第19話
――果たして。
あれから、一時間弱経過をした。
必死の捜索も虚しく、美翅の姿をついぞとして見つけることが出来なかった悠一の脚は、自然と自宅に向かっていた。
諦めたつもりは毛頭なかった。
けれど、行く宛の分からない旅路程辛いものはない。
ともすれば美翅はコンビニにでも行っただけで、もう帰っているかもしれないという、惰性が思わせた安易な想像にすがっていた。
もう数メートルも歩けば自宅に付くだろう地点に到着して。
不意に、水音が聞こえていることに気がついた。
「……この、音――」
時計を確認する。
時刻は午前三時半。
こんな時間に歩き回っている人間など、自分以外に誰がいる?
つばを飲み込んで、喉を鳴らす。
導かれるように、水音に引かれて歩く。
それは自動販売機に群がる虫の如く。
ただ、自然な流れだった。
『つい先ほど聞いた』水音に誘われて、悠一が辿り着いたのは団地の中だった。
――水音が近くなっている。
そんな風に感じた悠一は足を止める。
恐らく、その十字路を曲がった先に、『それ』がいる。
「…………」
呼吸を整え、十字路に躍り出た悠一は、水音のした方に身体を向けた。
「あ……」
そこにはゴミ捨て場があった。可燃物の日ではないらしく、遺棄されたごみ袋は少ない。
なのに、大きな影がそこにはあった。
街灯に照らされた闇の中で、肩口から腰までぱっくりと、大きく切り裂かれた男の死体。
絶命し、目を見開いたその顔に――悠一は覚えがあった。
「あ、ああ……」
そして、大きく耳に残る水音の正体もまた、その場にいた。
死体の傍に座り込んで、死肉を貪り喰う人影。
水音は、血が滴る音。
ぼりぼりと鳴っていたのは、骨が砕ける音。
虚ろな瞳を携えて、腕と口だけをひたすらに動かす――黒枝美翅が、そこにいたのだ。
「あああぁぁぁ……」
それでも、彼女の口はもぐもぐと、ぐちゃぐちゃと音を鳴らす。
やがて――。
「ぺっ」
美翅は何かを吐き出した。
吐き出されたものはどうやら金属らしく、コンクリの地面にぶつかり、壁に当たり、悠一の足元にまで転がってきた。
月夜に輝くそれは――指輪。
それはクラスメイトの"■■"がはめていた物に、酷似していた。
「うわあああぁぁぁっっっ!」
叫び声を上げて、頭を抱えて、悠一がその場にしゃがみ込んだ。
そして、嘔吐する。
「うおおげぇええええ」
びちゃびちゃと、異なる水音が住宅街に響く。
闇に沈んだ住宅街は依然として静かで……誰一人、起きてくる様子はない。
目と鼻と口と……穴という穴から汁を垂れ流しながら、膝をついた悠一は顔を持ち上げ、変わらぬ調子で死肉を貪る美翅に視線をやった。
「――美翅」
小さく、悠一の声が宵闇に響く。
その声が美翅の耳に触れて数秒。
「あ――」
動きを止めた美翅。
両腕に抱えた死肉と、血に濡れた衣服、それから眼の前に転がった死体。
そして……目と鼻の先でうずくまる悠一を見た。
「わ、わたし――」
身体を大きく震わせる美翅。
そんな現場に、もう一つの人影が現れた。
「――現行犯だな。裁くぜ」
背後から聞こえてきた声には覚えがあった。
悠一が振り返ると、そこには捜査官の灰音夏樹が立っていて……その両手には、すでに抜き放たれた二つの武器。
「灰音、さん……」
「……お前は哀れな被害者だった。ただそれだけさ」
灰音は、足元に転がっていた悠一の竹刀袋を遠くに蹴り飛ばした。
宙を舞い、壁や床に衝突したそれは蓋の紐が緩み、中から竹刀の柄と……原型を失った人の肉が姿を表す。
「わた、わた、し、は……」
「擬態種の中には、自らの手を汚さず、人間を使って餌を得ようとする個体が存在する。オレたちは奴らを"主人"、操られた人間を"眷属"って呼んでいる。大抵は、交戦に適さない具象化を持つ擬態種に多い特性だ」
「…………」
夏樹はコートのポケットから、一枚の写真を取り出して、悠一に放った。
ひらひらと舞い落ちた写真は監視カメラに映ったものらしい。
そこには、大事そうに竹刀袋を抱えて駅を歩く悠一の姿が遠く、映っていた。
「これ、は――」
「何件の事件において、どれだけの年月をかけて……お前が死体の一部を持ち去っていたのかは分からん。が、少なくともこちらではこの一年、九州圏内で起きた二例、事件現場の近くにいたお前を捕捉している」
「あ――」
「お前は奴に利用されていたんだよ。ま、とはいえ少年の手際が悪かったのが幸いした。餌が間に合わなかったみたいだな」
夏樹は拳銃を構えて、美翅に向けた。
美翅と言えば、両肩を抱えたまま、震えている。
「楽にしてやる。だから――抵抗すんじゃねぇぞ」
まさに、夏樹が引き金を絞ろうとしたその瞬間。
「……ああ?」
「…………」
二人の間に、悠一が割って入っていた。
両腕を広げて、美翅を背中に庇うように立ちふさがる。
「悠一、くん……?」
「……少年。オレの話を聞いてなかったのか? そこをどけ」
「……嫌です。僕は、約束したんです。美翅を、この世の悪すべてから、守るんだって」
「この世の悪だ? はっ。今の状況を見て、そんな世迷言が出てくんのか? ああっ? そいつは今、人を殺して喰った。……これ以上の悪が、人間社会に存在すんのか?」
「……少なくとも今、僕にとっての悪はあなたです。命を救ってもらったことには感謝しています。でも、どうか、見逃してください。……僕たちは、ただ、平穏に暮らしたいだけなんです」
「できねぇ相談だ。オレはもう、見ちまった。それに――擬態種は滅びるべきだ。奴らは平然と、秩序を乱す。存在することを、許しちゃならねぇんだよ。分かったら――そこをどけっ! ぶっ放すぞ!」
「…………」
悠一は無言のまま、夏樹を睨みつけた。
そんな悠一の態度を見て、夏樹は大きなため息を吐きだした。
そして――銃口を、悠一に向けて構えた。
「どうなってもしらねぇからな」
返答はない。
退く意志だって見えやしない。
眼前に、死という絶対の恐怖が迫った現状で――悠一の心は一切揺らぐことなく、その瞳は決意の色で塗り固められている。
胸に灯った想いは、単純明快なもの。
ただ、愛しい人を守りたいという……人間ならば、誰もが抱える、そんな気持ちだった。
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