第31話
しばらくしてもう完全に日が落ちきった頃。ソリバは音を立てないように足音を殺して、隣の部屋の寝息も確認してから、宿の外に出た。
外はもう真っ暗であり、ひんやりと辺りを包むような冷気が降り注いでいた。ソリバは眼鏡をかけ直し、手にランタンを下げて足早に工房へ向かう。
その様子を、アフラムは窓から見ていた。相変わらずの並外れた脚力で、暗くなった道を駆けていく。その速さがあれば、今日のあの女と話をすることもできたのに。彼は心の内にそう思った。
まだ重たい目をこする。狸寝入りとはいえ、何度か眠ってしまいそうになってしまった。眠気をぬぐうため、アフラムはテーブルに置いてある水をコップに注いで飲み干した。水ならばある程度は接種できるようになっていた。
苦いようなまずいような味が喉を通り、少しばかり頭が明瞭になってくる。時計を見ると、もう日をまたいでいた。
ソリバが何かしようとしていることはすぐに見てとれた。アフラムとソリバは小さい頃から互いを知っている。当時から付き合いがあり、ある時期には堅い信頼関係をも築いていた。しかし今や、互いを嫌悪し合う仲である。殺意すらも抱いていた。
(三年前のあの時、もう少し時間があればやれたのに)
そんな後悔を何度も繰り返した。
夜の静寂が色濃く香る部屋で、アフラムは軽装に着替えて再びベッドへと体を倒した。ギシ、とかすかに軋んだ後、一室には彼の呼吸の音のみが響き渡る。ゆっくりと時間が流れるような、そんな感覚であった。
地下牢獄では外界の空気がなかったためか、時間を感じることはなかった。しかし今はハッキリと時刻が分かり、一秒が流れていくのが分かる。それが少し不思議である。
アフラムは息を吐きながら、あの甘美なる夢を思い出していた。牢獄に入れられた最初の夜に見た、あの夢である。水を飲めるようになってから、少しずつそれがまた現れるようになった。
それはかつて、アフラムを救った恩人が現れる夢である。その恩人が、アフラムを罵り、恨みを言う夢である。どうして助けてくれなかった。どうして敵を取ってくれない。何のためにお前を生かした。お前には期待していたのに。何故お前が生きている。そのような責め苦を黙って聞いているという、そんな夢であった。
しかしアフラムは幸福であった。夢であの恩人に出会うことが出来ること、それこそが至福の喜びであった。あの人が自分に恨みを言うことで、少しでも気が軽くなるのであれば、それだけで彼にとっては十分であった。
それは幻影のように現れる。何もない暗い空間から霧のように姿を現して、アフラムを足蹴にし、低い声で恨み言を吐いている。
「死にたくなかった。私にはまだやるべきことがあった。それをお前が阻んだ、お前には私を救うことが出来たのに。かつて私がお前にやったようには、お前は私にしてくれなかった。私が殺された、あの日、お前は何を思っていた? 罪悪を感じはしなかったのか? どうして私が死ななくてはならない、ああ、死ななくてはならない……。死ぬべきはお前だった。私じゃなかった」
(ええ、その通りでございます……)
「心配だ、心配だ……。私がいなくなって誰が民を守る? 誰が我が子を守ってくれる? お前か? 笑わせるな。私一人救えない者が、何故大勢を救えると言うのだ。忌々しい。その白い髪を見る度、何故あのときお前を拾ってしまったのかと思う」
その声に反響するように、隣に女性の姿がゆっくりと現れた。ぼやけた輪郭でもその美しさが分かる、暗い目をした悲し気な女性だった。
「私は殺されました。貴方のせいで殺されました。貴方が私のことを話したせいで殺されました。忘れられました。何故話してしまったの。貴方はどうして裏切ったの。貴方が始末をつけなさい。罪を償いなさい。それが私たちにできる唯一の、贖罪です……」
(申し訳ございません。申し訳ございません)
「苦しめ。私たちよりも苦しみながら、その命を絶て……」
すると、その低い声に雑音が混ざった。冷たい風が頬を撫でる。うっすらと目を開けると、窓ガラスが揺れていた。その奥からは空が白み始めている。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
いつ戻ってきたのか、テーブルではソリバが何かを書き記していた。集中して一心に書いているようで、アフラムが身を起こしたことにも気づいていなかった。
「何をしている」
寝ぼけたような声でアフラムは言った。
「手紙を書いている」
「手紙?」
「クリミズイ王国へ送る手紙だ。旅の報告と、個人的な連絡の」
「……」
アフラムは興がそがれたように首を振り、わざと大きな音を立てて横になった。
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