アンゴルモア

保坂星耀

第1巻 鏡は胸に花を抱く

 瑠々るるはいつも笑顔を作っていた。


 目覚まし時計の音に続けて、とんとんと階段を踏む音がしたら、洗面台が使われる合図だ。その前に現れる瑠々は、いつもどことなく不満げだった。心地の良い眠りから目覚めなければならなかった不快感、あるいは学校とかいうところへ行かなければならない不満、なにが正解だったのかはわからないが、とにかくいつもへの字に口を曲げて二重の瞼で目の大半を覆い隠していた。


 瑠々は毎朝の数秒間、必ずそんな自分の映し姿を眺めていた。それから、おもむろにヘアバンドを手に取って頭に通し、ぐいっと前髪を上げる。水道の栓を捻って瞼から鼻筋にかけてを丹念に洗い、仕上げに唇の端をひと撫でして昨晩のうちにうっかり垂らしてしまったよだれの白いあとが残っていないか確認する。満足がいったら備え付けのタオルで顔を拭い、今度はチューブタイムだ。歯磨き粉、日焼け止め、制汗剤なんかを総動員して身なりを整える。ヘアバンドを外したら髪にブラシと櫛を通し、ショートボブの先端に丹念にこてを当て、ヘアジェルを塗りたくって前髪に動きをつけたらおおよそが終わり。仕上げにひとつ儀式をする。両の人差し指で唇の端をぐいっと押し上げるのだ。それまでへの字を描いていた口元が笑顔の弧に変わったらいつもの瑠々のできあがりで、の仕事もひとまず終了となる。


 この朝の光景は、ずっとずっと先まで変わらないものだとは思っていた。少なくとも瑠々が成人というものを迎えるまで、あるいは大学というものに行くか一人暮らしをする資金を貯めるまで。瑠々は毎朝をと過ごし、毎度のように儀式をして、しばらく遠くの方でパンは一枚とか目玉焼きが硬すぎるよとかやったのちに「いってきまーす」と明るい声を張り上げるはずだった。


 どうしてそうならなかったのか、にはわからない。瑠々の両親にもわからない様子だった。ケイサツという人々も、先生たちも首を捻っていた。とにかく、ある日を境にして瑠々は消えた。それだけがはっきりとわかっていることだった。


 の出番は当たり前の事態としてなくなった。何日かのうちは頻繁に家族の議題として挙がっていた瑠々の名前も、何十日かが経つうちに聞こえなくなった。正確な日数は数えていないが百日は越えていたのではないかと思う、洗面台を磨いていた手をふと止めて、瑠々のお母さんはぽつりと言った。良い子だったのに。主語はなかったが瑠々のことに違いなく、は耳をすませたがそれきりお母さんはなにも言わず、俯いて陶器のボウルをゴシゴシ擦った。リビングがあるという方向からテレビのものとおぼしき笑い声が聞こえてきていて、そのとき――何故だろうか、はぞっとしたのだった。


 瑠々のことでが知っていたことは山ほどある。


 例えばニキビ退治に躍起になっていて鼻の頭が赤くなった時は石けんをひたすらそこに塗りたくったあと薬用と書かれたチューブのクリームを腹立たしげにすり込んでいたこととか、ピンセットで眉を整えている最中にそこにほくろができていることに気づいて涙目になりながら擦ってみたけどなんともならなかったこととか、お母さんの目を盗んでこっそり塗ってみたチークが薄すぎるような気がして塗り重ねていたら熟れた果実のようになってしまい結局は化粧がバレて大喧嘩になったこととか。笑うと右の頬に浮かぶえくぼ、お気に入りの部屋着はピンク色のクマさんがプリントされたTシャツ、左耳にひとつ開けたピアスの穴、下唇の裏側にできてしまった口内炎からイチジクを食べすぎて切れてしまった唇まで、秘密もそうでないことも多くのことを知っていた。


 けれども、それが瑠々の全てだったかと考えた時、瑠々がどうして消えてしまったのかと考えれば考えるほど、は自覚しないわけにはいかなくなった。は瑠々のことを知らなかった。鏡の前に立っている十七歳の少女、それ以上のことはなにも知らなかったのである。


 は鏡の中の住人だった。比喩でもなんでもなく、生まれた時からだった。一番はじめの記憶は何年前だったろうか、たぶん五年か六年ほど前だったと思うが、当時まだ小さかった瑠々が真新しい制服に着られていた頃のことだ。瑠々は新しい制服が嬉しいのか右に左に体を捻りながら、くるくると回ってスカートのプリーツを広げてみながら、嬉しそうに笑っていた。その時にはふと気づいた。瑠々と同じように回転している自分、この頃はおかっぱに近かった髪を揺らしている自分、楽しそうな笑いの形に口を開けている自分、そうしていながら体からも唇からも何の音も発しない自分というものを初めて発見した。


 己と鏡それ自体との区別はすぐについた。自分がするのは瑠々が鏡の前に立った時と決まっていたからだ。同時に気づいたことがあった。瑠々のお父さんやお母さんには自分のような存在はいないらしかった。瑠々が鏡の前にいない時、は鏡に映し出される範囲の反転した家の中にいるのだが、そこには自身以外誰もいなかった。お父さんやお母さんが鏡の前に立った時にそちらを見ると、ぺったりと扁平な影が立っている。影はお父さんやお母さんが鏡の前からいなくなると、まるで最初からなかったもののようにすっぱり消えてしまって、自分のように立体的な形を持っているでも、鏡の中の家に移動してくるでもなかった。


 そして、それ以上のことはなにも知らなかった。というより、知りようがなかった。新しいテレビが家に運び込まれる時にちらりとそれが鏡に映り込んだので、テレビというものが黒い板状のものであることは知っている。その時に聞こえてきた会話で、それがリビングに置かれることも、アニメやドラマというものがあるのだということも知った。けれども、リビングというのがどういう場所――家族が集合する場所ということを除いて――でどんな飾り付けがされているのか、アニメとドラマの違いや、そもそもアニメやドラマがどんなものなのか――瑠々やお母さんが嬉しそうだったから良いものであることには違いない――といったことは、皆目見当がつかなかった。


 瑠々のことも同じだ。彼女が鏡の前ですることはすっかりその通りに真似ていたからわかっていたが、ではどんな悩みを抱えているのかとか、友達という人にはどんな人がいるのかとかいったことはまるでわからない。瑠々はピンク色が好きだったようだが、じゃあ、その部屋の中は上から下までピンク色で覆われているのかどうか、そんな数メートル先にある答えすら知らなかった。瑠々がお母さんと喧嘩して泣きはらした目を冷やしていたことは知っていても、ではそれほどまでに嘆く理由とはと尋ねられれば首を捻るほかなかった――いや、そもそも鏡の中には一人だ。そんな質問を投げかけてくる誰かなんていたためしがなかったのだが。


 瑠々がいなくなった――それだけが事実としてあって、以降、の疑問は増えていく一方になった。瑠々はどうして消えたのだろう、あるいは消えなければならなかったのだろう。お父さんは毎日仕事に行って、お母さんはパートというものと家事に明け暮れているが、どうして瑠々を探しに行こうとしないのだろう。ケイサツや先生といった人々が訪ねてくる様子はないが、それは瑠々のことを諦めたということだろうか。そもそも、瑠々は毎日なにを考えていたのだろう。朝の儀式――人差し指で笑顔を作るあの懐かしい仕草にはなにか意味があったのだろうか。もしかして、人知れず悩みを抱えていたのだろうか。鏡の前でも言えないようなことが、例えば学校というところであったとか、そういうことなのだろうか。それで瑠々は誰も自分を知らないような別天地を求めて行ってしまったのか。あるいはなにかに巻き込まれて――それがなにかなど想像もつかないが――助けを求めているのだろうか。お父さんにもお母さんにもその声が届かなくて、毎日泣き暮らしているのかもしれない。それともまだあの儀式を続けていて、笑顔の自分を作っているのだろうか。


 考えることはいくらもあり、時間もまた無限と思えるほどにあった。お母さんのあの呟きを聞いてから何日かが経ち、何十日もが経ち、ふと良いアイデアが浮かんだのは突然だった。兆しなどない。理由も、機序もない。ただ思い立った、それだけだ。


 それじゃあ、私が瑠々を探しに行こう。


 なにがそれじゃあなのかは自分でもわからなかったがはそう思い、これまでその表面に触れるしかしてこなかった鏡を見た。つるりとした鏡面はお母さんに磨き上げられてくもりひとつなく、まるで水が四角く張っているだけのように見えた。できるとは考えて、それまでうずくまっていた洗面所の隅から立ち上がった。


 鏡の前に立って、その表面に五指を押し当てる。ひとつ大きく息をついてから、それを押し込んでみた。ぐうっと鏡の表面が指の形にへこんでいき、やがて限界が来たと見えて今度は手のひらに張り付き始めた。さらに腕に力を込める。洗面所の光景を写し取ったきらめきが手のひらから手首、腕と伝わってきながら薄く長く引き延ばされていく。歪んだ蛇口の像がついに肘を飲み込んだ辺りでプツッと手応えがあった。飲み込まれた時とは逆に、指先がもとの肌色を取り戻す。さらに進む。手のひらと手首が鏡を通り抜けて向こう側に飛び出た。かわりに二の腕を鏡のきらめきに飲み込まれながらはその名を呼んだ。


 瑠々。もう一人の私。絶対に見つけてあげるからね。

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