地震で思い出すこと
本稿は2024年1月に記したものです。
ここでは令和6年能登半島地震と東日本大震災について書いています。見たくない方は見ないようにしてください。
また、今回の地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
元旦からとんでもないことになってしまった。
バリバリ個人情報を晒すが、私は現在石川県金沢市に住んでいる。幸いなことに自宅やその周辺に大きな被害はなく、今のところ以前通りの生活を送れている。まさか人生で二度もこんな大きな地震に遭うとは思わなかったが。
本震の数分前に、震度2か3程度の地震があった。また能登震源かな…正月早々嫌になるな…と思いながら、スマホで情報を見ている時だった。また、揺れが来た。緊急地震速報のアラームが鳴る。強さ自体は先ほどとさほど変わらないのだが、なかなか収まらない。長いな、これさらに強いのくるか…?と身構えたら、ガタガタと強く揺れだした。身体が一気に警戒モードになる。ベランダのガラス戸を開け、冷蔵庫の上に置いていた電子レンジが落ちそうになったので、慌てて支える。1分ほど揺れていただろうか。揺れが落ち着いてから震える手でスマホを開く。最大震度7、日本海沿岸すべてに出された津波警報、明らかに異常事態だと分かるような情報が飛び込んできた。家の中は全くもって無事だったので、とりあえずLINEとTwitter(現X)で身近な人間には無事の報告をし、一応食料品だけでも買っておこうと外に出た。道路も特に変わった様子はなく、コンビニに向かったところ何人かが食料を買い込んでいる様子が伺えた。元旦でスーパーもドラッグストアも営業していない中、働いてくれているコンビニの店員さんには頭が下がる思いがした。いつもより大きい声でお礼を言った。ついでに近所をぐるっと歩いてみたが、目立った異常は見つからなかった。近所の消防署では自宅で休んでいただろう消防隊員の方が集まっていた。家に帰ってYoutubeを開きニュース番組のライブ放送をつけっぱなしにする。同時にTwitterでも情報を眺める。被害は思っていた以上に甚大で、能登半島側はもちろん、同じ金沢市内や県外まで大きな被害があったことが分かった。一応風呂場に水を貯めた。近所の自衛隊基地からは、ヘリコプターが飛んでいく音がひっきりなしに聞こえてくる。大変なことになった、そのざわつきでなかなか眠る気にもなれず、深夜2時ごろまでだらだらと起きていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なんでこんなにざわつくか。それは2011年3月11日東日本大震災の記憶が思い起こされるからだろう。
当時私は中学2年生で、宮城県仙台市に住んでいた。確か本震2日前の3月9日、震度5弱程度の大きめな地震があった。その時学校内におり慌てていた先生の様子と、翌日の新聞でも地震について取り上げられ、南三陸で養殖していた牡蠣がダメになったという記事を読んで残念に思ったのが少し記憶にある。
本震発生当時の3月11日14時46分、私は翌日行われる卒業式の準備で学校の体育館にいた。部活動ごとに分担して準備をしていて、私は部活の友人数名とバルコニーに上がり紅白幕を結んでいた。そして、地震発生。立っていられないほどの揺れが、数分にわたり続いた。友人たちとしゃがんで抱きあい、揺れが収まるのを待った。とてつもなく長い時間に感じられた。すぐ上の窓ガラスは今にも割れそうなほどガタガタと音を立てていた。1階に並べられていたパイプ椅子がぐしゃぐしゃと揺れ、せっかく綺麗に並べていたのにな…と見当違いのことを思った。一旦揺れが収まり、校庭に避難した。その間も余震は止まらず、今揺れているかいないのか分からなくなるほどだった。ラジオか何かで情報を集めていたらしい先生から、今回の地震はずっと想定されていた宮城県沖地震ではないと聞かされ、さらに絶望した。(宮城県では宮城県沖地震という大きな地震が30年のうちに高い確率で起こると言われ続けており、今がそのちょうど30年目にあたる、というような話を理科の先生からたびたび言われていた。)当然それよりももっともっと大変な事態になっていたのだが、そんなことは知る由もなくこれよりひどいのが起きる可能性があるのか…?とその時は思った。トイレの列に並んでいる際、先生方が近所のしまむらの天井が落ちたらしい、と話しているのを聞いた。先生方が校舎内から荷物を運び出してくれて、その日は一旦下校となった。近所の友人数名と一緒に歩いて帰った。道中のブロック塀が崩れていたり、踏切の手前で電車が止まっていたり、明らかに日常とは違う風景があった。家族は全員無事だった。
家の中は本棚や食器棚が倒れるなどの被害があったが、生活する分には困らない程度ではあった。電気は止まっていたが、幸いなことに水道は無事だった。近所の小学校が給水所になっていたので、他の住宅では断水していたようだった。母が物置に置いてあった灯油ストーブを引っ張り出していたのでそれで暖を取り、お湯を沸かした。懐中電灯やランタンで明るさを確保した。何かのおまけについていたアザラシの形の小さなライトがあったのでそれも出したが、あまりにもカラフルに光って落ち着かないのですぐ使うのをやめた。飼っていた犬が外でしか用を足せないので、散歩に連れ出した。いつもの散歩ルートも、家の明かりはなく電柱が傾いているなど、異様な風景だった。母が冷凍の肉がダメになるからと、肉野菜炒めを作ってくれた。あと鍋でご飯を炊く家だったので白ご飯も食べられた。あまりにも普通の夜ごはんだった。家族の地震発生当時の状況は以下の通りだったらしい。
小1妹:家に一人で机の下に隠れていた(えらい、えらすぎる)
小5弟:学校におり友人らと帰宅
母:車で移動中
父:大学(職場)におり400万円と800万円の実験機器が倒れないよう支えていた
夜は洗面台で頭を洗い、手回しで発電できる防災ラジオで情報を聞いた。沿岸部の津波の被害は相当なようで、死者は百人単位に上るという話だった。ただ、この時はまだ被害が宮城県内だけで起きていると思っていた。家の外から母が出て来いと呼ぶので外に出てみたら、冷え切った夜だったが空は澄み渡り、プラネタリウムばりの星空が広がっていた。あの光景は今でも忘れられない。空はこんなに綺麗なのに、この空の下では大変なことが起きてるんだ。そのことが妙に落ち着かなかった。夜はいつもなら自分の部屋で寝るのだが、数年ぶりに家族全員同じ部屋で寝た。
2日目。同じ市内に住んでいた祖父母を母が連れてきた。電話も通じにくいからと、近所の同級生が卒業式の延期を教えにきてくれたので、一緒に近所を回り伝えに行った。またそのうちの一人が、両親が県警に勤めており不在だったので家に泊まりにきた。トランプで遊んだり、まるでお泊まり会のようになった。近所のコンビニやスーパーは長蛇の列で、近所の人らと食料を分け合ったりした。本当に、本当に幸運なことに、電気がない以外は普段とそこまで変わらない日常を送れていた。
3日目。街中は電気が復活したと聞き、車ででかけた。人通りもなく閑散としており、ほとんどの店が閉まっていた。駅前の百貨店の看板が落下していた。移動販売の車で卵1パックだけ買い、知り合いのところでゲーム機を充電させてもらった。自分らの家まで電気が回復したのはその日の晩だったが、寝る直前だったので覚えていない。
4日目。朝起きてテレビがついていたので、昨日の夜電気がついていたのは夢ではなかったんだ、と気づく。テレビでは沿岸部の津波の様子、そして福島の原発事故の様子が報道されていた。映る光景はあまりにも現実離れしていて、自分のところから何百キロも離れていない先でこんなことが起きているなんて全く想像もできなかった。電気が通って、我が家はオール電化だったのでお風呂にも入れるようになった。たしかガスの復旧は1か月ほどかかっていた気がする。
そこから春休みを前倒しするような形で2週間ほど学校は休みになり、暇を持て余しすぎて友人とネットのチャットルームでおしゃべり(当時はスマホも持っていなかったしLINEもなかった)したり、隆盛期だったニコニコ動画を見ていたり、ACのCM(かのぽぽぽぽーんやこだまでしょうかのやつね)のモノマネをして遊んで過ごした。
学校が再開してからは、卒業式があり体育館の時計があの時間で止まっていたのを見てキュッとなったり。
朝礼や行事の時には必ず黙祷を行ったり。
合唱コンクールの時に、復興の歌を歌わせられたり。
そんなことをしているうちにだんだんと、あの地震が過去のものへとなっていった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
…のだが。
今書いてきたように、あの頃の記憶はずっと鮮明に残っていることが分かった。地震が来るとほぼ条件反射のように自分の中で厳重警戒モードのスイッチが入ることも、逃げ道を確保するために部屋のドアを開けておくことも、断水に備えてお風呂に水をためておくことも、全部あの頃の記憶と経験がそうさせたんだろう。
北陸は地震が少ないから、こっちの人との意識の違いを感じることもあった。数年前から能登で大きな地震のニュースが出ると両親や祖父母から安否確認の連絡があったし、会社の人は大阪の知り合いから同様の連絡が来たという。逆に、知り合いの実家が能登にあるのだが、大丈夫だったか連絡しなくてもいいのかと聞いても、大丈夫っしょ!と特に連絡をする様子もなかった。東北人もおそらく関西人も、大きな震災を経験している分より最悪の事態を想定するし心配する。私にとってそれは普通のことだが、北陸の人がそれを大げさだ、と言うのも聞いて、経験があるかないかでこんなに考えが違うのかと少しショックだった。
ニュースで流れ続ける被災地の様子には、本当に胸が痛む。早く救われてほしいと願うことしかできない。また羽田空港での飛行機事故、海上保安庁の航空機はあの時仙台空港にいた機体の唯一の生き残りだったと聞き、涙がこぼれてしまった。
そして今になって分かったのは、あの時にそれほど大変な思いをしなくて済んだのは、多くの人の力があってこそのことだったということ。守ってくれた両親、支えあった近所の人や友人、インフラや物流関係の方々、自衛隊や消防隊など方々、全国から助けに来てくれた方々、本当にたくさんの人が尽力してくださったからこそ、あの日々を過ごすことができたのだと思う。そして今も私が普通の生活を送れているのも同様で、本当に頭が下がる思いだ。
だから、今は助ける側になりたい。あの時の恩返しをしたい。まだ一個人がどうにかできる状況ではないけれど、必ず何らかの形で力になりたい。そう思っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます