親の背
魚崎 依知子
第1話
足を止めた先には、件のアパートが佇んでいる。一見してはどこにでもある二階建て賃貸住宅だ。築四十年で全面リフォームは十年前、陸屋根のモルタル外壁にコンクリートの外階段。その上がり口には集合ポストが設置してある。防犯カメラは後付のものが集合ポスト上部に一つ、オートロックはない。決して防犯に優れているとは言えないが、最寄り駅から徒歩十分圏内の2DKで月四万円は田舎でも格安だ。
「仕方ねえ、行くか」
短くなった煙草を爪先でにじり消し、側溝に落とす。ボストンバッグを手に、砂利も疎らな駐車場を突っ切ることにした。
ゴミの散らばる集合ポストを横目に、階段を上がっていく。現在の管理は昨年からうちで、管理部門が清掃を担っている。定期的に掃除しても汚いのはつまりはまあ、「そういうこと」だ。
通路に転がる色褪せたおもちゃや三輪車を確かめながら、一番奥の部屋を目指す。今日は平日昼間だから静かだが、土日は相当うるさいだろう。先月なら夏休みの真っ最中でろくに休めなかったかもしれない。
――経験者とは言ってもここでは新人なんだからさ、最初の仕事として頼むよぉ。手当て十万出すからさ。
所長が媚び諂う笑みを浮かべると、ぶよぶよとした白い顔のあちこちが蛍光灯にぬらりと照った。なんとなくマルチョウを思い出したから、以来胸の内ではマルチョウと呼んでいる。
そのマルチョウが俺に、業界経験者かつ不動産鑑定士(もうすぐ三十四歳)の俺に言い渡した最初の任務が、「ハイツ本絹地205号室に一ヶ月以上住む」ことだった。
こんなもん、ほんとのぺーぺーにさせろやクソが。
悪態をつきながら、差し込んだ鍵を回す。がちゃりと響いた重い音に、腹を括って鉄のドアを開けた。隙間から溢れ出した臭いは塗料や接着剤の、予想どおりのものだ。大きくドアを開き、中を見る。ドアを開けてすぐに八畳ほどのDKがあり、奥には襖で仕切られた六畳間が二つ並んでいた。
前の入居者は半年ほど前、このDKで首を掻っ切って死んだらしい。不快すぎて詳細は聞いていないが、相当血が飛び散っていたのだろう。惨事をごまかすためか、リフォームされたばかりの部屋はあらゆるところが白い、不自然な内装になっていた。
落ち着かない明度に舌打ちして上がり、奥の襖を開ける。自然な色を残す障子と畳にようやく安堵して溜め息をついた。和室の片方には、畳まれた布団が置いてある。まるで、つい最近まで使われていたかのような。
気づいて振り向いたDKには、冷蔵庫と洗濯機が設置されている。キッチンのシンクにも洗剤ボトルとスポンジがあった。冷蔵庫と洗濯機はともかく、あまりに用意周到だ。
……俺が一人目じゃねえな。
察した状況に煙草を取り出し、火を点ける。竪框に凭れ、煙を長く吹いた。俺に託された仕事は、いわゆる「事故物件ロンダリング」だ。
本来なら、自殺や他殺などが起きた事故物件は借主や買主にその告知をする義務がある。二〇二一年のガイドラインでは、賃貸契約で原則三年、売買契約には時効なしとも定められた。ただ、今となっては業界の悪い慣例と言うべきだが、かつての「告知すべき入居者は次の借主のみ」の判例に従い次の借主に社員やバイトを当てて告知義務を消し、次の借主には何食わぬ顔で通常の家賃で貸す方法が今もまかりとおっている。「新人扱いされた俺」は、その片棒を担がされているというわけだ。
前任者がどれくらいで音を上げたのかは知らないが、一ヶ月も住めなかったということだろう。面倒くさいことになった。
不意に聞こえ始めた赤ちゃんの泣き声は隣か、普段なら煩いと思うところだが今はこの世との繋がりを感じて安堵する。ここで何が起きるのかは、夜になれば分かるだろう。一息ついて、ボストンバッグを開けた。
やっぱり、落ち着かねえな。
二本目のビールを傾けながら、開いた襖の向こうに暗いDKを眺める。閉め切るのもなんだか気持ちが悪くて開け放っているが、これはこれで薄気味悪い。前の奴は、何があって首を掻き切るような真似をしたのか。苛立ちで何も聞かずに来たのを少し後悔しつつ、缶を置いた。
まあ、何かあったらいやでも聞きたくなるだろうよ。
苦笑して手に取った煙草は残り一本、咥えて抜き取った殻を握り潰してDKへ投げる。火を点けて、最初の煙を吹き上げる。垂れ下がった和風シーリングに、ぼんやりと実家の居間を思い出した。
――イエス様も仰っているだろう。義のために迫害される者は幸いであると。
「くっだらねえ」
吐き捨てるように言って煙草を弾き、ビールを呷る。空いたばかりの缶も握り潰し、暗闇へと投げ捨てた。
ぼんやりと目を覚ました夜中、遠くで足音がした。いつもの酔っぱらいか、と考えて今日から住処が違うことを思い出す。本格的に覚めた眠気に目を閉じたまま、聴覚を研ぎ澄まして音を探った。
硬いヒールの音か、こつこつと響いては止まり、また響いては……一分ほど止まってからまた響き始める。一軒ずつ、部屋の前で足を止めているのか。
少しずつ近づいてくる音にぞっとして、常夜灯の下で体を起こす。確かめた枕元の携帯は午前二時、新聞配達には早すぎるし俺は購読していない。また響き始めた音に腰を上げ、音を立てないように和室の襖を少し開ける。こめかみに滲む汗を拭い、短くなる息を努めて長く吐いた。相手は生きてる奴か、そうでない奴か。
オカルトには少しも興味がないし霊も見たことはないが、たとえ後者であっても不動産業者としてどうにかできるものならしておくべきなのは分かる。入居者の居付かない部屋を抱えた物件ほど商売しにくいものはないからだ。前者なら、普通に殴れば済む。
いよいよ間近に迫った音に、唾を飲む。足音は同じように床を打ちながらこの部屋の前へ来ると、ぴたりと止まった。ここは角部屋だが、折り返すのだろうか。
もう少し襖を引いて、暗がりを確かめる。常夜灯の明度では玄関まで届かず、向こうは暗闇に沈んでいた。
……消えたか?
部屋の前で音が止まってしばらく、聞こえなくなった物音に腰を上げる。暗闇の中を、手探りで玄関へ向かった。夜中でも街灯のおかげで外は明るいから、覗き穴から得られる情報は多いはずだ。
裸足でたたきへ下り、覗き穴の真正面に立たないようにドアへ沿う。少しずつ体を寄せ、覗き穴の向こうを確認した。
暗い、と気づいた瞬間に固まる。しまった、向こうも。
「……いたぁ」
粘りつくような女の声に、体を貫くような寒気が走る。悟ったまずさに勢いよくドアを突き放し、倒れ込むようにして玄関を離れた。
「あ、けてよぉ……」
かり、と聞こえ始めたドアを掻く音は止まず、遂にはがりがりと荒く掻きむしる音へと変わる。合間に「あけて」「あけて」と縋りつくような声がした。
「あ、けてええ……あけてよおおおおあけてえええええええええ!」
突然響いた耳を劈くような叫び声に、どこかがやられたのか目眩がする。
「クソが、ふざけんなよ」
悪態をついてはみたものの、視界は揺れて覚束ない。遂には暗い天を仰いでそのまま、何も分からなくなってしまった。
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