11-06 傘を忘れた金曜日には
もうなにもなかったし、なにも思いつかなかった。あなたはそんなふうになってるんだ、でもあなたはこれからこうしなければならないのよ、そうすることからあなたは逃げられないの、と言ってくれる誰かも、もういない。もう、俺に指示や命令を与えてくれる人間はいない。俺は屋上にひとりぼっちで、寄る辺もなく、道しるべもなく、ただ立ちすくむだけになってしまう。
俺はあらゆることをもう聞き逃したのかもしれないし、これからもそれを聞き逃し続けるのかもしれない。
サーカスの道化にもまだもうすこし仕事があるだろう。けれど、いま俺が立っているのは、舞台の上でもなければレンズのむこうでもない。俺を見ている人間はこの世界にはもうひとりもいない。誰も俺のことを求めていないし、誰も俺のことを待っていない。でもそんなのはあたりまえのこと。あたりまえの日常。
価値を保証するなにかがない。
意味を保証するなにかもない。
根拠を示してくれるものもいない。
理由を与えてくれるものもいない。
誰も太鼓判なんて押してくれない。誰かの求めに応じて、求められたことをするだけで、価値や意味や根拠や理由が与えられるなら、そんなに楽なことはない。
今、俺は、誰にも何も求められていない。
求められていると、そう感じるとしたら、それは妄想だ。
そう、考えるまでもなくこういうことだ。
俺ははじめから三枝隼で、
ほかのなにかがあったと思うのは、すべて無根拠な妄想に過ぎない。
その無根拠な妄想を、確認しようのない幻覚を、信じて、幻のなかで生きることなんて、あまりにも馬鹿らしいことだ。
そうじゃないか? と、誰かに保証を求めたところで、それを保証してくれる誰かさえいない。
正しさがない。
すべてはおぼろげな黄昏の下で曖昧に滲んで不確かになっている。
手をひとつ、足を一歩、動かすことさえ、正しいかどうかわからない。
正しいと思えるとしたら、それは、気まぐれな脳内物質の作用でしかない。
わからない。
わからないわからないと言っていたところで、もう誰も俺のもとを訪れて、何か示唆に富んだ助言を与えてくれたりはしないだろう。
そう、他の誰もがそうであるように、俺も自分が何をするのかは自分で決めなければならない。ここには根拠も理由もなにもないのだから。誰もがそうして生き、そして死ぬのと同じように。
しなければならないことも、してはならないことも、なにひとつない。
それなのに、この空は、風は、あたりまえに、俺のめのまえに、さしだされている。
不意に、ぽつりと、なにかが肌にあたる感触。
知っている。これは、
「……雨、だ」
不意に、ぽつぽつと、空から落ちる雨。さっきまでの晴れ空が、あっというまに暗くなり、雨粒はその勢いを増し、コンクリートを黒っぽく染めていく。わきあがる、夏の雨の匂い。
ぎゅっと、胸が締め付けられるような気がした。
髪と肌と服とにしみこんでいく水滴たちが、蒸すような熱気になってからだにまとわりつく。鼻の奥がつんとするような、そんな匂いだ。俺は空を見上げて、その暗さに奇妙に胸が沸き立つのを感じた。
制服の胸のあたりをぎゅっと掴んで、へんに力をこめて、空を睨む。勢いづいた雨粒はすぐに顔を濡らして、おかげで俺はうまく泣けもしない。
「雨だ」
と、俺はつぶやく。その声を、誰も聞いていない。
でもそれがなんなんだ?
わからない。
俺はなにをしてる?
俺はなにを待ってる?
どうして俺は泣いているんだ?
どうして俺はここにいるんだ?
なにかを、思い出しそうだ。
土砂降りになった雨の下で、俺は濡れるがままに任せて立ち尽くす。ほかになにをどうすればいいのかわからない。こういうとき、どうすればいいのかわからない。
誰かが俺のために泣いているような気がする。
こんなとき、どうすればいいんだっけ。
――傘を、
誰が、俺に言ったんだっけ。
――傘を忘れたら、
誰かが、いたはずだ。
――傘を忘れたら……。
◆
「スミカ……」
◇
「純佳……?」
◆
「……スミカ」
◇
純佳って、誰だ?
◆
「スミカ」
◇
純佳、と俺はいま言った。
◆
「スミカがいない」
◇
純佳、って、誰だっけ。
◆
「どうしてスミカがいないんだ?」
◇
誰だっけ。
◆
いるはずだ。
三枝隼には、妹が。三枝隼に妹がいない世界なんて、ない。
◇
純佳、って、誰だ?
◆
どうして俺はそんなことを知ってる?
◇
――傘を忘れたら、教えてください。
◆
俺は、
◇
――あんまり濡れたら、風邪ひいちゃいますから。だから、
◆
俺は、三枝隼じゃ、ない。
◇
――傘を忘れたら、教えてください。
◆
「どうして、スミカがいないんだ?」
◇
――兄が、傘を忘れたら、わたしが兄に傘をさしてあげます。
◆
クイズみたいなものですよ、と誰かが言う。
あなたはこれから帰路をゆくのではなく、あらたな土地に踏み出さなければならない、と誰かが言った。
――そこであなたは彼女を見つけなければならない。
◇
純佳、って、誰だ……?
◆
うるせえよ。
おまえの妹だろうが。
ああ、そうだ。
◇
「……純佳」
◆
わかってしまった。
俺は、三枝隼じゃない。
◇
「……さっきから」
◆
なあ、聞こえてるよな。
◇
「……俺の頭のなかで喋ってるのは、誰だよ」
◆
俺は、
宮崎二見だ。
◇
「……宮崎、二見?」
◆
「なあ、そうだ。おまえが見つけなきゃいけないんだ」
◇
「……さっきから、何を言ってるんだ?」
いや。俺は、もう既にそれを知っているんじゃないか。
……雨、が、降っている。
◆
この世界には、三枝スミカが欠けている。
クイズのようなものですよ、と、そう言った声が、くすくすと笑うのが聞こえた。
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