三人の仔

@chromosome

第1話 小菅駅から

 伊勢崎線小菅駅から、東京拘置所まで一人の老僧が歩いている。暑い夏だった。雨は少なく、萎れかけた街路樹にまかれた水も、ほんの僅かの間、潤いをもたらしただけだった。夜になっても気温は下がらず、毎日繰り返される熱帯夜という言葉に、人々は溜め息をついていた。

 老僧は、福島生まれの福島育ちで、暑さに慣れているはずであったが、歳であろうか、さすがにこの頃の暑さは堪えていた。

 なるべく暑さを避けるために、朝早く出かけてきたのだが、既に気温は二十五度を超し夏日となっている。近くにあるはずの荒川から涼風が吹いているとは思えない。

 彼の菅笠と手甲脚絆は、やや新しかったが、墨染めの衣は、長年の風雨に曝され色あせている。それは、この老僧が厳しい行脚の生活を物ともしないということを示していた。

 貌に刻まれた皺は奥深くまで日に焼け、若い時は、叡山の荒法師と異名をとったでもあろう、その足取りに衰えはなく、足袋に草鞋の歩みは、着実に目的地を目指していた。

 身長は百七十センチあまり、年齢は七十歳は過ぎているだろうか。その僧は、四国の須弥山安寧寺の住職で禅宗の僧侶であるが、浄土真宗にも造詣が深い。

 東京拘置所は、既に、小菅駅から東に見えていたが、その入り口にたどり着くのには、かなり建物を回り込まなくてはならない。近づくにつれ、十二階建ての灰色がかった独特の形の建物は、無機質な全容を現し始めた。

 老僧にとって、東京拘置所は、巣鴨から小菅に移転してから三十年以上もの間通っている、馴染みの建物のはずだった。だが、改築前の平凡な姿と比べ、現在の南北に両V字形に張り出した異様な姿には、醜悪な印象を受けずにはいられなかった。

 そのような印象を軽減するためにと老僧には、思われたのだが、今は、高さ五メートルの外壁の代わりにフェンスが設置されている。

 彼は、しばし、全景が見える場に立って、その建物の十階と十一階をじっと見つめる。人の世がある限り、あそこが空になることは絶対にないであろう。だが、縁なき衆生だからと言って、放っておくことはできないと彼は思い直した。 

 老僧は、いつものように門の近くの受付で住所と名前を書いた。刑務官がやってきて、教誨室へと連れて行ってくれるのだが、建物は、内部で細かく分かれてまるで迷路のようだ。

 さらに、建物内部の区切りの出入りには、セキュリティICカードを差し込み、指をかざして指紋認証を行う必要がある。もし囚人が逃亡を企てたら、最初にすることは、刑務官の指を切り取ることになるのかと、老僧は余計な想像をしたことを思い出した。

 彼が、死刑囚と対面する教誨室は、畳の敷かれた和室で、仏壇が備え付けられていた。死刑囚の命日には、花が活けられ供養が行われる。

 もう一つ、教誨室がある。それは、キリスト教用のものだった。その部屋には十字架や蝋燭立て、聖書が備え付けられ、教誨師と死刑囚が賛美歌を合唱することもできた。

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