第38話 歪んだ歓び

「それじゃあ、まずはこの縄をどうにかしないとな」


 なんとか椅子のささくれた部分で切れないかと試す。しかし、ふと俺は気がついた。――足音が聞こえる。厚みのあるドアの向こうから、バラバラに足音が聞こえてくる。



 ややあって、扉が開かれた。出てきたのは、あの、黒髪でうさんくさい黒スーツを着た男だった。



 男が魔族だというのは、あのビルが爆発した後の行動でわかっていた。今は鱗を生やしてはいないが、俺は確かにあのとき男の顔に鱗が蔓延るのを目撃していた。



 男の背後にはもう一人男がいた。隆々とした筋肉を体に纏うその男は、よどんだ目をしていた。灰色のジャケットを羽織っているその男は、うろんげな眼差しで部屋の中を見回し、ボコを、そして床に椅子ごと倒れ込んでいる俺を見た。その男は、ボコがいなくなる直前に現れた男だと俺は気がついた。



 男は俺を見たあと、ふー、と力なくため息をついた。



「グラシュテイン。この人間のガキ、全然元気そうじゃねえか」


 言葉をかけられたグラシュテイン――黒髪に黒スーツの男――は、やれやれと肩をすくめた。グラシュテインは少しばかり呆れた顔で背後の男を振り返る。



「おいおいバダック。俺は一般人とバベルと海動会の目をすり抜けてこいつを運んできたんだぜ? 鎮静剤打つのだって大変なのに、弱らせる時間なんてなかったって」

「ったく……」



 バダックと呼ばれた男はグラシュテインから視線を外すと、再び俺を見た。


 男の目は黒い。一度沈んだら出られない泥沼の底のようだ。見つめられているだけで息苦しくなる。



 ふいに、俺の目の前にいるボコが身をよじった。ボコは息を震わせながら、自分の背後の男たちに叫ぶ。



「ひ、英生にはひどいことしないで! ボコのことはどうにだってしていいからっ」

「ボコ! そんなこと言わなくて大丈夫だ、必ず俺が助ける」


「おーおー、勇ましいねえ。さすが勇者だ。どんな時でも諦めない、くじけない。まさにヒーローだなあ。素晴らしいねえ」



 グラシュテインは手を叩いて笑う。さもおかしい、腹がよじれそうだ、と言わんばかりの笑い声。俺は唖然とした。なにがおかしいっていうんだ?



 男はひとしきり笑うと、ふうとため息をついた。しかし、まだ笑い足りないようで、くっくっと密やかに笑っている。



「な、なにがおかしいんだ」


 不可解なあまり俺が思わずそう口にすると、グラシュテインはうつむき長い髪に隠していた顔をあげた。その表情を見た途端、俺は背骨を氷の塊にされたようにゾッとした。



 男は微笑んでいた。それは、一見すると慈しみの笑みのようにも見えた。しかし、その目が語っていた。憎悪を、そして、奴の嗜虐心を、追い詰められた憐れな子羊を目の前にした猛獣のような凄烈な笑みだった。



「俺はさあ、勇者っていうのが大好きなんだよ。自分の未来に、人類を守ることに疑念も抱かず、ただ勝利への希望だけを抱いている、そんな純粋な人間どもがさあ。そして、そんな奴らが最期にはただただ助けを求めるだけの愚劣な生き物に変わる瞬間が面白くて面白くて仕方がないんだよ」



 声を不気味に上ずらせて、男は笑いながらそう言った。俺はあっけにとられて、ただただそいつを見つめることしかできなかった。言葉が出なかった。今まで、たくさんの魔族を倒してきた。しかし、そいつらは人間を遊びで、自分の楽しみのために傷つけてはいなかった。ただ、生き残りたいから。人間が憎いから。その一心で奴らは人間を攻撃していることが奴らを見ていてよくわかった。



 だが、こいつは違う。



 ふいに男が動いた。迷いもなく一直線に俺に向かってくる。


 男が足を軽く振り上げる。そのまま虫けらでも踏み潰すようにして足が俺の顔面に迫ってきた。



 避けることはできなかった。床に転がったままの格好で、俺はなすすべもなく無抵抗で男の蹴りを食らった。



「がッ」


 鼻の骨に靴裏ががつんと当たる。鼻の奥につんとした痛みが滲む。咄嗟に瞑った瞼の裏で、赤い光が炸裂した。


 ひっ、とか細い悲鳴が耳を刺した。



「や、やだ、やめて、やめてよ!」


 ボコの叫び声が聞こえる。しかし、男の動きが止まることはなかった。



 目は開けられなかった。とめどなく飛んでくる暴力に、ただひたすら耐えることしかできなかった。



 男は執拗に鼻を蹴り飛ばした。生ぬるい鼻血が飛び散り、顔に垂れる。骨が折れている気がした。男はしばらくの間ずっと俺の顔を蹴っていた。無機質な動作で、しかし粗暴に力を込めて何度も何度も繰り返した。



 俺はその痛みに何度も思考をやられそうになりながらも、冷静になることに努めた。必ずこいつを打ちのめして、ボコを連れて帰る。遠のきそうになる意識の中で、そう思い続けた。こんなの、勇さんや葵さんとの訓練に比べればずっとマシだ。顔ぐらいなんだ、体が無事ならどうってことはない。



 ふいにグラシュテインの足が気まぐれのように軌道を変え、俺の喉を蹴り飛ばした。一瞬、呼吸の仕方を忘れた。咳き込みながら必死に息をする。



 呼吸を整えながら男を見上げると、ざわっと全身の皮膚が総毛立った。


 男の顔は全くの無表情だった。集中して、先程までの笑顔すら忘れている。男はただ、俺をどう痛めつけるかだけに神経を注いでいるようだった。



 ひっく、ひっく、としゃくりあげる声が聞こえる。ハッとしてそちらを向くと、グラシュテインの後ろでボコが肩を震わせていた。涙で顔をぐちゃぐちゃにして、鼻を赤らめたボコは、すがるように声を上げた。



「やめて……やめてよ……ひでおにひどいことしないで……おねがいだから……」


 悲鳴混じりの哀願に、グラシュテインの表情が変わった。その顔を見て、俺は凍りついた。



 明瞭な嫌悪感。「うるさいから」ただそれだけの理由で飼い犬を蹴り殺すような、泣き声をあげる赤ん坊の足を掴んで頭から湯船に沈めこむような、そんな獰悪に満ちた理不尽な苛立ちがそこにはあった。



 まずい、と思った。奴の嗜虐欲の矛先が変わった。そのことに全身にざわっと鳥肌が立つ。



 グラシュテインがボコを振り返る。



 ぐずぐずと泣きじゃくるボコに伸ばされる手。全身の血の気が引く。

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