バス停へ向かう里莉の背中が小さくなるまで見送ってから、志朗はすぐ側の路肩に停まっていた青いクロスカントリーSUVの車内を覗きこんだ。運転席には二十代後半と見える男が座っている。志朗が軽く窓を叩くと彼は手元のパネルを操作して助手席の鍵を開けた。遠慮なくドアを開けた志朗が助手席によじ登る。扉が閉まるのを待ってから、男は心もち頭を下げて言った。


「お疲れ様でした、雛君ひなぎみ。いかがでしたか?」

「うん? 良い子だった」


 携帯端末を操作して画像ファイルを立ち上げながら志朗が答えると、男は微苦笑のようなものを唇に浮かべた。


「雛君の良い子は信用できません。目的は聞き出せましたか」

「人捜し。相葉瑠々の鏡像をやってたのが、彼女がいなくなったもんだから探しに出てきたんだって。消えかけてたから仮名かなをやってきた。はしてないから安心しろよ」


「どうだか」まったく信用ならないと肩をすくめて表してから、男はシフトレバーを操作した。足の長さを持て余すようにしながらアクセルを踏む。いまだ赤く燃えている西の空からの光が男の丸みを帯びた顔を柔らかく撫でた。


「あなたときたら、怪異皆兄弟が信条ですから。中学の頃を覚えていますか。すっかり人気が下火になってやけっぱちになって子供を襲いまくっていた口裂け女を連れてきて、あなたなんて仰せになりましたっけ。私は一言一句覚えていますよ。『ちょっと困ってたから泊めてやることにしたんだ。大丈夫、良い奴だから』なんて仰って、結果どうなりましたっけ?」


 男の笑いを含んだ問いかけに、志朗はむっと唇を尖らせた。うるさいという言葉の代わりのように男へ携帯端末の画面を突きつける。


「これが相葉瑠々の顔。今度、一緒に探すことになったから」

「そうでしょうとも」と、男はさっと画面へ横目を走らせていった。

「なに、その言い方」

「困っている怪異となにも約束しておいでにならなかったら、むしろ正気を疑います」

「あっそう!」志朗はますますむくれて後頭部を背もたれにぶつけた。ヘッドレストまでは身長があまりにも足りないので届かないのだ。「じゃあ、弓ちゃんは来なくていいよ。これまで迷惑かけて悪かったな! 俺一人で行くから、どうぞ優雅な土曜日をご存分にお過ごしください!」

「それはそれで困ります。あなたという人は、目を離すとどこでどんな輩とつるむかわからないんですから。あと、その弓ちゃんというのはいい加減よしてください」


 言われた途端「弓ちゃん、弓ちゃん」と唱え始めた助手席の少年に、男――弓月ゆづき真臣まさおみは困ったような嬉しいような笑みを目元に浮かべた。


「けれども、どうでしょう。見つかるとお思いですか」

「一応、いろいろ聞いてまわるつもりだけど。難しいかな?」


 携帯端末に映る里莉の笑顔を引き延ばしたり、逆に小さくしてみたりしながら志朗が言った。そうしているとまったく拗ねた幼子である。


「怪異が消えかかっているということは」弓月は答えた。「おわかりでしょうが、人間がその怪異を想像しなくなったということです。忘れたのか、ほかに興味を寄せたのか、理由は様々あるでしょうが一度消えかかったものがもとに戻る可能性は共通して極めて低い」

「人間が怪異を認識した場合を除いて、だろ」

「そうです。一度認識したものを忘れることは困難ですから。ともかく、理由は様々だとしてもです。人間側がとても幼い場合を除いては、答えは限られてくるかと」

「相葉瑠々がいなくなったのは今年の四月だ。それからこの七月までけっこうな日にちが経ってる。そして、里莉――鏡の怪異につけてやった仮名なんだけど、あいつがいたのは相葉瑠々の家の洗面所だ。それ以外の場所には行ったことがなかったそうだ。例えば、相葉瑠々が家から長いこと離れたせいで、もう一人の自分に関する想像を忘れてしまった可能性は? ゼロとは言えないよな?」

「それはそうですが。十七歳では自我が定まりすぎています。相葉瑠々がまだ生きているのだとしたら、むしろ彼女が今暮らしている場所に怪異が移動するほうがよほど起こりうることかと。ちなみに、里莉でしたか、その怪異にこのことは?」


 志朗は「誤魔化した」と呟くように言った。弓月が頷いた。


「それで良かったと思います。怪異相手に下手なことはいうべきではありません」

「そう言うと思ったんだよ。あの子はそんなタイプじゃないと思ったけどさ」


 くすっと、どうしようもない子を慈しむように笑みこぼして弓月はハンドルを切った。


「ですから、あなたのそれは信用ならないんですって」



 翌日の木曜日も、里莉はきちんと登校していた。八千原志朗と話してから気が逸るような気分にはなっているが、下手に動いては肝心の土曜に差し障るだけである。もちろん、結果次第では考えなければならないだろう。しかし、とりあえずあと二日は相葉瑠々として完璧に振る舞っておくつもりだった。といっても、特段の用事でもないかぎり話しかけてくる人間はいない。八千原志朗とも朝の挨拶をしたきりで、それを除けばいつも通り、変化らしきものはなにもなかった。


 少しの変化があったのは昼休みのことである。弁当を食べ終わり――もちろん一人でだ、次の授業まですることもないのでなんとなく黒板を眺めていたら後ろから声をかけられた。それも通常の呼び声ではない。なんとなく周囲をはばかる響きのある、それでいて今にも弾けてしまいそうな活力に満ちた声だった。上半身だけで振り返ると、たしか加藤と宮下、田茂といっただろうか、いつも三人でひとかたまりになっている女生徒たちが小走り気味に近寄ってくるのが見えた。彼女たちはそのまま里莉が座る席の三方を取り囲み、


「ねえ、昨日どうなったの?」


 と、顔中に笑顔を浮かべて囁いてきた。この口火を切った少女が田茂だったか、ともかく三人組のリーダー格である。少女たちが全員、意味ありげな顔で笑っているのを確かめてから里莉は首を傾げた。


「昨日? なんのことだかわからないわ」


「またまたぁ」と、里莉の左肩を叩いたのが加藤だったはずだ。


「八千原よ、八千原。どうなったの?」


 加藤のあとを引き取った田茂が身を乗り出してきた。どうなったと言われても、まさか人間だ人間じゃないとか、本物の瑠々がどうとかいう話をするわけにはいかない。少なくとも今はまだ、里莉は瑠々でなければ困るのだ。言葉に詰まっていると、残る宮下がしたり顔で腕組みをして言った。


「まさかだったよね。だって、あの八千原でしょう?」


 表情の意味も言われている内容も理解しかねる。あの八千原とはどの八千原だろう。昨日話した彼以外の八千原がいるのだろうか、と困惑しながら渦中の人物を伺ってみたところ、教室前方の窓際にある自分の机に突っ伏して――たぶん昼寝をしているのであろう、こちらの話に気づいた様子は微塵もなかった。


「いっつも一人だし、話しかけても乗ってこないし、喋ったと思ったらクソみたいな態度だし、それがさあ、びっくりしちゃったよね」

「で、どうだったのよ」加藤が里莉を肘でつついてきた。

「どうって……」


 里莉は必死に考えた。こういうとき、どう言えば瑠々っぽいのだろう。そもそも彼女たちの話には要点が欠けているように思うのだが、普通の人間なら今の内容だけで正しい受け答えができるのだろうか。迷いに迷った末「別に普通よ」と答えた途端、その言葉尻に噛みつくように田茂が言った。


「普通って?」

「ええと、だから……普通にお話ししただけよ」

「八千原と? 普通に?」

「ええ。普通に、その、優しかったと思うわ」

「優しいってなにー!?」


 きゃあと悲鳴をあげた加藤がくねくねと妙な具合に体を捻る。それを見た宮下がニヤリと笑った。


「なにってナニでしょうよ」

「ナニってなんなのー! あたしわかんなーい!」


 ひゃああと加藤がさらに叫ぶ。わからないのはこちらのほうだと里莉は思ったが、余計な口はきくまいと黙っておいた。代わりのように田茂がふうんと言った。


「あいつがねえ。で、相葉さんはどうなのよ」

「どうって?」

「相葉さんさえ良ければー、あたしらいい方法知ってんだー」


 加藤はにたにたと里莉の様子を伺っている。田茂がさらに身を乗り出してきて、片手を口の横に立てた。瞬間、なにか油のような悪臭がして里莉は思わず身を引いた。構わず田茂は距離を詰めてくる。


「けっこう効くらしいからさ。必要だったら言ってね」

「効く?」

「そう、おまじない。相葉さんだから教えるんだからね。男子には絶対秘密。叶わなくなっちゃうんだってさ。いい?」


 なにがなんだかわからないながら頷いた里莉を確認すると、三人は来た時と同じように小走りで行ってしまった。いったい、なんの話をされていたのだろう。しばらく会話を覚えているかぎり頭の中で捏ねまわしてみたが、五時限目の鐘が鳴っても答えらしいものは見つからなかった。まあ、瑠々じゃないと見抜かれたわけじゃない。とりあえずいいということにして、里莉は教科書とノートを揃えて机に置いた。


   *


 土曜日の駅前は平日以上に混んでいると思う。駅を出てすぐの道はバス通りになっているので車を横付けというわけにもいかず、適当な駐車場に弓月を残して一人で歩いてきたのだが、志朗は早くも後悔し始めていた。綺麗な服をまとった人間が駅やらその隣のモールやら連絡通路やらから絶え間なく出入りしていて、しかもその合間を縫って生暖かいガスをまとったバスがやってくるとあっては、肌にまとわりつく暑さは尋常ではない。風はべったりと凪いでいる。出がけのニュースで最高気温更新だとか言っていたか、実際にじりじりと太陽に焦がされてフライパンの中の炒り豆になったような気分だった。


 里莉が来るまで二十分は待っただろうか。盛大に遅刻をかまされたわけだが、そこに関して怒るつもりは志朗にはなかった。むしろ慣れない人間暮らしと締めつけのきつくなったという家庭環境を気の毒に思っていたくらいである。


「ごめんなさい!」


 改札から走ってきたのだろう、りりはワンピースの背中を早くも汗で塗らしながら深々と頭を下げた。肩からは細い紐で吊られた、一体全体ポケットティッシュとハンカチ以外のなにが入るんだか永遠に謎の小さなポシェットがぶら下がっている。足下はミュールというのかサンダルというのか、これまた志朗にはさっぱり違いがわからない、ヒールのついた靴だった。その踵はすでに皮が剥けて真っ赤になっている。頑張って普通の女の子らしい格好を心がけてるんだな、大変だろうなあ、と志朗はこちらも良いように解釈した。


「大丈夫。それより、そっちこそ大丈夫か?」


 そう言って志朗が皮の剥けた踵を指差すと、里莉はちょっと顔をゆがめて頷いた。その拍子に額に浮かんだ汗が一筋、目の横を伝って落ちていく。


「大丈夫よ。ありがとう」

「そう。じゃあ、駐車場まで行こうか」


 先導して歩きだした志朗に並ぼうとした里莉だったが、人混みに圧されてよろめいている。右も左もなく、好きなところを歩く通行人に戸惑った様子の彼女に「大丈夫?」とまた志朗は声をかけた。里莉は頷いて強引に人並みを割り、志朗のすぐ背後にくっついてきた。


「今日はどうするの?」

「まずは聞き込みだな」

「そう」と呟くように答えた里莉を振り返って志朗は笑った。

「がっかりした?」

「え? そんなことは……」

「いいって。もっと画期的な方法を使うんじゃないかって期待してたんだろ。そりゃ、俺だって映画の陰陽師みたいに紙を飛ばしてそれを追う、みたいな方法が使えたら格好いいと思うけど。残念ながら、基本は足なんだ。まあ、お前にとっては意外な足になりそうだけど」


 そう言ってぐるりと周囲を指差した志朗を里莉は怪訝そうに見た。まあまあといなして志朗はビルの横っ腹に空いた細い通路を通ってバス通りをあとにする。周囲を見渡しつつ里莉があとに続いた。肉を揚げる香ばしい匂い、『占』の文字が赤く染め抜かれた白布、錆だらけの集合ポストが口を連ね、その先ではアイスクリーム屋がディッシャーを鳴らす軽快な音が聞こえている。十歩も行けば通路は終わって、そこは再びの日なただった。うんざりした顔で志朗が顎を拭い、うしろで里莉もハンカチで額を拭った。


 真っ白に光ってさえ見える道路に従って五分ほど歩いた先で志朗は足を止めた。車を一台停めればそれで満車になってしまう小さな駐車場があり、そこには青いクロスカントリーSUVが低いアイドリング音をたてている。その後部座席を開けて里莉を乗せると、志朗は助手席に乗り込んだ。


「こいつが応援」と、志朗は運転席に座った弓月を示して言った。「心配しなくてもご同類だから。お前の事情も話してある」

「ご同類? 八千原君の?」

「いいや、お前と同じ」


 言われた里莉は目を丸くして弓月を見つめた。弓月は腰から体を捻って里莉に向き直ると丁寧に頭を下げる。慌てたように里莉も頭を下げた。


「はじめまして。弓月といいます。志朗様から話は伺っています」

「は、はじめまして。相葉瑠々……じゃなかった、里莉といいます。あの、あなたも鏡から出てきたの?」

「いえ、私は忘れ犬です」弓月は笑って答えた。「と言ってもお若い方には伝わりませんか。猫又だとか鵺だとか、そういった種類のひとつだと思って頂ければ」


「犬?」ぽかんとして里莉は言った。まじまじと弓月を見つめる顔には、どこからどう見ても人間の男にしか見えないと大書してある。頭の中ではこれまでに見た四つ足が飛び交っているに違いなかった。


「若作りしてるけど、これでけっこう歳が行ってるんだ。おかげで人間のふりが上手いってわけ。ええとつまり」りりがなおも目を瞠っているのを見て志朗は付け足した。「お前みたいに最初から人間の姿をしてたんじゃなくて、もともとは本当に犬の姿をしてたんだよ。それが今は人間に化けてる。こう言えばわかるか?」


 なんだかまだ納得できない顔をしながらも里莉は頷いた。穴が空くほど見つめられている弓月は苦笑いしている。志朗がその横顔に「まあいいや、出して」と言った。


 車の通りが多い道に苦労しながらSUVはバックして、そこからはなめらかに走り始めた。里莉はどこか不安そうに行く手を眺めている。


「それ、相葉瑠々の服?」


 前を見つめたまま志朗が言った。里莉はハッとしたような顔になり、パチパチと瞬きをしてから答えた。


「そう。前に瑠々が着ていたのを真似してみたの。変じゃない?」

「別に普通だと思う。家でもそうしてる? つまり、相葉瑠々の真似をずっとしてる?」

「ええ。いろいろ考えたんだけど、そのほうがいいかと思って。瑠々が戻ってきた時、簡単に入れ替われるでしょう? 八千原君みたいな人がいるって最初から知ってたら違ったと思うんだけど」

「例えば?」後部座席をちょっと見て志朗が首を傾げた。

「最初に会ったのがそういう人だったら全部打ち明けてたと思うわ。私、最初から行き当たりばったりだったから。ねえ、どうして私が人間じゃないってわかったのか、訊いてもいいかしら?」

「どうしてって、うーん、なんとなくだな。ほら、同じアジア人でも顔を見れば日本人かそうじゃないかわかるだろ? そんな感じ」

「……ごめんなさい。言っている意味がわからないわ」


 ええっと言って志朗が唸り始める。くつくつと笑いながら弓月が横から言った。


「男女の区別がつくようなものです。同じようにズボンを履いていても、顔や体つきを見ればなんとはなしに性別がわかるような。あんな感じを想像すればいいでしょう」

「そうそう」と志朗が指を鳴らした。「中にはおっさんぽい女もおばさんぽい男もいる感じでさ、どっちかなって考えることはあるけど。それでも大概は当たるよな」

「あなたみたいな人間は多いのかしら? ほら、もしそうだとしたら、その人ともちゃんとお話ししておかないといけないでしょう。瑠々が困るのは私も困るもの」

「うちの学校だと俺以外知らないな。場所によってはそういう奴のたまり場みたいになってるとこもあるけど、お前の移動範囲ならほとんど考慮しなくていいんじゃないか」


 と言ってから、志朗は自信なさげに目を泳がせて多分と付け加えた。多分、と里莉が繰り返す。


「可能性は低いと思うんだよ。俺は怪異はわかっても、それ以外はからっきしだからさ。断言してやれないんだ。ごめんな」

「そう、それじゃ当面は気にしないでおくわ。でも、不思議ね。だとすると、どうしてあなただけが見分けられるのかしら。生まれた時からそうだったの? それとも、なにかきっかけがあったのかしら?」


 それはと低い声で言い、志朗は鼻を鳴らした。


「特別運の悪いガキだったからさ」


   *


 車がようやく停まったのは瑠々の家がある住宅街の端だった。似たような形の家が道路に沿って建っており、その道路を渡ってしまえば畑と雑木林と原っぱがあるばかりだ。見通せるかぎりではほかになんの建物もない。


「このカーブ、見た目よりずっときついんだ」


 道路を指差して志朗が言ったが、里莉には「そう」と答えるほかなかった。どこか遠くで子供の泣き声がしている。自分たちを除けば歩いている人は誰もいなかった。建ち並ぶ家の住人たちはこの暑さを避けて内にこもっているのか、人の気配もまるでない。こんなところに連れてきてなんのつもりだろうかと思ったが、先に立って歩きだす二人をともかくも追いかけた。カーブを過ぎて少ししたところで二人は立ち止まった。ちょうど電柱が立っていて、その足下にはしおれかけた花束を透明な瓶に差し込んだものが置いてある。


「久しぶり」と志朗が片手を挙げたので、里莉はぎょっとした。明らかになにもない場所に、あえて言うなら電柱に向かって親しげに話しかけるとは何事か。とても小さいなにかでもいるのかとも思ったが、志朗も弓月も明らかに虚空へ焦点を合わせている。ちょうど里莉の頭のてっぺんあたりか少し高いくらいの位置に人間の顔があるというような塩梅だった。


 あのう、と細い声をかけた里莉を志朗はにこやかに振り返った。


「良かったな。見たことあるってさ」


 誰がなにを見たことがあるというのだろう。だって、そこにはなにもいないではないか。立ちすくむ里莉の様子にようやく気づいた様子で弓月が何事か志朗に囁いた。ああ、というように志朗は頷いて里莉に手を差し出してきた。それを握れと言っていることはわかる。わかるが怖かった。なにか、知ってはいけないものを知ってしまいそうな、そんな予感がした。


「大丈夫、噛みつきはしないって」


 志朗が笑って手を揺らした。仕方なく、里莉はぎゅっと目をつぶってからそろそろと手を預けた。優しい暖かさが手を握り返してくる。それに引かれるまま一歩、二歩、三歩。立ち止まったところで薄目を開けて看板のほうを見てみた。なにも、ない。やはりなにもいない。


「イメージしろ」


 志朗のその声はどこか厳かに聞こえた。


「そこにはなにかがいる。俺でもお前でもない。人間でも動物でも植物でもない。それでもたしかに存在している」


 そのとき、ふっと風向きが変わったように思った。正面から鼻先に吹き付けていた風がわずかに方向を変えて頬を撫でた感触、まるでそこに誰かが立っていて風を遮っている感触にそっくりだった。同時になにか違和感が鼻先を撫でた。今まで風のうちになかった匂い、嗅いだことのない、けれどもどこか不安になる匂いがしたと思った。


「お前は今、見たいものだけを見ている。その為に自ら目を塞いでいる。怖がらずに手をずらしてみろ。イメージするんだ。それはそこにいる。今、お前を見ている――」


 なにがいるのというのか。心臓のある場所がゴトゴトと音をたてて戦慄いている。薄目を開けた暗がりの端をなにかがかすめたと思った。茶色いなにか、丸く先がすぼまって、側面には紐が垂れている。スニーカーだろうか。人だと思った瞬間、鮮やかな匂いが押し寄せてきた。


 古い錆の臭い、それから物が焼ける臭い、そうと認識するに従ってスニーカーに黒い布が被さってきた。いや、布ではない。これは足だ。黒いズボンを履いた誰かの足、そう思った途端に里莉は目を見開いていた。悲鳴をあげたかもしれないが自分でもよくわからない。弓月の高い位置にある肩、反対に低い位置にある志朗の頭、その向こうに知らない誰かが立っていた。


 その人は頭から血を流していた。血、そう、血だ。夜に家族で見たアクション映画で同じものを見た。だけど、あれよりずっとひどい。左の頭からねっとりと垂れたそれは頬を伝って肩先に滴を落とし続け、黄色い長袖シャツの肩から胸元にかけてに大きな鮮紅色の染みを作っていた。シャツの腹あたりは布が破けていて、しかしその下に見えるのは肌の色ではなく透明な粘液をまとった赤色である。


「見えるようになったかな? はじめまして」


 明るい口調でその人は言った。言葉は鮮明で語尾には張りがある。大怪我をした人間が出せる声だとはとても思えなかった。短く刈られた髪にシュッと細い顎、男性のように見えていたがよく見ると胸に膨らみがある。年齢は女性と女の子の中間くらいの、同級生よりは少し大人びているように見えた。


「その、怪我は」


 里莉はようやくそれだけ言った。声は完全に震えてしまっていた。「これ?」と言って女は照れたように頭を掻いた。頭を掻くその指は変な方向に曲がってしまっている。


「酔っ払ってノーヘルで走ってたらやっちゃったの。ガシャーンって聞こえた時にはもうお陀仏だったんだろうね。気づいたらここにいて、それからずっと立ちん坊よ。ああ、心配しなくていいのよ。見た目はひどいけど全然痛くないから。生きてる時はそりゃあもういろいろ考えたもんだけどさ、実際死んでみると気楽なもんよ」

「紗菜さん、引いてる。引いてるから」


 握っていた里莉の手を離して志朗が言った。紗菜と呼ばれた女のほうは「ありゃ、ごめんね」とどこまでも屈託なく笑っている。眩暈がしそうになって里莉は額を押さえた。


「この人、死んでいるの?」


 里莉は志朗に尋ねたのだったが「そうよー」と答えたのは紗菜だった。


「立派な幽霊ってやつ。なんだっけ、こういうの地縛霊っていうんだっけ。別に未練とか心残りとかあったわけじゃないんだけどね。家族のほうは別だったみたいでさ」

「ほら、花が供えてあるだろ?」志朗が電柱の足下を指差した。「紗菜さんが亡くなったのはけっこう前なんだけど、家族の人がずっと供え続けてるんだ。つまり、紗菜さんは紗菜さんの家族が望んだから生まれた怪異ってわけ」

「おかげさまでどこにも行けないのよね。なんか、私がずっとここにいるって想像してるらしくってさ。そうされてるかぎり、私はそれに従わなきゃいけないみたいなの。退屈ったらありゃしないわ。遊園地に行くとか、映画見に行くとか、ちょっとくらい想像してくれてもいいって思わない? だいたいさ――」


 さらに喋ろうとした紗菜を遮るように弓月が咳払いをした。


「話を戻しましょう。この少女を見たことがあるという話でしたが」

「うん、あるよ」と、紗菜は志朗が掲げた携帯端末の画面を覗きこみながら言った。「このカーブを越えて少し行くとお寺があるんだけど。お祭りの時とか正月とか、歩いて行くのを見たよ。横に女の人がいたのは、あれはお母さんだったのかな」

「それ以外では? 例えば今年の四月頃に彼女の姿を見かけませんでしたか?」

「いや、私ってほら、カレンダーで生きて……っていうのも変か、とにかく日付とかわかんないからさ。一番最近で言うと、そうだなあ」


 紗菜は腕組みをしてうんうんと唸った。逆方向に曲がっている指を根元からひょいひょいと動かして数を算えるようにする。志朗が囁いてきた。


「後ろ、見てみて」


 指を指されるがまま、恐る恐るではあったが振り返ってみる。なにか白い丸いものが道路を横切ろうとしていた。大きさは遠目だから正確なところはわからないが、指先から肘ほどもありそうで、ふわふわと微風に揺らされるようにしながら、けれども明確な意志を持っている証に時々風に逆らっては歩道を目指して転がっている。その時、一台の車がその白いものめがけて走ってきた。轢かれると思って「あっ」と声を出した時には、車はほかに通るものもない道路とあってか、ものすごい勢いで里莉の横を通っていた。あの白いのはと見ると、何事もなかったかのように車道から歩道へとよじ登っている。そのままふわふわ揺れながら建ち並ぶ民家のうち一軒の壁に近づいていき、吸い込まれるようにその向こうへ消えて見えなくなった。


「あれはなに?」

「あやし玉。ああやってうろうろして、子供を探すんだ」

「探してどうするの?」

「どうもしない。赤ちゃんくらいの子供のまわりでごろごろして、しばらくするとまた別の子供を探しに行く。弓ちゃんに言わせると、あれは寂しい怪異なんだってさ。寂しいから自分を見てくれる相手を探して旅をする。その子が自分を見なくなると、また見てくれる子供を探す」


 弓ちゃん、と里莉が問い返すと志朗は弓月を指差した。


「弓に月と書いて弓月だから、弓ちゃん」

「あの……怪異? あれも誰かが想像したから存在するの?」

「そう。子供が時々、なにもないところを見て笑うだろ? そういうのをなにかがいるんだと思う人間がいるからああいうのが生まれる。まあ、あいつは個人的な怪異ってわけじゃないから、この前の説明とは外れちゃうけど」

「個人的じゃない怪異もいるの?」

「昔はそこら中にいたさ。今は時々。例えば夜の学校には幽霊が出るとかさ、具体的な姿形は想像してないけど、なんとなく似通った想像はしてるってことがあるだろ? そういうのが寄り集まったのは割と昔っからの格好でうろうろしてる。でもな、個人的かそうでないかって区別はあんまり意味がないって俺は思うんだ。誰かが思うから、誰かが望むから、怪異は生まれる。重要なのはそこなんだよ。お前だって、そこの紗菜さんだってそうだ。誰かがいてくれたらいいと願ったから今ここに存在する。そうやって望まれて生まれてきた奴らがさ、悪い奴らだって思うか? 思わないだろ? だからさ、怪異っていうのは別に怖がるようなものじゃないんだよ」


 穏やかな顔をして志朗はそう言った。その眼差しはキッサテンで里莉の正体を言い当てた時と同じものだ。慈しみと親しみと愛情のこもったそれに見つめられると、温かなお湯にくるまれたようにほうっと息をつきたくなる。ようやく、ぎこちなくだったかもしれないが、微笑んだ里莉に志朗はにこりと笑い返してくれた。


「――では、三月の終わり頃か、四月の頭ということになりますか」

「そう、たしか桜が散りかけてて、もしかしたら完全に葉桜になってたかもしれない。八重桜は咲いてたっけ、どうだっけ」


 後ろから聞こえてきた会話に意識を引き戻された。志朗とあやし玉を見ていた背後では情報を確かめ続けていたらしい。弓月が真面目な顔をして携帯端末の画面を撫でていた。


「でも、どこに行ったかまではわかんないよ」と紗菜が肩をすくめた。「なにか行事でもないかぎり、行き先なんて知りようがないんだから。この先っていうとお寺さんと神社と小学校と交番と、あとは開いてるんだか閉まってるんだかわからないお店がひとつあったかな。ああ、あとはお寺の先の坂を下りきったところにコンビニがあったっけ」

「戻ってきたところも見たんでしたよね? コンビニがあるならビニール袋など、なにか持ち物が増えていたということはありませんでしたか?」

「言われてみれば、白いのガサガサいわせてたわ。でも、コンビニかどうかはねえ。お寺さんでも神社でもなにか買えば貰えるし」


 頷きながら弓月はメモを取っているのか、携帯端末の画面を叩いた。


「コンビニって家の周りにはないのか?」


 志朗が尋ねてきたので里莉は答えた。


「住宅街だからちょっと歩かないとないわ。でも、ここまで来たのは初めて。お母さんに教えてもらったコンビニはもっと向こうのはずよ」


 そう言って里莉は家々のほうを指し示した。志朗が首を傾げる。


「これだけじゃなんとも言えないな。関係ないかもしれないし」

「ええ、ほかも当たってみましょう」


 弓月はそう言って携帯端末を胸元にしまい込み、紗菜に一礼した。「ありがとう」と志朗も片手を挙げて言った。紗菜は反対にええっと不満そうに足を踏みならした。


「これだけ? もう行っちゃうの?」

「悪い、予定が詰まってるんだ」志朗が答えた。「また近いうちに来るよ」

「早くにしてよね。もう暇で暇で仕方ないんだから。そうだ、次に来る時はなにか持ってきてよ。お酒だと嬉しいな。発泡酒は嫌だからね」

「紗菜さん、懲りないね」


 呆れたように志朗が言うと、紗菜はあるかなしかの胸の前で手を組んでふんぞり返った。


「いいのよ。どうせ酔えもしないんだから。でも、お供えされると気分が違うって言うの? うちの親もそのあたり分かってくれればいいのに、花しか持ってこないんだから」

「ありがとうございました」と、里莉も頭を下げた。紗菜は「いいって」と手を振った。

「瑠々ちゃんだっけ? 見つかるといいね」


 柔和に笑う様はまるで生きているようなのに、体中についた傷はやはり彼女が死んでいることを示している。それでもここにいることがなんだか尊いように思えて、胸がいっぱいになって里莉はなにも言えなくなった。ただ黙って、精一杯体を折って頭を下げる。紗菜は最後まで笑っていて、後部座席に乗り込んだ里莉が見えなくなるまで手を振っていた。


   *


 車窓から見る風景は一変していた。車はそれから住宅街からすぐのバス停へ行き、駅へ行き、瑠々が通っていたピアノの教室や塾、里莉がお母さんやお父さんと行った商店街やショッピングモール、学校近くの駅、学校と巡った。行く先々で会ったのはもちろんと言うべきか怪異ばかりで、中には尋常のものとは思えない格好をしたものまでいたが、なににも増してそこへたどり着く途中の光景が異様だった。


 ぬらりとした体表を持つ大きな壁のようなものにおばあさんが自ら歩み込んでいったかと思うと次の瞬間平気な顔をして反対側から出てくる、仲良く遊んでいる子供たちの頭上では半透明の女の顔だけがケタケタと笑いながら漂っている、信号待ちの集団に向かってなにかを叫んでいるとおぼしき小さな人型があれば、その前を通り過ぎる車の上には異様に長い蛸の足みたいなものがくっついていたりする。その有様といったら、悪い夢というものがあればこれではないかと思えるほどだった。


 学校にたどり着く頃には里莉はすっかり酔ったようになってしまって、車から降りるなりその場にしゃがみ込んでしまった。瑠々を見たという情報はあったりなかったりで、確定的と言えるものはまだなにも得られていなかったが、もう一歩も動けないと思った。首の裏がじりじりと陽に焦がされる。すっかり皮が剥けてしまった踵が痛い。でも、それ以上に眩暈がする。


 慌てたような足音がバタバタ周囲でしていたが、顔を上げる気にもなれなかった。ややあってひやりとしたものが首の横に当てられた。伏せていた顔を少しだけ上げてみると、弓月がペットボトルを持ってこちらを見下ろしていた。


「どうぞ」と言われたのでペットボトルを受け取る。物も言わずにキャップを捻って中身を呷ってから中身が水だったと気づいた。とても喉が渇いていたようだった。水が体に染み入っていくような感覚に陥る。一気に半分近くを飲んでようやくひと心地がついた。


 ふと思った。怪異なのに、変なの。例えばあの紗菜は体中についた傷をもう痛くないのだと言っていた。だのに、自分は暑いし、痛いし、お腹だってすけば喉だって渇く。変な話だがトイレにだって行くのだ。人間みたいなのに、自分は人間ではなかった。瑠々さえ帰ってくれば、きっと鏡の中に戻る。鏡の中ではかつえることも乾くこともない。ただぼんやり膝を抱えて、必要がある時だけ鏡面の前に立って、それだけで一日が終わる。暇だなんて思ったことはなかったし、当然なのかはわからないが眠ることもなかった。なのに、今はまるで人間そのもののように生活して、こうして車だか風景だかに酔いさえする。


「弓月さんも水を飲んだりするの?」


 尋ねた声は思いがけず干からびていた。もう一口水を飲む。


「飲みます。食事もしますし、尾籠な話ですがそういった行為もします」

「さっきの紗菜さんはそういうことはないのよね?」

「そのはずです。幽霊ですから。そうした行為を必要とするかどうか、必要ではないにしろ取れるかどうかは、結局のところ人間に依るんです」

「なんて言ったかしら、あなたはえっと――」

「忘れ犬?」と弓月が言った。

「そう、忘れ犬ってみんなそういうものなのかしら?」

「さあ、どうでしょう。そもそもが特殊なさがにあるものですから」


 そう言って、弓月は車の腹を叩いた。


「話は乗ってしませんか? そのままでは暑いでしょう」


 里莉は頷いて立ち上がると、熱い車体にそれでもすがるようにしながら後部座席に滑り込んだ。低いエンジン音とともに体が微細に震えて不快だが、クーラーから出てくる涼風は汗の浮いた肌に気持ちよかった。運転席に戻ってきた弓月を眺めていて、今さら思い出して里莉は尋ねた。


「そういえば、八千原君は?」

「ここはお一人で行かれると。心配は要りません。少しすれば戻っておいでになるでしょう」軽くハンドルを叩いてから、弓月はそういえばと言うように尋ねた。「まだ気分がすぐれませんか? よければ、なにか軽くかけましょうか」

「かける?」と里莉は眉をひそめて問い返した。

「音楽でもかけましょうかと言ったんです」

「いえ、いいわ。それよりさっきの話を教えて。あなたは特殊ってどういうことかしら」

「私がというより、忘れ犬という種が特殊なんです。例えばですが、人間の子供が子犬を拾います。でも、大人に見つかると怒られてしまう。そこで段ボール箱に入れて潰れたタイヤ置き場なんかで秘密裏に飼うことにする。しばらく子供たちはミルクや餌を家から持ち寄ってきては子犬に与えるのですが、ある日、いつものタイヤ置き場に行ってみると子犬がいないのです。どこを探しても見つからない。子供たちはもしかしたら大人に見つかって連れて行かれたのかもしれないなんて話し合う。一日が経ち、二日が経ち、やがて子供たちは忘れてしまうんです。自分たちが可愛がっていた子犬のことを忘れて、別の遊びや勉強に夢中になる。真実はさておき、そうして忘れられた犬――まあ、犬に限らないのですが、そういう動物が怪異と化したのが忘れ犬です」

「可哀想な話ね」りりは心から言った。「あなたも忘れられてしまったの?」

「私は子犬ではありませんでしたが」

「でも、おかしな話。人間が想像するから怪異が生まれるのでしょう? あなたは忘れられたから生まれたのね」

「それが忘れ犬の特殊性です。忘れられたからこそ存在できる怪異なんです。もしかすると、そんな犬もいたなあと思い出す人間がいるからこそなのかもしれませんが」

「じゃあ、あなたを作った人間が誰かはわからないのね」


 ふっと音にして笑いこぼし、弓月は助手席を見た。その眼差しはあの志朗のものによく似ている気がした。


「そうですね。わからないまま、ずっとさすらっていました」

「ずっとってどのくらい?」

「ずうっとです。とても長い時間でした。たわむれに伝手を辿って戸籍を取って鉄鋼を転がしてみたり、不動産を買いあさったりしてみたりしましたがどうにも満たされませんでね。そんな折に志朗様と出会ったのです。というよりは、押しつけられたというのが正しいのですが。志朗様の為に人間らしい生活を心がけてみたり、免許を取ってみたり。散々に振り回されもしましたし、あの通り怪異に心を寄せる御方ですから手もかかりましたが、気づいてみると以前に感じていた不足はなくなっていました」


 なにかわからない言葉がたくさんあったが、彼はとても幸せなのだと里莉は思った。そして、それが羨ましいとも。弓月が幸せなのは側に大事な人間がいるからだ。


「私も瑠々とそんな風に暮らしてみたいわ」

「望めば不可能ではないと思います。例えば、契約というものがありまして」

「契約?」と里莉が言ったと同時に助手席の扉が勢いよく開いた。あっちーと叫びながら志朗が頭から飛び込んでくる。


「おかえりなさい」と弓月が出迎えた。

「ただいま。この暑さ、もうアホなんじゃないかと思うわ」


 志朗は忙しく胸元を扇ぎながら、ハンドルの横にあるボタンをバチバチと押した。途端にうなりをあげて強い風が吹き付けてくる。乾きかけた前髪が目に入って里莉は「ちょっと!」と思わず抗議の声をあげた。


「悪い。とりあえず、報告」額に張り付いた髪をかき上げながら志朗が言った。「相葉瑠々のことはわかんなかった。生徒が多すぎて見分けなんかつかないってさ」


 そう、と答えた声が沈んでしまったが仕方ないだろう。そろそろ帰らないと、お母さんのパートが終わってしまう。収穫と呼べるものは結局ひとつもなかったということだ。人間に尋ねた時と違って、瑠々を見かけたという怪異に出会えたのが唯一の救いだろうか。


「そもそも、それどころじゃないって言われたよ」ちらりと里莉を盗み見た志朗が運転席に乗り出した。「人喰いが出てるんだってさ」


「なるほど」と言って、弓月がハンドルの横を操作した。その声が嫌に平坦だった気がして里莉は小さな鏡に映っている弓月の顔を見たが、そこからはなにも読み取ることができなかった。助手席の志朗がどうなのかは、こちらもすでに顔を引っ込めてしまってなにも見えない。


「時間、もうまずいんだったよな?」


 そう尋ねてきた志朗の声が、妙に薄っぺらい響きをしていたように思ったのだが、気のせいだったろうか。自宅近くの駅まで送ってもらいながら、里莉は妙に気になったその言葉を頭の中で繰り返した。人喰い。それはもしかして、人間を食べてしまうもの――怪異のことではないだろうか。そうは思ったが、なぜか志朗も弓月もかたくなに前を向いたまま一言も喋らないので話しかけづらく、疑問は喉元に凝ったまま、最後まで言葉にすることはできなかった。

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