抱くことも叶わない。
ちゃんと顔を見ることすらできないかもしれない。
けれどこの子が元気に育ってくれるなら、それだけでいい。
この子が成長すれば、きっと嬉しいことよりもつらいことをたくさん経験するだろう。人生なんて、幸せな記憶よりも苦い記憶の方が色濃く残るものだから。
生まれてきたことを呪う日だってやってくるかもしれない。
だが命というものは、ただ生きているそれだけで、とても尊いものなのだ。
生まれてくるこの命は、逢瀬や夫に望まれてやってくる。
だから立ち止まることがあったとしても、いつかは前へ歩いていってほしい。百の苦難が降りかかっても、自分が持つ一の幸福を見つめられる人間になってほしい。
最後まで、生きていってほしい。
ひとつの川のように時が流れていくこの世では、逢瀬の命は一滴の水のようなもの。すぐに消えてしまう小さなものだ。
それでもこの子が生まれれば、川のその先を流れていく新しい一滴となる。
逢瀬の知らない先の、もっと先へと流れてゆける。
この子が歩んでゆくその軌跡が、自分が生きた証になる。
逢瀬はただ死にはしない。このお腹の子に、命も血肉も、愛も、すべて託してゆくのだ。
だから逢瀬は自分の選び取った道を見つめて、真っ直ぐその先へと歩んでいける。
たとえこの道の先が暗く沈んでいても、行くのが怖くても、この道を選んだことを逢瀬は後悔しない。何度同じ選択を突きつけられても、きっと何度でも、子にすべてを託す道を選ぶだろう。
咲けばすぐに枯れる花になってもいい。
この子の命と一緒に、逢瀬はずっと生きていく。
だから未だ顔も見えない我が子に、逢瀬は言う。
「愛しているわ」
逢瀬は再び、お腹をそっと撫でた。
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