第2話 黄昏の下の再会

 俺の右手から、鮮やかな黄金色の光が紙に水彩絵具をにじませるように広がっていく。光が彼女の脚を包み込んでいく。静かに時間が過ぎていく。やがて彼女の脚にがピクリと動いた。

 女の子は俺を見て、それから自分の脚を見た。きょとんと目を丸くした彼女は、恐る恐ると自分の脚を動かす。

 膝から下を軽く振って、振ることができることを確認して、俺を見る。


 その様子に俺は少し驚いた。普通の人間はフォースを注いだところで操ることができないと聞いていたのだけれど、どうやら彼女はそれを操って自然治癒を早めたようだ。

 痛みが少しは和らげばいいと思ってやったのだけれど、治せるのならそれが一番いい。

 女の子はしばらくきょろきょろと俺と自分の脚を交互に見ていたが、ややあって俯いた。


「……治してくれたんだ」

「えっと、実は俺もびっくりしてるんだ。普通の人は、今みたいな光に触れたところで完全には治癒できないって聞いていたから」

 不意に彼女が黙り込んだ。俺は首を傾げる。

「どうしたの?」

「当たり前だよ。だって、わたし……普通の『人』じゃないもん」


 彼女の眼光が俺を突き刺す。その瞳が先程までと違い赤く染まっているのを見て、俺は背筋がぞくっとした。

 わっと飛びかかられて、咄嗟に手で少女の胸を押す。しかし、その少女らしき生き物の力は強かった。勢いを殺すことなく地面に押し付けられる。

 少女のすべらかな頬がパキパキと音を立てる。硬質な鱗があっという間に少女の顔を覆った。

 魔族。俺は彼女の顔が鱗に覆われていくのを見て、やっと少女の正体に気がついた。


「馬鹿なやつ! 人間の子供の姿にまんまと騙されちゃってさ!」

 少女だった生き物の体が倍々に膨らんでいき、ついには虎のような姿へと変わった。魔族は剛健な手で俺の首を締め付ける。

 息ができない。混乱する頭の中、俺は必死に武器を生成しようとした。

 コアを、心臓の位置にあるコアを壊すことさえできれば。

 そう思って武器を生成しようとするが、フォースコアは全く反応しなかった。もう武器を生成するほどのフォースは残っていなかった。反射的に拳で何度も魔族の胸を殴りつける。しかし、自分の手が傷つくばかりで手応えがない。息ができない。視界が暗くなっていく。


「死ね死ね死ね死ね死ねぇッッ」

 魔族が咆哮する。それを遠くに聞きながら、俺はただひたすらに魔族の胸を殴った。

 殴って、殴って、次第にその殴打の音はぼたぼたと頼りないものになっていく。

 目の前が、暗い。夕方だというのに、世界は黒で上書きされていた。

 気づけば殴ることもできなくなっていた。手が力なく地面へと落ちる。


 死ぬのだろうか。その言葉が頭に浮かんだ。

 父さんが命を賭けて助けてくれたというのに、俺は、このまま死ぬのだろうか。

 思い出したのは、父さんが死んでからのこと。思い出したいのは父さんのことなのに、その記憶は俺の中にはなかった。あるのは、俺を見るみんなの目。異物を見るような、みんなの目。

 体から力が抜けた。目を閉じた。このまま終わってもいいかもな。諦めに似た気持ちが胸をとろとろと侵食する。

 俺がいなくなったって、世界は何も変わらないだろう。むしろ、いなくなったほうがみんな喜ぶかもしれない。

 握りしめていた手を開く。


 ――その瞬間、世界に風穴を開けるような異様な音が響き渡った。


 俺の首を締め付けていた力が弱まった。唐突に、魔族は横倒しに俺の上からあっけなく退いた。

 一気に酸素を吸い込み、がむしゃらに呼吸を整える。

 次第に明瞭になっていく視界の中、見えたのは黒い影だった。

 夕焼けの赤い光に染まった世界の中で、その影だけが妙に浮き立って見えた。

 黒い影は俺をじっと見つめていた。

 誰なんだ? 眩む視界の中、なんとか身を起こす。ゆらゆらと揺れ動く世界の中で、そいつの姿をやっと認識した。


 俺の前には魔族が立っていた。先程の虎のような姿をした魔族とは違い、今度は頭に後ろへと曲がった角を生やしていた。まるで山羊のようだ。

 真っ黒なその姿は、悪魔を連想させた。その魔族の手には、血塗られた槍が握られていた。

 俺は思わず自分の体を確かめた。怪我はない。なら、あれは誰の血だ?

 隣を見ると、そこには先程の虎の魔族が倒れ伏していた。

 地面に向かって広がる血は、確かに俺を襲った魔族から溢れ出していた。血はぶくぶくと沸騰するように、泡を吹き出している。まるで溶けていくように、虎の魔族の体は消えていった。


 黒山羊の魔族はじっと俺を見つめていた。揺れる炎のような青い瞳。

「俺を、助けたのか?」

 我になく呟く。まさか、そんなことがあるわけない。

 黒山羊はただ俺を見つめるばかりだった。感情の見えない瞳に凝視され、少し怯む。

 ふと、黒山羊がかすかに身じろぎした。


「ひーくん?」

 可憐な少女の声がした。


「え?」

 戸惑う俺に、黒山羊は近づく。思わず後ずさるが、黒山羊の魔族はそれに構わず腰を下ろし、さらに距離を詰めてくる。

「ひーくん? ひーくんですよね?」

「は? え?」

 黒山羊は感極まったように声を上ずらせる。

「よかった……! 生きてた、生きてたんですね」

 黒山羊の瞳の中の青い炎がゆらゆらと揺れる。俺には黒山羊が何を言おうとしているのかさっぱりわからない。

 なんなんだ、こいつは。

 ふいに黒山羊ががばっと両腕を広げた。そのままこちらに飛びかかってくる。思わずのけぞるが、黒山羊はそのまま俺の上に落っこちてきた。


 ぎゅうぎゅうと両腕で抱きしめられて、俺の頭は混迷を極めた。その上、黒山羊からなんとも清涼な香りがするものだから、ますます脳内が魔境じみていく。俺を抱きしめるゴツゴツした鱗まみれの魔族。しかし女の子のような声をしていて、しかもいい匂いがする。

 俺はハッと我に返った。


「ちょ……! いい加減にしてくれよ! 俺はきみ……じゃない、お前なんか知らないぞ!」

「え?」

 肩を押したら、その体はあっさりと離れた。黒山羊の魔族は青く燃える目をじっと俺に向けていた。その表情は見えない。しかし、息を飲む音は聞こえた。

「そんな……」

 か細く可憐な声が黒い鱗まみれの喉から漏れる。

「ほ、本当に、本当に私のことわかりませんか? ボコですよ、ほら、あなたが名前をつけてくれたんじゃないですか」

 何を言っているのだ、こいつは。

 鱗だらけの甲冑じみたごつい顔を近づけられて、思わずうっと呻く。


「し、知るわけないだろ! きみ……お、おまえみたいな魔族は見たことない」

 その瞬間、鱗の合間から見える青い光が揺らいだ。

 おろおろと揺れだしたその瞳を見て、俺はますます戸惑った。

「そんな……」

 黒山羊の魔族が再び口を開こうとした、その瞬間。

 鋼鉄をハンマーで打ったような鈍い音が響いた。魔族のこめかみに赤い火花が散ったのもその瞬間だった。

 魔族の頭がぐらりと揺らぐ。魔族の体がゆっくりと傾き、俺へと寄りかかってきた。


「わ、うわっ!」

 俺が魔族の体を抱きとめると、前方から声がした。

「魔族を前に何をぼけっとしているんだ、英生」

 俺が目を向けると、そこには教官がいた。銃を構えた犬成教官は、黒山羊の魔族に狙いを定めたままこちらに近づいてくる。黒い制服に青いオーバーコート姿の教官は、ブーツのつま先で黒山羊の背中を軽くつついた。

「……気絶したか。すでに弱っていたようだな」

 教官は銃を下ろすと、片手で黒山羊の魔族の肩を引っ張った。地面に転がった黒山羊は、その瞳から光を失っていた。

 教官はまじまじと黒山羊を見た後、思慮に耽るように眉をひそめた。


「こいつ……手配書で見たことがあるな」

「えっ。じゃあ、ランク上位の魔族なんですか?」

 魔族には、その危険度に応じてランクがつけられる。雑魚を示すコモングリーン、中堅のソルジャーイエロー、一匹だけでも倒すには大人数の勇者が必要なジェネラルレッド。そしてそれ以上の災害級に危険なブラッククラウン。手配書に載るようなのはソルジャーイエローの中でも上位か、それかジェネラルレッド以上の強さを持つ魔族だ。

 教官はまじまじと黒山羊を見つめた。

「いや……ランクはついていない。こいつは」

 ふいに教官が話を止めた。

 黒山羊の体から、黒い煙が漂いだす。それと同時に、鱗がパキパキと音を立てて剥がれ落ちていった。


 教官が銃を構え、俺は慌てて立ち上がった。

 黒山羊の体から煙がなくなった時、俺は目を見開いた。

 女の子。先ほどまで黒山羊がいたその場所には、全裸の少女が倒れていた。

 肌は白くなめらかで、神々しいほどだった。その髪は黒く長かった。肩に垂れているそれは胸まで続き、その先端を覆い隠していた。

 まつ毛が長い。子供が一番天使に近い時期を象ったかのような顔だ。平時だったら、思わずため息をつきたくなるほと美しい。

「きょ、教官、これって……」

 魔族が人に化ける、というのは知っていた。でも、この少女は気絶してから変身したのだ。自分の意思からではない。

 教官は何か考え込むように少女を見つめていた。ややあって、教官が左腕につけたフォースメモリの通信機能を呼び出した。


「すぐに研究部長に繋いでくれ。……被検体〇五三二を見つけた」

 俺はそれが何を意味するのかわからず、ただただ裸の少女と教官を見比べていた。

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