小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする
望々おもち
第1章 帰国子女とスノーホワイト
第1話 僕は白い妖精を見つける
「あの人、同じ学年の……」
古い歩道橋を見上げて、
陽の落ちつつある、寒々しい藍に染まった都会。一面、奇妙な静けさに囚われている。
カラフルな傘の花を咲かせて忙しなく人の行き交う雑踏で、ひらひらと行くあてのないように白いものが舞い落ちる。風に散らばり、気まぐれみたいに、ふわふわとあちらこちらへ踊りながら、無数の人々の踏み締めるコンクリートへと消えていく。
東京には珍しい、雪の日だった。
少々詩的な表現をすれば、空に三日月は笑わないし、綺麗な星も瞬かない。そんな天気だ。曇天の空からは、ただ雪だけが天使の散らした羽の如く、なにかの祝福のように落ちてきていた。きっとこんな夜のかけらを舌にのせれば、アイスクリームのように冷たくて甘いのだろう。
少なくともそう言えるくらいには、
「……
土曜だというのに、学校の制服に分厚いマウンテンパーカーを着込んだ
乗換案内アプリを表示させたスマホの画面に結晶の一粒が音もなく降ってきて、しゅんと溶けて小さな雫となる。アルカン作曲の『イソップの
どうやらこの街は、雪にすっかり鎖されてしまったらしい。
運休のせいで帰れない人がいるようで、駅構内はたくさんの人が立ち尽くしている。
帰りたくもない家に向かっている碧からしたら、帰らなくていい理由ができるというのは、ちょっぴりだけ羨ましかった。
学校から家へは徒歩で十数分ほど。帰り道に駅前を通りこそすれど、電車自体に用事はない。だから本当は、こんなところで立ち止まるつもりなんかなかった——
雪が降りしきる空の下。灰色の宵闇に包まれた、
その真ん中で柵を背にしゃがみこみ、ぽつんと佇むのは、一人の少女らしき人影。
夜風に、ふわ——と、絹糸の髪がなびいたのが見えた。こんな寒い夜なのに、白銀に輝くドレスのような上品なワンピースだけを身にまとい、腰まで届く長い亜麻色の髪には
橋の下を車が通るたびに、ライトが雪に反射し、ぼんやりと少女の姿を浮かび上がらせる。
実を言うと、碧は彼女を知っていた。いや、むしろ知らない方がおかしいくらいに少女は有名だった。
同じ学校に通う
「……何してるんだろ」
よもや学校という箱庭の外で出くわすとは思いもよらなかった、学内で知らぬものはいない有名人。あらゆる才能に恵まれて、学問や運動から芸事までなんでも完璧に卒なくこなし、誰にでも謙虚で優しく人当たりもよいと評判。
だがそれ以上に彼女を有名人たらしめているのは、
その北欧の人のような色素の薄い姿と神々しい空気、妖精のような目鼻立ちの可憐さから、ついたあだ名は
クラスが違うので話したことはないが、噂に
だからこそ、雪の夜にまるで家出少女のように隅っこで丸くなっている彼女の姿は、信じ難いものがあった。
雪で帰れないというのはなんとなく分かるが、なぜコートもなしにあんなところにいるのかは想像も及ばないし、気にならないと言ったら嘘になる。純粋な心配の気持ちも多少は覚えた。とはいえ、話したこともなければ縁もない彼女に、わざわざ歩道橋を上がってまで声をかける気にはならない。
それに碧には
同情とほんの少しの気がかりだけ残しつつ、帰路につくべく住宅街の方面につま先を向けると、静けさの中からやけにはっきりとこんな声が聞こえた。
「君、帰れないの? 匿ってあげるからうち来る?」
思わず、振り返る。
彼女に声をかけているらしい見知らぬ二人の男を視界に入れて、あぁ、と碧は声を洩らした。
それは街で時々目にする光景。
「聞いてんの? ねえ、無視しないでよ」
「ねえもういいって、行くぞ」
連れのいうことも聞かず、次第に苛立ちの色を滲ませる男。こうなってはさすがに、見て見ぬ振りをするのは良心が咎めた。週明け彼女が学校に来ず事件となったら、少なからず無視をした自分の責任になってしまう。
もとより、家にはあまり帰りたくないのだ。
帰るのが遅れるもっともらしい口実ができるなら、それに越したことはない。
〈人に優しくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人に優しくしなさい——〉
かつて授けられたそんな言葉が、どこからか響いた気がした。
足取りに僅かにためらいを残しながら、歩道橋の階段を登る。
鉄橋の真ん中。そこで楪くるみはしゃがんだままうつむき、拒むように両手で耳のあたりを押さえていた。髪で隠れて、表情はうかがえない。
「あの」
出来るだけ穏便な響きになるよう祈りながら、声かける。男たちだけが振り向いた。
「何? 待ち合わせなの?」
堂々と頷いてから、連れなのですがどうかしましたか、と続けようとした言葉はしかし出てこなかった。男が碧の制服をじろりと睨み、引き下がることなく捲し立てたからだ。
「待ち合わせ? 嘘だろ、制服着てんじゃん」
「いえ——」
「まさか横取りしようってか? 俺らが先に声かけたんだけど」
どうやら話し合いに応じるつもりはないらしい。
無論、こうなる可能性も考えていた。碧とて無策ではない。力技にはなってしまうがすぅっと息を吸い込むと、なるべく和やかなトーンを意識しながら静かに男を見据えてこう言ってやった。
「Pommern sind klein und niedlich」
ドイツ語。
もちろん、相手に理解されないことを分かった上での、だ。
話の通じない人間に、話の通じない言葉で怯ませるのは有効。どうせ分かりっこないので、何を言ってもいい。ただし相手は、知識人すぎず、かつ野蛮じゃない人間に限る。
「……は? 何語? 日本語喋れねえのかよ。外国人?」
「おいもういいだろ、よそうぜ」
目論見どおり、男は虚を衝かれて、戸惑いながら目の下をひきつらせた。負けじと碧も、害意は見せずに場にそぐわないにこやかさで続ける。
「Aber findest du Hermeline nicht genauso süß?」
外国語しか話せない高校生にこれ以上関わるのは厄介だと判断したからか、もう一人の連れは男を引っぱり、何も言わずに去ってくれた。
うまくいってくれてよかった。と、碧は白く染まった安堵のため息を吐いた。
寂れた歩道橋には、ふたりだけが残される。
「……」
二人きりになっても、楪くるみは動きも喋りもしなかった。
ひたすらうつむき、その表情は推し量れない。さてどうしたものか、と頬をかく。
きっと碧の足下くらいは見えているだろうが、敢えて気付かぬふりをしているようだった。まるで雪がこの街を世界から切り離したのと同じように、彼女自身も全てを拒み、自ら独りになりたがっているようにも見える。積もった雪に反射する車のライトと、遠くの駅から聞こえてくる喧騒だけが、彼女をかろうじて世界に繋ぎ止めていた。
向こうが拒む姿勢を見せる以上、もし声が届かなかったらそこまでにしておこう、と先に決めてから、分厚いマフラー越しに心持ち大きな声で話しかけた。
「楪くるみさん、ですよね? 帰れないんですか? それとも具合が——」
先ほどの男と同じ声の掛け方になってしまったことに気付き、口を噤む。しかし声は届いてしまったらしい。自らの名を知る理由を問うためか、雪の上に垂れた色素の薄い髪がかすかに揺れ、ゆっくりと顔を上げる。
走り去る車のライト。その逆光の中で、二人の視線が交錯した。
「——っ」
彼女の持つ美貌を知っているつもりながら、思わず息を呑んだ。
何かの冗談のように、綺麗な人だった。
今までは学校の廊下でたまにすれ違う程度で、ここまでしっかりその端正な面差しを拝むのは初めてとなる。
聡明さに、あどけなさを同居させた顔立ち。寒さに潤んだ大きなヘーゼルの瞳が、碧の姿をたゆたう水鏡のように反射した。
降りゆく雪に負けぬほど真っ白で清い肌、すっと通った鼻梁。桜色に染まる可憐な唇、そして繊細な睫毛。その全てが黄金比さながら奇跡の調和で整いながら、どれも華やかでありつつ氷の彫刻のように儚い。
亜麻色の髪が、雪あかりを受けて今は白銀に煌めいている。ドレスも相まって御伽話の氷の世界からやってきた妖精のように、あるいは雪と共に空から落ちてきた天使のように、雪が吹き荒ぶ夜でまるでそこだけが高貴に光り輝いているようだった。
彼女が座れば、ただの歩道橋でもロンドン橋になってしまうらしい。ここが日本の西東京ということを忘れてしまうくらいに、彼女は世俗離れした雰囲気を醸し出していた。
ただ一つ、気がかりな点があるとすれば——その表情が、
かけるべき言葉を見失っていると、彼女は碧の制服を見て一瞬だけ目を見開き、相貌がくしゃりと歪んだ。碧が瞠目していると、今度は憂いを上書きするように愛想笑いを浮かべる。
いつぞや学校で見かけた時と同じ、
押し隠せぬ剣呑な上目遣いで、碧の問いには答えない。碧のことを、善人だと欠片も思っていない瞳の色だ。答えぬ代わりに、銀の鈴を打ち鳴らすような声で、柔らかくも
「……どちら様ですか。こんな、雪の日に」
どうやら、幸か不幸か相手は碧のことを知らないらしい。
「見た通り、同じ学校の人間です。……寒いですよねその格好。駅の中、入ったほうがいいんじゃないですか」
正式に関わり合いになるつもりはないので、名前までは明かさなかった。
怪しい人間でないことは制服が証明してくれている。
暗がりの下、くるみの瞳が一瞬儚げに揺れ、柔らかな笑顔のまま断じた。
「……私は今、探し物をしているの。ですからご無用に願います」
「探し物、ですか。よかったら手伝いましょうか?」
「いいんです。こんな雪だし。きっと見つからないから。どうかお構いなく。気持ちだけいただきます」
こんなところで探し物なんて嘘か本当かは分からない。だが、どうやらやんわり追い返そうとしているらしい、ということは分かった。
「……っくしゅ」
その時、少女が小さく可愛らしいくしゃみをする。
まあ、寒いだろうな。そんな格好じゃ。
彼女の言う通り、こんな雪じゃ探し物とやらは見つからないだろう。探すなら、後日改めてからの方が合理的だ。
しかし、そのままさよならと帰ってしまうのはあまりに冷たすぎる気がした。現に、彼女の
大きなお世話だろうな、と思いつつもフードのついたマウンテンパーカーから袖を抜き、ごわごわした素材のそれをそのまま彼女の肩に無造作にかけると、赤ずきんのように頭をおおったフードの下でくるみの
「風邪引きますよ、気温零度でそんな格好じゃ」
「けど……そうしたらあなたが……」
「大丈夫です。家近いですし。寒いのには慣れてますから」
五秒ほど間を置いてから、雪の音にすらかき消されてしまいそうな小さな声がぽつり。
「……ありがとう、ございます」
柔らかさの中に、投げやりさが滲んだ言い方だった。
そんな親切はいらないのに、と突き放そうとする意味にも聞こえた。
関わった以上すぐに別れを告げるつもりはなかったので、碧もくるみから一メートルとその半分ほど離れたところで柵に寄りかかった。碧がここを離れたら、また先ほどのような男がやってきて彼女に話しかけることは分かりきっているからだ。
一応、確認する。
「迎えは来るんですよね」
「……来る。多分、そう時間はかからないはず」
じゃあそれまでの付き合いだ。
身震いが彼女に伝わらぬようにマフラーを鼻まで引き上げてスマホを弄っていると、今度は彼女の方から尋ねてきた。
「……どうして、私のことなにも訊かないのですか」
「何をですか?」
「私が、なぜこんな格好で外にいるのかとか……気にならないの。それが物珍しくて、あなたは声をかけたんじゃないの」
「別に。そっちが話したいなら別ですけど、そうじゃないんでしょ? 今日のことも、誰にも言いませんから安心してください」
碧の答えが想定していたものと異なったからか、彼女は儚げな瞳を揺らがせた。
橋の下を車がよろよろと走っていくのを見届けていると、フードの下から情を感じさせない淡白な声で問いかけられる。
「……あなたは帰らないんですか」
「だって、放っておけないじゃないですか。くるみさんのこと守らなきゃいけないし」
白くぼやけた対向車のライトを目で追うと、彼女がこちらを向くのが気配で分かる。
あいにく、この時の碧はまだ、
「どういう……」
「ですから、誰か他の男に拐われたりでもしたら嫌なんです。僕これでも一応男ですから、隣にいさせてください。もちろん嫌なら断ってくれて大丈夫です」
「他の……男?」
見ると、くるみは何を言っているのか分からないといった風情で唖然としていた。それから呆れと戸惑いと蔑みを等分させた半目になってじっとりと碧を睨む。
「どういうつもりなんですか」
「だから言葉通りですよ」
「どうしてそれを今言ったの? ……無節操です。時と場所ってものがあるでしょう」
「ですから、時も場所も今ここしかないでしょ、こんな状況なんだから。一緒にいるところを学校の人にみられたら嫌かもしれないので、一応訊いたまでです。まあ、もちろん無理にとは言いませんが」
戸惑いながらも碧がそう言うと、くるみはようやく押し黙った。
別に彼女に肩入れをしているわけではない。恩を売るつもりもない。ただ先ほどの事情に加えて——世界から切り離されようと懸命に丸く小さくなるのを見て、なぜだかそのまま帰ることができなかっただけだ。
良心が咎めたからか、自分との誓いのためなのかは、自分でもよく分からない。
それから幾許が経ち、碧の髪にも白く雪が積もり始めた頃、マナーモードにされた彼女のスマホが光った。
「通知来てますよ」
気付いていない様子なので教えてあげる。顔を上げてから、くるみは画面をちらりと見やり、北風の如くやけに冷たい声で淡々と告げた。
「迎えの車が来たみたい」
「すぐですか?」
「この歩道橋の下まであと五分ほど」
なら、もう自分はお役御免だ。これ以上ここにいる理由もない。
「そうですか。ではそろそろ帰ります」
なぜか、くるみが
「……あの、ありがとうございます。きちんとお礼は——」
「いいですよそんなの。見返り欲しいわけじゃないから。僕はこれで。じゃあ、また」
それだけ言い残すと、碧も寄りかかった柵から身を起こす。柔らかな雪に覆われた階段を降りると、上から声が降ってきた。
「ちょっと、待ってください!」
さくさくと歩みに合わせて、マフラーから洩れた白い息が後ろに流れていく。
後ろから呼び止める声が聞こえた気がしたが、振り返りも返事もしなかった。
——貸したままの上着と、小さな雪の結晶のような勘違いを、寒空の下に残したまま。
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