生まれながらに幸福で

影津

第1話 

*佐島の視点


 地下鉄の出口の階段を上がると生暖かい風が吹き込んでくる。三月末だが汗ばむほどに暑い日だ。


 佐島さしまは出口の階段を一個飛ばしで上がろうとして、湿ったタイルに目を留めた。桜の花びらが足元に運ばれてきて気が滅入ったのか、たった一枚の花びらを避けるようにして隅に寄った。階段を上りきり桜餅の売られる臨時売店の前を早足で通り過ぎる。秒針の取れたカシオの腕時計を見ると正午だった。朝十時に足を運んだハローワークでなんの成果もあげられず、二時間も浪費したことになる。


 佐島の革靴の底がすり減ったのはそのせいだ。


 スーツのシャツが汗で背中に張りついている。長い前髪もだ。


 佐島の顔はえらが張っていて、いつも怒っているように見えるらしい。黒髪ショートで前髪が長く、黒い目は隠れ気味で、顎は鋭利だ。大学の合コンのときに、鼻梁が整っていることもあり、何人かの女子が佐島のLineを登録したがったが、いざ隣で座ってみると「あんたの目どこ見てるのか分からないね」と急に女子たちは去ってしまう。少し斜視が入っている黒目がせっかく良かった第一印象をすべて台無しにしてしまうのが常だった。


 駅を南下するとI公園がある。あそこは桜が百五十本もあるK市の桜の名所だから、佐島は避けて自宅に向かって歩く。だが自宅アパート付近の公園はそうはいかない。


 南H公園は二十三号棟まである巨大団地の傍の小さな公園だ。たった四本の桜の木に二十ものポップアップテントが、滑り台やブランコなど遊具の隙間を埋めている。テントの主の大人たちは大口を開けて笑いあい、昼間からビールを煽っていた。彼らの子供らは大人の道楽とは無縁で、公園の隅の草むらで土を掘り返して遊んでいた。


 桜は花びらの雨を降らす。花びらはちらちら回転して、その場に落ちていく。佐島も頭では綺麗だと分かっている。どちらかというと美しさのあまり儚さもまで感じとって、感極まって目元がうるんでいる。それとは別に桜を好む人間は好きになれないという矛盾も感じていた。


***Dの視点


 俺は佐島を通して人々が楽しく過ごしているのを見てしまうと、歌まで聞こえてくる気がした。日本には桜のヒットソングがありすぎる。春は逃れられない季節の一つだろう。近年、温暖化で夏と冬だけになったように感じる四季でも、桜だけはそこかしこで咲いているのだから嫌でも春は存在感を増す。


《佐島、ここに桜が嫌いな青年が一人いると声高に宣言してみたらどうか》俺は佐島に無理強いはしないが、佐島の本音を知っている。


「独り言になるから嫌だ」


 声に出すからだろ。俺たち二人は声に出さずに会話することもできるのに、どうしてそんな間抜けなんだ。代わりに佐島の気持ちを代弁してやることにする。


《桜は全部散ってしまえ》


 佐島の頭の中で俺はそう言った。佐島ダイは俺のことをダイのイニシャルから取ってDと呼ぶ。ダークヒーローのDとも言っていたな。


 俺は佐島が幼い頃からの頭の中に住まわせてもらっているが、たくさん会話をするようになったのは、就職活動が始まった四年前からだ。


 いや、全部はまずいだろうと佐島が言う。


《お前がそう思うことを代弁してやったんだ》


 佐島は自分が桜嫌いだということに疑問を感じ、足早に南H公園を通り過ぎる。


《腹立たしいことばかり起こってるんだろ? 数えてみろよ。全部が春に起因しているはずだ》


 俺は佐島に直近の気に食わないことを数えさせた。


『見つからない仕事、無駄になった交通費、うるさい春、気取った春、憎い春、死ね春――』


 そうだ、それだ。お前はいつも心の奥底で思っている。お前は他人が幸せに満ちている春が恨めしい。ずっと冬でいい――と思っているはずだ。


 ようやく、佐島は自分が春嫌い、桜嫌いだと納得して頷く。それから腹を鳴らして一人で恥ずかしがる。気が抜けた感じになった。


「腹減ったし弁当買って帰ろうか」


 俺に提案した佐島が公園から向かいのコンビニに立ち寄る。俺は好きにさせていた。


 佐島はジュース売り場の冷蔵庫前に行き、炭酸飲料、紅茶、天然水を眺めた。冷蔵庫から水を取り出して、夏にはまだ早いミニ冷麺がたった一つだけ置かれていたのでそれも手に取りレジで精算する。レジにいた二十代ほどの女性の溌溂とした声が店内でよく通っていた。


 佐島はどうすればテーマパークで接客しているような大声で話せるのだろうと疑問に思う。


 ここの店長の教育が素晴らしいのか、それともこの店員の元来の素質なのかは、俺にも分からない。


 佐島はライブグッズとして購入したロックバンドのロゴの入った財布を取り出そうとして手間取る。二千円で買った小銭入れだ。佐島からしたら安くはなかった。それなのに、半年でチャックの部分が壊れかけている。たった五百二十七円を取り出すだけで、もう二度と閉じられなくなりそうだ。


 小さな小銭入れに手こずる佐島の細い指を見て店員が、まだかなと鼻を鳴らした。さっきまで、接客の達人だと佐島は思っていたのだが、その考えは霧散する。急に冷や汗をかきはじめている。


 なんとか支払いを終えコンビニを後にした佐島。俺は佐島がコンビニバイトの面接を先週受けていたことを思い出す。結果は今日ぐらいにスマホにメールが来るかもしれない。


 なぁDと、心の内で俺は呼ばれる。


『もしバイトが決まったら、どうする? コンビニバイトはこの子よりきびきび働ける自信があるか?』


 何を言っているんだ佐島は。決まったら働くだけだ。働いて駄目ならやめればいい。


 俺が無視を続けていると佐島がいい加減にしてほしいと訴えてきた。お前を無視するのは何も今日がはじめてじゃないのに。


 佐島は俺のことを別の人格だと信じている。つまり自分は二重人格で、佐島が困ったときに俺が登場し、盾になると。そもそも佐島は二重人格のなんたるかを知らない。正式名称は《解離性同一性障害》だとこの前教えてやったのに、もうその名称は忘れている。


 佐島は俺とはフラットな関係の友達でいたいらしいが、お前みたいな奴ほど依存する。


 俺とお前が遊びはじめたのは十代の頃だ。佐島は架空の友達ではなく、架空の自分を作り上げたつもりらしい。だが、そのときはまだごっこ遊び程度に留まっていた。就職活動が本格的になったとき、佐島は自分を客観視するのに俺を必要とした。


 大学を卒業して二年経つと、ハローワークで紹介される求人も少なくなる。それに、佐島は未だにエントリーシートが上手く書けない。情報学部でどれだけパソコンを触っても、紙に文字を書くというアナログな作業になったとたん、幼稚園児に戻ったような気がするらしい。


 なんとしても、いや、せめて面接まで到達しなければというのが佐島の願いだ。


 佐島は「早く内定をもらえ」と親戚の伯父が口うるさいことを思い出している。親戚の伯父は経営者側の人間だ。人事も当然経験している。佐島の良いところや悪いところも見抜けると思うとそら恐ろしいらしい。だが、伯父からは決して仕事の斡旋はない。佐島も親戚とはいえ、身内を頼るのは恥ずかしいことだと思っている。俺なら仕事はなんでもいい。


 佐島には俺が今やりたいことは一つだと思われている。早く家に帰って、粘土をこねたいと。陶芸用の粘土だ。確かに正解。だが、俺がやりたいんじゃない。本来なら佐島も好きなはずなのだが。


 四年前、佐島は中古で「陶芸技法」という本を買ってきた。俺も佐島も熱中した。佐島は美大に行こうと思った。どうして大学なんかに佐島は行ってしまったのか。伯父に言われるがまま、就職するためだろう。いい学校に行って就職して働く。それが普通だと佐島は思っていた。普通に会社員にならない人生だっていっぱいあると卒業してから知ったのは、遅すぎる。サラリーマンだけがすべてではないというのに。


 佐島にはあのときああすれば良かったと思うものが、二十歳を過ぎるとどんどん増えていった。


 例えば、小学校のときに大好きな担任の先生に告白しなかったこと。先生は二十代で、教員免許を大学で取得したばかり。先生は溌溂としていたが、同時に臆病でもあった。人前では決して泣かないが、中庭で目元をこすって職員室に向かっているのを佐島は見たことがある。身長の低い先生は小鹿のようになよなよしていて、佐島は自分が守らないとと本気で思った。


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