だれのためでもない童話集

緑窓六角祭

祠の守り手

 人間がまだ半分だけ人間だったころの話だ。

 じゃあ残り半分は人間でないならなんだったのかというと、それは人間でないものだったとしか言えない。ともかく私たちは徐々に今の人間になっていったわけで、その前は人間でない部分が混じっていた。実のところ今も人間でない部分は残っているがこれからする話にあまり関係がないのでここではこれ以上触れない。

 前書きはこのくらいにしておこう。今時、前書きなんて流行らないからね。


 灰卒は15の年に守り手として選ばれた。密室の中で圓月師が三日三晩、炎を上げつづけたところ、その燃えさしは確かに彼を示していた。

 それを聞かされた時、灰卒はその可能性はあるなとは思っていたがまさか自分が選ばれるとは思っていなかったので驚いた。理論上はありえたとしても確率の非常に低い現象について、人は想定はしても実際は起こらないと考えているものだ。


 驚きはしたものの灰卒はその仕事を引き受けることにした。断ることはつまり村からの追放を意味していて、それは別段望むところではなかったので。

 守り手が何をするのかよくわかってなかったのもあって、最悪それがあまりにつまらないものであれば逃げ出してしまえと考えていた。要するに大したことは考えていなかったということだ。

 後になって振り返った時に灰卒がその選択を悔やんだかと言えばそんなこともない。いい加減に選んだことを悔やむことは少ない。悔やむとすればもっと広くて、いい加減に生きていたこと自体が対象になることはあるかもしれない。


 守り手の仕事とはその名の通りに像を守ることだ。それは森の奥の祠に置かれている。1年の間、次の守り手が決まるまでそのそばを離れてはいけない。

 なぜ守らなければならないのか、何が襲ってくるのか、それはわからない。守り手に知らされていないというわけではない。長老も圓月師もそれを知らないのだ。教えようがない。

 ただ村の人間たちの間で像を守らなくてはならない、それを損なってしまってはまずいことが起きるという考えは共有されている。灰卒もまたその感覚を持ってはいたが、深く考えてみた時、それがいったいどれほどのものなのかはわからなかった。


 ト号は無口な男だ。20年以上前に守り手をしたことがあるという。灰卒が祠に向かうまでにはまだ時間があったので彼は話を聞きに行った。

 問いかけに対しト号は木こりの手を止めてしばらく考えた。目は開いたままで灰卒に向けられていたがその瞳は決して灰卒を映していなかった。最初はそのことを異様に思っただけだったが次第に怖くなった。

 絶対に祠から離れてはいけない。

 ト号はそれだけ言った。そしてまた木こりの仕事に戻っていった。灰卒はその後ろ姿を見て、それから先の空白を思い出して、これ以上の質問は無意味だと悟った。


 古いナイフを持っていくことにした。灰卒はそれを祖父から引き継いだ。祖父はそれを祖父の祖父から引き継いだという。それ以上さかのぼることはできないがきっとものすごく古いものであることはわかった。

 与えられた準備期間にゆっくりとナイフを研いでいった。磨き抜かれたそれは鈍い光を放っていて、何かよくないものから自分を守ってくれるような気がした。

 よくないものとはなんだろう。灰卒はその正体を知らない。圓月師も知らない。村のだれも知らない。あるいはト号は知っていたのかもしれない。けれども教えてくれなかったのだからどっちでもいいことだ。


 懐の奥深くにナイフを隠す。きっと自分を守ってくれると信じて。

 夕方、圓月師はやってくる。いったい彼は何者なのだろう。真っ黒なローブをいつも頭からかぶって顔の下半分しか見えない。灰卒が生まれた時にはそこにいてずっとそれは変わらないように思える。自分より年上なのは確かだがそこまで年老いているように感じられない。

 森の入り口に彼らは立つ。圓月師は何も言わずに木々の隙間を指し示した。よく見ればそこにはかぼそいけもの道が通っていた。こんなものがあることを初めて知った。教えられなければ一生気づくことはなかったかもしれない。ずっとそこにあったというのに。


 枯毛木の黒と妃水仙の紫が混じり合う部分。あまりじっくりとは見る気になれない。なぜだろうか。理屈では説明しきれないものがある。それは今の私たちでは足りていないだけなのか、それともどこまで行っても絶対に説明しきれないものなのかわからない。

 わからないが事実として共有できていることはある。幻想かもしれないけど。

 灰卒は今感じているものについて圓月師と共有できているのか疑問に思った。というよりも共有できていないだろうなと思った。森の入り口に立って感じたのはそれに対する恐れ以上に圓月師が異質であるということだった。今まで気づかないのが異常に思えるほどに彼は異なる存在だった。


 その黒いローブをはぎとってやろうかとふと思った。そうすることですべてではなくとも、部分的には何かが解決するように感じられた。

 けれどもやめておく。それは決別を意味していたから。いつか訪れるとしても灰卒はそれを先延ばしにすることにした。

 森へと足を踏み入れる。鳥たちが一斉に、陰鬱に泣き叫ぶのが遠くで聞こえた。


 どこまで行けばいいのかはわからなかったがどこへ行けばいいのかはわかっていた。細いけれども確実に足元には道があってそれをたどっていけばよかった。

 けれどもその道は全然まっすぐではなくて曲がりくねってねじくれていて、村からどっちの方向にどれだけ離れたのか、灰卒にはすぐにわからなくなった。同じところをぐるぐるまわっているだけのような気がして、立ち止まることも考えたが今さらどうしようもなかったので、結局は歩きつづけた。


 祠はあった。

 薄汚れて朽ちきってそこで道が終わってなければ通りすぎるところだった。立ち止まって目を凝らしたところで木々の間にそれは浮かび上がってきた。擬態しているのだとしたらまったくそれはたいしたものだと言える。灰卒自身、過去にこの場所にやってきて気づかず通りすぎた可能性もあった。

 中をのぞけば立って両手を合わせた姿勢の木像があって祠と同じようにずいぶんと風化していた。背丈は灰卒の半分ほどでそれが人間を表しているのは確かだったが男か女かすらわからなかった。ひと目見てそれを奉る気にはなれなかった。


 森の中で生活を始める。

 人との接触を失くして言葉は内向きにたまっていった。灰卒は静かに考えつづけた。自分とは何か、森とは何か、祠とは何か、像とは何か。それらすべてに明確な答えはなくて、明確な答えがないからこそ考えつづけることができた。

 つまりは答えを求めてはいなかった。


 灰卒はそういう男だ。答えを厳しく追及することをしない。

 そうやって生きてきた。そうやって生きてきたことで得たものもあったし失ったものもあった。その感情についても灰卒は正確に測ることをしない。

 だから灰卒は第一感に従って祠ひいては像に近づかないことにした。


 正確に知っておけば回避できる失敗もあれば、正確に知っておいたところで回避できない失敗もある。正確に知っていたことでかえって失敗の確率が上がるということもある。正確に知ろうとすることでそれがどのケースにあたるのかわかることもあるし、人間の観測範囲ではわかりえないこともある。

 これがどのそれにあたるのか灰卒は知らないし、灰卒以外のだれかにもわからないかもしれない。


 満月の夜がやってきた。

 予感だけあった。いいことか悪いことか、どちらかしれないけど、とにかく何かが起こるという予感。黙ってあぐらをかいて灰卒は月を眺めていた。憎らしいほど綺麗に丸い月だった。

 圓月師は月から力を得ているという。そのようなことをうっすら聞いたような覚えがある。満ち欠けによってその力は変化し満月に近いほどその力は増大するらしい。真偽は定かではない。

 そんなことを思い出したのも予感に連なるものだったのだろう。物音。不自然な音。祠のあたりで。動物でない、人間が起こしたような音。


 灰卒は振り向く。像が立っていた。祠から抜け出して。

 青白い光を浴びて彼は笑っていた。その表情を読み取ることができた。木像は朽ちた姿でなしにその精度を上げて人間に近づいていた。理想形でなくとも灰卒に記号を読み取ることができるようにはなっていた。

 像は前へと歩く。灰卒へと接近する。そのたびに人間らしくなっていく。灰卒は逃げるか戦うか、それらの選択肢すら頭に浮かばなかった。何らかの催眠状態にあって思考を奪われていた、わけではない。単純に彼は危険を感じていなかった。


 座る灰卒を木像は見下ろす。木像は圓月師であった。

 灰卒を確かにこの祠へと送り出した圓月師が立っていた。その事実に灰卒は混乱しなかった。

 懐奥に隠していた古びたナイフを取り出す。そうして立ち上がりながら横薙ぎに振り払った。


 木像の首は落ちる。血は流れない。それはすでに圓月師でなかった。今度は灰卒がそれを見下ろしていた。

 理屈で言えばこんなちっちゃなナイフで首が落ちるわけではないと灰卒にはわかっていた。それを振り払ったこと自体には灰卒なりの考えがあった。少なくともその場の何かに踊らされたわけではなく自分の意志でそれを行ったのだと灰卒は思っていた。

 ただその想定以上の結果に少し驚いた。


 自分の手の中にある古ぼけた刃物を眺める。強く熱を帯びている。

 血筋を辿る。何か特別な力を持った人間がいるとは聞いたことがない。であればこの物品自体に力があってそれが流れ着いてきたのか。それは語り継がれるほどでもないことだったのだろう。最早いつそれが起きたのかもわからない。

 灰卒は歩き始めた。


 その足元に道はない。けれども進むべき方角は決まっていた。

 ナイフがそれを教えてくれている。

 1歩1歩、木々をかき分け進んでいく。先に何があるのか彼は知らない。まったく気にしてもいない。

 背後で祠が崩れていくのかわかった。あれはもう意味を失くしたものだ。いっしょになって村も消えていく。二度と戻ることはありえない。壊れた木像だけがずっとそこに落ちている。灰卒はその姿を脳裏から消し去ることができなかった。


 濃い緑の匂いが鼻を衝く。灰卒は大きくひとつくしゃみをした。空が震えた。

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