第21話

 須藤がキャンパスに走らす右手を止めた。


「大丈夫。学校にはバレないように最大限、配慮はするよ。じゃないと、僕も希も、そして清水さんも大変なことになってしまうからね」


 柔和な笑顔を浮かべる須藤。しかし、僕から見れば、悪魔の不敵な笑みそのものだ。


「その……む、りです……」


 須藤の顔から笑みが消える。半ば睨むような冷徹な視線。キャンパスを走る鉛筆の芯が折れて音もなく彼女の足元に転がり落ちる。


「どうしてだい? 君は、清水さんの友達だろう? 友達のことはどうでもいいと言うのかい? 僕は清水さんが犯した過ちを、本来は学校側に伝えなければいけない立場だ。でも、それを隠蔽してあげている。これが、僕にとってもどれだけのリスクになるのか、わかるね? では、そのリスクに対するリターンをもらうのは、当然のことだろう? なのに、君はそれを拒むと言うのかい?」


 まくし立てるように早口で言葉を連ねる須藤。


「屑かよ」


 思わず小さな声が漏れた。

 

「あの私、実は彼氏がいます。だから、その……ごめんなさい!」


 彼女は立ち上がり、頭を下げる。


「清水さんのことは――」

「彼女のことは許してあげてください! お願いします! お願い、します……」


 気味の悪い静寂に胸がざわめく。

 須藤は炭で黒く染まった手を組んだ足の上に置き、椅子に背を預けた。


「ふむ、なるほど分かった」


「本当ですか!?」


 彼女は少し驚いたように顔をあげる。


「その彼氏とやらと別れなさい」


「――えっ?」


 彼女の表情が凍りつく。


「別に希が誰かと付き合っていようと、僕には関係のない話だ。何も、彼氏と友達どちらを取るのか聞いているんじゃない。僕と付き合えば、清水さんも、君の彼氏も不幸にはならない。けど、君が友達よりも彼氏を取ると言うのであれば、清水さんは残念ながら大学は諦めるしかないだろうね。彼女、国立大学を目指しているんだろう?」


 あぁ、腸が煮えくり返る。

 須藤は椅子から腰を上げた。


「さあ、そろそろ答えを聞かせてもらえるかな? 大丈夫。僕は、自分のは大切に使うタイプだ」


「――ふざけんなッ!」


 気がつけば、美術室の扉を思い切り開けて、教室に踏み込んでいた。

 彼女が振り向く。今にもその瞳から涙をこぼしてしまいそうで、胸が締め付けられる。

 須藤は少し驚いたようで、彼女に歩み寄ろうとしていた足を止めた。


「彼女は……希は、お前の物じゃない」


 彼女の前に立つ。ワイシャツの裾を彼女の震える手がきつく掴む。


「ふむ、君が例の彼氏くんかい? このタイミングで出てくるってことは、今の話を聞いていたね。希と別れなさい。何も、今後一切関わりを持つなって言っているわけじゃないんだ。まだ、君たちは若い。他の人を探すだけの話じゃないか。それだけで、清水さんの将来が救われるのなら、こんなに素晴らしい別れの理由はないだろう?」


 軽蔑と、嫉妬と、憎悪、様々な感情が次々と溢れ出して、とてつもない不快感だ。


「話にならないですね。失礼します」


 彼女の手を取り、美術室を後にする。


「いいかい。よく考えて、今日中に答えを出しなさい。二十一時、学校の前の公園に私はいるから、しっかりと来て、答えを聞かせなさい。あぁ、それと親御さんには今日友達の家に泊まるように言っておきなさい。夜通し可愛がってあげるからね」


 背後から聞こえてくる須藤の声は、顔を見ずとも、彼が卑しい笑みに塗れていることが明白だった。


        *

 

 彼女の手を握ったまま、校舎を突き進む。途中、多くの生徒とすれ違い、ヒソヒソと呟かれるが、そんなことどうでもいい。

 今はとにかく、須藤がいるこの学校から一刻も早く離れたかった。


「ごめんなさい……巻き込んじゃって。でも、ありがとう。助かったよ」


 頭の中を色んな感情が駆け巡る。

 こんな話、せいぜい本かドラマの中くらいだと思っていた。しかし、実際に目の当たりにすると、ふつふつと怒りが込み上げて止まることを知らない。


「謝る必要ないよ。とりあえず、一旦家に帰ろう」


 衝いて出たのは強い言葉を使わないようにするので精一杯で、当たり障りのない言葉だけだった。

 彼女は半ば放心状態で、手はずっと小刻みに震えていた。

 二人分の傘を取り、校舎を出る。


 外はいつの間にか土砂降りになっていた。



 家までの帰路は、互いに一言も話さなかった。しかし、握りしめる彼女の手だけはずっと力を緩めることなく、強く握り締め続けた。

 家に着き、いち早く彼女にタオルを渡す。相合傘のような形で帰って来たため、お互い、結構濡れてしまっている。


「とりあえず、濡れたんだから風呂入って来なよ。そしたら、全部聞くからさ」


「……ん」


 ふらついた足取りの彼女を脱衣所まで連れて行き、扉を閉めた。


 一人のリビング。大降りの雨音とかすかに聞こえて来るシャワーの音だけが耳を伝う。とにかく、感情を鎮めて冷静になろうと必死だった。

 詳しい話は彼女に聞かなければわからない。今、何かを考えても無駄だ。しかし、須藤は二十一時に学校前の公園に来いと言っていた。それまでには、何とか対策を取る必要がある。

 時計を見ると、短針は十二時を指している。後、九時間。

 先ほどの様子を見るに、須藤は彼女に固執している。最終的にはどんな強硬手段を取って来るか分かったもんじゃない。

 彼女がこれ以上傷つく姿を見てはいられない。見たくない。


「ねぇ――幽霊くん」


 微かに彼女の声が聞こえた。


「どうした?」


 脱衣所に繋がる扉の前で聞き返した。


「ちょっと話しづらいね。脱衣所まで来て」


「は? でも――」


 この不思議な身体のせいで、そういった欲は無いとはいえ、やはり羞恥心というのはあるわけで、深く困惑した。


「大丈夫。私、まだお風呂の中だから」


「それなら、まあ」


 恐る恐る扉を開ける。


 脱衣所には服が雑に脱ぎ捨てられており、衣服の小山の隙間から下着と思しき一部が見えてしまい、慌てて目を逸らす。硝子折れ戸の向こう側には人影は無く、シャワーの空流しの音だけが鳴り響いている。どうやら、彼女は浴槽にいるのだろう。

 なるべく風呂場と脱ぎ捨てられた衣服を見ないようにして座る。


「春華は――あ、須藤先生の言ってた清水のことね。私の親友なの。ほら、幽霊くんも会ったことがあるでしょ? 初めて一緒にご飯食べた日に、君のことが私以外に見えるか確かめた子」


「あぁ、あの人か……」


「春華はね、普段はすごい真面目なんだけど、一ヶ月前にちょっとした事件を起こしちゃったんだよ」


 流れ続けるシャワーの音に負けそうなくらい小さな声で、けれどはっきりと彼女は語り出した。


「春華には一年以上付き合ってる彼氏がいるの。いつもとっても仲が良さそうで、私と春華は親友だったけど、春華と彼氏の間には私でさえ入り込めないくらい大きくて深い関係があった。彼氏の話をしている時の春華はいつのも何倍も笑顔で、あーこれが恋してる子なのかってずっと思っていたんだけど……」


「だけど?」


「七月の初め、春華はバイトの帰り道で強姦にあった」


「……強姦」


 聞き馴染みの無い言葉だ。もちろん、意味は知っているが、少なくとも十八年間、この田舎町で暮らして来て、強姦が発生したという話は耳にしたことがなかった。この十年で治安がそこまで変わっているとも思えない。


「正確には強姦未遂かな。もうだめってなった時、手元に落ちてた石を振り回してたら、偶然襲って来た人たちの一人に当たったらしくて、相手が怯んでいる隙に須藤先生がたまたま通りかかって事なきを得たみたい」


「そうか、よかった」


「でもね、問題はそこからで、春華が怪我させちゃった人、石の当たりどころが悪かったのか全治三ヶ月で、今も市立病院に入院中。詳しくは私も知らないけれど、須藤先生曰く未遂な上に全治三ヶ月は過剰防衛にはならなくても、取り調べとかで相当な時間が削られるし、もちろん将来のことを考えると世間的によろしく無いから、この事は黙っておこうって話になったらしいの」


 何かが引っかかる。


「正当防衛なんだから、堂々として入ればいいと思うんだけど」


「私もそう思うんだけどね、春華、受験ほんとにギリギリらしくて、取り調べとかに時間を割いてるとやばそうなの。それに世間の目は様々だから、大学からもどう思われるのか分からないしね。後、何より彼氏にバレたくないんだろうね……ほら、はまだって言ってたし」


「彼氏なら分かってくれそうだけど。確かに隠したい気持ちも分からなくはないかな」


 信じがたい話ではあるが、彼女が嘘をつくはずがないし、嘘をつく理由もない。

 全てが事実。

 でも、何だろうか、このモヤモヤした気持ちは。今の話を聞いて引っかかるところがある気がする。どこかは分からないが、不自然な点が無くもない。


「それで少し強引ではあるけど、今回のことに繋がるのか。須藤はこの事件をネタに君に交際を迫った。春華さんのことを学校にバラされたくなかったら、僕と付き合えってね」


「……うん」


「この件、春華さんは知ってるの? いや、知らないか」


「言えるわけないよ。私、春華には絶対に大学に受かって欲しいの」


 きっと、希は今、俯いているのだろう。

 結局、僕に縋ったはいいものの、もう半分諦めているように感じる。己が身より親友を優先する。僕が同じ立場であれば、きっと同じ選択をするだろう。しかし、その行為が第三者から見れば、どれだけ馬鹿で、可哀想で、愚かな行動なのか本人は気づかない。

 この件、彼女を助ける事はきっと、すごく簡単な事だ。しかし、全てを丸く収めるためには、もう一手、決め手となる何かが必要だ。

 その何かが、分からない。

 先ほどの話には明らかに不自然な点が存在する。

 何にせよ、時間がない。今すぐ動かないといけない。


「ねぇ、清水さんって今日も学校にいるかな?」


「えっ? いや、今日は多分図書館にいるんじゃないかな。春華、雨の日は学校で勉強しないから」


「分かった。ちょっと、行ってくる。君は何かあるといけないから家にいてくれ。二時間で戻るから絶対に家から出ちゃだめだよ?」


「ちょっと、幽霊くん!?」


 勢いよく湯船から出たのだろう。水しぶきの音に合わせて硝子越しに彼女のシルエットが映り込む。

 彼女が扉を開ける前に脱衣所を抜け、家を飛び出す。

 大丈夫。最悪の自体を回避する事は簡単だ。彼女には絶対に無理でも、僕なら絶対にできる。

 自惚れじゃない。

 春華さんと希は親友。

 親友とは、本当に大事なことを隠してしまう存在。そういうものなのだ。


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他サイト様主催スターツ出版大賞最終選考作品の加筆・修正版です。

旧名「夏色リバイブ」


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