アイネの贖罪

古都 一澄

1の奇跡

6月6日。


おはよー、と間延びした声で始まる朝のホームルーム。

梅雨入りしました、と告げるニュースに少し嫌気の差した頃。


藤村円ふじむらまどかは肩にかかる黒髪を払った。

そのまま流れるような手つきで机に掛けてある鞄を探る。


———刃渡り15センチメートル。


鞄の内ポケットに入っているそれを、しっかりと指先で確認してから、円はノートを取り出した。


『1』


少し右上がりな字で書かれたノートは、円が持つだけで何か特別なものであるかのようだ。「1」としか書かれていない故に、魅惑の想像を彷彿とさせる。

才色兼備、文武両道。

世に蔓延る賛辞を一身に受けたような彼女は、何も語らず背筋を伸ばしているだけ。

1時限目の授業の準備をするクラスに紛れ、円はいつも通りの日々を過ごす。



「きっと、私は今世界で1番だ。」



円の呟きは、生徒の笑い声にかき消された。

1時限目から移動教室だって、と教室の入り口付近で話すクラスメイトたち。


ゆっくりと筆箱とノートを手に取り、円は席を立つ。少ししゃがんでから鞄に手を滑らせ、刃渡り15センチメートルのそれをノートに隠す。血の味の凶器に気付く生徒は誰もいない。

教室の電気消すよ、と委員長が言う。予鈴が鳴る。騒ぐ男子達が廊下に出て行く。

クラスで目立たない何人かがiPadを片手にのろのろと歩く。話し声のなくなった教室に、柔らかい雨の音だけが生きている。

授業開始の本鈴が鳴るまであと1分。教室には円の影しかない。



円は教室を出て、移動教室のある方向とは正反対を向く。円はその大きな瞳で何かを捉える。

円の視線の先には、1人の少女。


「小夜。」


円は彼女に声をかける。

小夜、と呼ばれた少女は視線を円に向けたまま静止している。


清水小夜しみずさよ。」


円はもう1度名前を呼ぶ。今度は少し強く、それでいて優しく。

少女は両手を握り締める。震える口は開いたものの、何も発さない。

廊下には2人以外誰もいない。まるで文鎮みたいな絶望。


本鈴が鳴るまであと30秒。


「本鈴、鳴っちゃうよ。」


円は穏やかな口調で言う。朗らかで、優しくて、果てしなく恐ろしい声色。

清水沙夜は震える両手を握る。今にも泣き出しそうなほど、大粒の瞳は揺れている。

その瞳は円の右手を映している。湿度で押しつぶされた4メートルの距離。




雨が止む。曇り空から微かに光が揺蕩う。

小夜は震える口を開く。

叫ぶような、嘆くような、そのくせ無邪気に笑っているような。



———ぐちゃぐちゃで泥だらけの、そんな顔。









「———雨天決行さよならだ。」










本鈴が鳴る。

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