ナラティブ編
「気取られた様子はありませぬ。本能寺は静まり返っております」
「万事手はずどおりにと左馬之助に伝えよ」
新月の夜である。左馬之助の陣へと戻る使いの姿は、すぐに闇に溶けた。
決行を払暁まで待つのは、その為である。信長に身を隠す闇を与えはしない。
空の際が白み始めたのを見て、光秀は頃合いかと軍配を掲げた。
「敵は本能寺にあり」
これから天下の半分を手にしている男を討つというのに、これほどまでに落ち着き払っていても良いのかとさえ思うほどに、光秀の声には興奮も恐怖も混じらなかった。
桂川を渡渉する最中、光秀が考えていたのは、信長を討った後のことであった。
* AI *
信長の死を隠し通すことができるだろうか? 否――。
たとえ隠しおおせたとしても、必ずどこかで露見するだろう。
その時、朝廷や幕府はどう出るであろうか? やはり信長の死を望むのではないか……。
そうであればいっそのこと朝廷や幕府の敵に回ってしまうべきかとも思われたが、それはそれでまた新たな戦を招くことになるだろうと躊躇われた。
だがしかし、この期に及んで迷っているわけにもいかない。
光秀は己の心に問うてみた。
信長亡き後の世は誰の手によって治められていくべきなのかと。
織田家の家臣たちは論外だ。彼らは所詮、信長あっての存在なのである。彼らの忠誠心は主君ではなく、あくまで権力に対して向けられているものだ。信長を失った彼らがその後どのような行動に出るかなど知れたものである。
朝廷にしてもそうだ。朝廷と幕府の関係は主従関係というよりも対等に近いものがある。そこに織田信長という権威が加わったことで、辛うじて両者の均衡が保たれているにすぎないのだ。信長なき今、朝廷も幕府も、どちらにとっても脅威となり得るものはいなくなるはずである。そうなれば当然のことながら、両陣営は互いの力を削ぐために動き出すに違いない。
ならば、自分が成すべきことは何なのか――。
答えはすぐに出た。
足利将軍家こそが次代を担い、世を治めるに相応しい人物であることを内外に示すしかない。
足利将軍こそが天子様の御世継ぎであり、御父君たる帝をお救い申し上げる唯一の存在であるということを知らしめることだ。
そのためには、まず義昭公を担ぎ上げなければならない。そして、その義昭公に天下人たる器量があることを示し、誰もが認める存在にならねばならない。
信長を討った後は、すぐさま京を離れ、坂本城へと向かうつもりでいた。
明智家は清和源氏の流れを汲み、元々は摂津の国守護であった。河内・和泉の両国に所領を有し、畿内においてそれなりの勢力を誇っていた。
それがいつの間にか凋落し、今はこうして信長に仕えている有様であるが、光秀は名門の末裔としての誇りを忘れたことは一度もなかった。
だからこそ、天下取りの夢を捨てきれなかったのかもしれない。
夢はいつか叶うと信じてきた。信忠との不仲を嘆く義昭を見ていて、光秀の胸に一つの考えが浮かんできた。
このままでは駄目なのだと。
このまま義昭が征夷大将軍として君臨し続けたところで、いずれは滅ぶ時が来るだろう。それを防ぐには、義昭を傀儡とし、実権を握る者が必要となるはずだ。
信長亡き後、天下人として名乗りを上げるのは誰か――。
おそらく、それは自分ではない。
光秀は、自分のような凡庸な男が天下人に成り上がれるほど甘い世の中でないことも理解していた。
自分はせいぜい中根南城に居を構える程度の小大名で終わるのかもしれない。
だが、それでいいのだと思えた。
自分には志があり、それを貫けばよいのである。
たとえ志半ばで倒れることになったとしても悔いはない。
光秀にとって、天下とはそのようなものであった。
だからこそ、天下を手に入れるためだけに生きているような信長の存在が恐ろしかった。
光秀は信長の野望に共感したことはない。むしろ信長のような野心家でなくて良かったとさえ思っていた。
それでも、あの男の心の内に潜む狂気のようなものだけは感じ取っていた。
光秀の胸の奥底に、冷たいものが広がっていくようだった。ふと、ある言葉が思い起こされた。
――そなたは、信長が恐ろしいか? 光秀は思わず苦笑を浮かべていた。
信長の問いに答えることができなかったあの言葉の意味がようやく分かった気がしたのである。
光秀は馬上で一人小さく息をつくと、軍配を振り下ろした。
早朝の冷気を含んだ風が光秀の頬を打った。
光秀率いる明智軍は、一路本能寺を目指して進撃を開始した。
信長の首級を目前にして、昂揚感に包まれているはずの兵たちだったが、なぜか皆一様に押し黙ったまま、一言も発しようとしなかった。
信長を討つ――。
その事実が、兵士たちの心を支配していた。
まるで魂が抜けてしまったかのような顔つきで、ぼんやりと前を見つめたまま行軍するその姿は、どこか異様でさえあった。
光秀はそんな自軍の様子を不安げに見渡しながらも、やがて前方へと視線を移した。
前方には桂川の岸辺が広がっていた。
信長のいる本能寺のほど近くに、桂川が流れていた。
この川は洛中の民たちの生活用水として利用されているだけでなく、淀川に注ぎ込み、大坂湾にまで続いている。
淀川を舟に乗って下れば、淀城は目と鼻の先である。
淀川を下るという手もあったが、桂川のほうが近い。
桂川を渡河した後、さらに北上すれば、本能寺に辿り着くことができるだろう。
そう判断を下した瞬間、光秀は全軍に停止を命じた。
そして、おもむろに左手へと進路を変えた。
そのまま南下すると、ほどなくして木津川が見えてくる。
この辺りまで来ると、もうすぐそこは宇治である。
光秀は、信長の首を獲った後に、この近辺にある槙島城にでも拠点を構えるつもりであった。
だが、本能寺を目の前にして、その足を止めたのである。
光秀は、本能寺を取り囲むように布陣している軍勢を見た。
数は三千といったところだろうか。
いずれも武装しており、中には甲冑姿の武将の姿も見られた。
信長の親衛隊ともいうべき、いわゆる近習と呼ばれる者たちだろう。
光秀は、ゆっくりと馬を歩かせながら、信長の本陣に向かっていった。
本陣は本能寺の境内にあり、そこには信長がいるはずであった。
光秀は、信長の本陣の前に進み出ると、静かに口を開いた。
信長を討ち果たす前に、せめて一度でいいから信長の顔を見ておきたかったのだ。だが、それは叶わなかった。
信長は陣幕の中に引き籠もり、決して姿を見せようとしないというのだ。
信長の性格を考えれば、それも当然のことなのかもしれないと思った。
光秀が声をかけても、返事一つ返そうとはせず、まるでこちらの存在など無視するかの如く振る舞っているらしい。
光秀は、陣幕の外から一度だけ中の様子を確認すると、すぐさま踵を返した。
これ以上、ここにいても仕方がない。
光秀は、本能寺に向けて最後の突撃を敢行すべく、再び軍配を高々と振り上げた。
その時、背後のざわめきに気付いた。
何事かと思い、振り返った光秀の目に飛び込んできたのは、織田方の兵が続々と集結してくる光景であった。
まさか、信長は本能寺を捨てて逃げるつもりではあるまいか? 一瞬、光秀はそう思った。しかし、すぐに考えを改めた。
確かに、信長ならばその選択を選びかねない。
何しろ、光秀にとっては主君であり、信長にとっても光秀は長年仕えてきた家臣の一人である。
たとえ、どれほど憎い相手であったとしても、最期くらい見届けてやりたいと思うのが人情というものであろう。
信長が光秀のことをどう思おうとも構わない。
光秀にとって、信長は唯一無二の主であった。その主を討って、平然としていられるはずもない。
信長を逃がすわけにはいかない。
光秀は、信長の本陣に目をやった。
すでに、織田方の軍勢によって完全に包囲されている。
もはや逃げ場はないはずだ。
光秀は、覚悟を決めた。
このまま信長を逃がしてしまうぐらいなら、いっそこの手で討ち果たしたい。
光秀は軍配を握る手に力を込めると、大きくそれを振り下ろした。
同時に、全将兵に総攻撃を命じるべく、ありったけの大声で叫んだ。
――掛かれ! 直後、明智軍の兵は怒号を上げながら一斉に駆け出した。
目指すは、本能寺である。
本能寺は、四方を土塁に囲まれた巨大な寺院である。
本堂の屋根には、鳳凰の彫刻が施されており、その堂々たる偉容は、見る者を圧倒する迫力がある。
だが、今はその威厳に満ちた佇まいが逆に不気味さを感じさせた。
本能寺を取り囲んでいるのは、信長の家臣たちだけではなかった。
信長の親衛隊とも言うべき、近習や小姓たちが率いている軍勢もいる。
また、朝廷からも兵が出され、御所を守る近衛の兵までもが加勢していた。
まさに、信長は日ノ本全土から敵視されていたと言ってよい。
そんな信長に味方するのは、信長に恨みを持つ者ばかりではない。
信長と運命を共にすることを選んだ者もいる。
光秀もまた、信長と共に果てるつもりだった。
信長と出会わなければ、自分は今もまだ天下取りの夢を追い続けていたに違いない。
あるいは、信長と出会っていなかったら、本能寺の変も起こらなかったのではないか。
そう思うと、光秀は自分の人生が大きく狂ってしまったような気がした。
光秀は、信長に対して複雑な感情を抱いていた。
だが、それでもなお、信長が自分にとって掛け替えのない存在であったことだけは紛れもない事実だった。
だからこそ、信長をこの手で葬ることは、自分の使命なのだとさえ思っていた。
本能寺の境内に入ると、そこには既に大勢の武将たちが待ち構えていた。
その中には、柴田勝家の姿もあった。
光秀は馬から下りると、勝家の前に進み出た。
二人は、しばらくの間じっと見つめ合っていたが、やがて勝家がおもむろに口を開いた。
――信長様の首級を上げるのはこの俺だ。貴様は邪魔をするな。
そう言い放つと、勝家は立ち去っていった。
光秀は無言のままその後ろ姿を見送りながら、ふっと笑みを浮かべていた。
やがて、本能寺の門が開かれた。
中から現れたのは、信長の側近中の側近である森成利であった。
光秀とは旧知の間柄である。
光秀と目が合うと、成利は静かに微笑んだ。
だが、その目は笑ってはいなかった。
むしろ、怒りの色を湛えているようにすら見えた。
信長を裏切り、光秀に加担したことを後悔しているのだろう。
光秀は小さく息をつくと、馬を降り、ゆっくりと歩き始めた。
そして、本能寺の中に足を踏み入れた。
本能寺は、かつては織田信長の居城であった。
その構造は、光秀もよく知っている。
本能寺の境内に入ると、そこには大きな池があった。
かつて、この辺りは湿地帯であり、広大な沼地が広がっていた。
信長は、この地を埋め立て、新たな城を築くことを計画していたという。
だが、結局それは叶わなかった。
信長は、本能寺からほど近い場所に位置する安土城に居を移し、この本能寺にはほとんど足を運ぶことはなかったという。
光秀も、本能寺を訪れるのはこれが初めてのことであった。
本能寺の境内は広大で、いくつもの建物が建っている。
光秀は、本能寺の中央にある巨大な楼閣を見上げた。
信長が、自らの権威を示すために建てたものらしい。
もっとも、今では信長の権威の象徴などではなく、単なる牢獄として使われているようだったが……。
光秀は、信長のいる本陣に向かっていった。
本能寺には、様々な部屋が用意されている。
その中の一室――本能寺二階の座敷牢に信長は幽閉されていた。
光秀は、階段を上り、廊下を渡り、その座敷牢の前に立った。
格子の向こう側には、簡素な着物を着た一人の男が座っていた。
男は、光秀の姿を目にすると、驚いた表情を見せた。
だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
――明智殿か。久しぶりじゃのう。
その声を聞いて、光秀は確信した。
目の前にいる男こそ、信長であるということを。
光秀は、その場に膝をついた。
主君に対する正式な作法である。
そのまま、頭を下げた。
――ご無沙汰しております。
光秀は顔を上げ、信長の顔を見た。その目からは涙が溢れていた。
――お懐かしい……
思わず、その言葉が口をついて出た。
主君と仰いだ信長が生きていてくれたことを心の底から喜んでいた。
しかし、その一方で、やはり信長を討つことは避けられないのだという思いが頭をよぎった。もはや、引き返すことはできないのだ。
ならば、せめて最期まで共に戦おう。
光秀は決意を固めると、懐から短刀を取り出した。
――明智殿、まさか……!? 信長の目が驚きに見開かれた。
――もはや、これまでです。
光秀は、目を閉じた。
――私は、あなた様に謀反を起こしました。許されることではありません。
――明智殿!
――信長様、どうか御免! 次の瞬間、光秀は手にした短刀を己の喉元に向けていた。
――明智殿! 信長の声が聞こえたが、もはやどうすることもできなかった。
光秀は、勢いよく短刀を引き抜いた。
鮮血がほとばしり、畳の上に飛び散る。
だが、不思議と痛みは感じなかった。
ただ、全身の力が抜けていくような感覚を覚えた。
光秀は、ゆっくりと目を閉じ、その身を横たえた。
(完)
この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは関係ありません。
参考文献:ウィキペディア(Wikipedia)
この世界では、人々は魔法を使い生活している。
生活に欠かせない火を起こすのにも、料理を作るにも、掃除をするときも、怪我や病気の治療をするのも、全て魔法を使って行う。
魔法使いと呼ばれる者達は、生まれつき魔法の才を持ち合わせた者しかなることが出来ない。
そんな世界で生きる1人の少年がいた……
俺は、この世界に生を受けて15年になる。
俺の名前は
~ 感想 ~
本能寺通り過ぎてない?って思うくらい光秀の自問自答が長かった。ずっと自問自答を繰り返して、本能寺の変が始まらないんじゃって心配になったよ。けど、通り過ぎるどころか、桂川を渡り始めてすらなかったのね。無事に本能寺に向けて進軍しはじめて、一安心。
しかも光秀は、志を貫く覚悟だと語ってくれた。今回は期待が高まる。
それにしても共闘はしていないけど、柴田勝家も信長を討とうしてるし、近習の森成利(蘭丸)さえもが光秀に寝返ってるし、今回ばかりはもう失敗のしようがなくない?
人間、迷わなければ、みんな信じてついてくる。背中で語ることの大切さを僕はこの光秀から学んだよ。
本能寺の中央に巨大な楼閣があって、それが牢獄として使われていて、そこの座敷牢に信長は幽閉されている。
いやいやいやいや、じゃあ、信長を幽閉したのは、誰だよ! そこのところが気になるけれど、状況的には信長には逃げ場がなく、光秀にとっては千載一遇のチャンス。ついに終わるって思ったよ。
信長も死を受け入れているのか殊勝な態度でいるし、短刀を取り出したときには、よし!!!って思ったのに、急転直下のまさかの自害……。
『たとえ志半ばで倒れることになったとしても悔いはない。』
こんな結末、悔いしか残らないだろうが!!
そしてWikipediaの文字が誘発したのか、突如としてはじまるファンタジー小説。
惜しいところまで迫っただけに、ガッカリ感が半端ない。
あれなのかな? ロボット三原則みたいなのがAIにもあって、その中のひとつに「信長を殺してはならない」っていうのが入っているのかな?
AI明智光秀は本能寺で織田信長を討つつもりでしたが、いざ対面すると感極まって自害してしまいました。
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