第5話
郁と別れ、五時間目六時間目の授業が終わると、流花は早々と荷物をまとめて教室を出た。
帰宅部で放課後はフリーなので、そのまま三年の教室のあたりをうろついた。放課後は大体皆部活があるため、下級生が三年生の教室のあたりを歩いていてもあまり疑われない。流花は郁から聞いていた三年二組の教室の入口に近づいた。郁の所属するバレーボール部は市内大会でも好成績の強豪チームらしく、上下関係も厳しいので体調不良でもなければ部活を休むのは難しい風潮らしい。
そのため、初日の今日はとりあえず流花が一人で敵情視察することにした。まだ、郁が言っていたように小野寺朔がタコらしきものに擬態されているのかは定かではないが。
教室の中を覗いてみると、まだ半数以上の三年生が残っているようだった。その中で、一際まわりとは違うオーラを放っている人物がいた。流花は郁の言うオーラや光はよく分からない。多分、それらのオーラとは違い、単にクラスのヒエラルキーの上部に位置しており、誰からも信頼や尊敬などを一心に集めているからだろう。クラスの数人から同時に話をされて、曇りなき笑顔で頷きながら多方面にわたって言葉を交わしている。令和の聖徳太子たる存在がそこに居た。
『兄はまわりから見れば完璧で、先生たちからの信頼も厚く、友人たちからも一目置かれています。だけど―――』
まわりの雑音で気づかれないはずが、いつの間にか小野寺朔はこちらに視線を向けていた。その目には訝し気や驚いたような色は全くなく、無機質なものに向けるような無の色が宿っていた。
その表情に、流花は見覚えがあった。
小野寺朔は友人たちに断り、こちらに近づいてきた。
「……初めまして。郁から何か言われてここに来た?」
「何もかも、お見通しなんですね」
「いや、僕は何も知らないよ。君のことも誰かも知らない。ただ、この子が君が郁と何か話す映像を流してくれているから」
とんとん、と頭のあたりを指で触れた。
相変わらず、同じ人間を見る光を宿していない。道具のような、死のうが生きようがどうでもいいという突き放したかのような感情を張り付けている。
そう、以前の久我志苑がニーナさんを見下ろしている時と同じ―――
「失礼ですけど、小野寺先輩は、久我志苑をご存じですか?」
「それは、今売り出し中の俳優の方の彼ってわけじゃないよね?エリスの方の、彼の方かな?」
「エリス……?」
「あれ?そのことを知っていたから僕の方に来たんじゃないの?まぁ、いいや。君とずっと話していると副会長とかクラスの女子たちが君に何をするか分からないからね。場所を変えよう。僕はこれから生徒会の打ち合わせがあるから、郁が帰ってくる前に話をしようか。駅から少し離れたところにさざなみ食堂っていう小さな食堂があるから、そこで」
「分かりました」
流花が話し終わる前に、小野寺朔は踵を返して戻っていった。取り巻いていた女生徒たちが睨むようにこちらを見つめている。流花は標的にされる前に、急いでその場を離れた。
流花は急いで家に戻り、洗濯物を片付けて、風呂掃除をした。夜ごはんの準備としてホイルにパターを塗り、鮭を敷いた。その上にたまねぎとしめじをふんだんに詰め込んで封をした。小野寺朔の話がどれくらい掛かるか分からなかったので、帰ってきてすぐに蒸し焼きだけをすれば出来上がるようにしておく。あとは、穂乃果さんに色々と詮索されないよう、そんなに遅くならないようにしたい。炊飯器の予約のスイッチを入れて、流花は家を出た。
六時前に駅の近くを一人で歩くというのがとても新鮮だった。駅の向こう側にあるレインボー商店街から夕飯の食材や惣菜などの袋を持った人たちとすれ違う。すれ違う際に、ふわっと揚げたての衣の美味しそうな匂いが鼻孔をくすぐった。最近、片付けが面倒なので揚げ物を作っていなかったが、たまにはコロッケやとんかつなどをがつっと揚げて穂乃果さんとカロリー無視の揚げ物パーティなんかを週末にでも開催したい、と思う。
そう考えると、重い足取りだったのが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
駅から離れた場所にこじんまりとしたさざなみ食堂はあった。ただ、開店が午後六時からになっていて、まだ準備中の札が入り口に掛かっている。
(まだ十五分くらい時間があるかな……)
流花はふうっと息を吐くと、そのまま軒下で待つことにした。すると、ゆっくりと食堂の引き戸が開かれ、ぎょろっとした目の老人がこちらを見やった。あまりの眼光の鋭さに、流花は目をそらすことが出来ず、そのまましばし見つめあっていた。
「朔の知り合いだろう。もう少しで来るだろうから、中で待っていなさい」
「あ、はい」
開店の前の店に入るのが初めてのことで、流花は何だかそわそわと落ち着かなかった。奥の二人掛けの席に案内された後も、壁一面に貼られたお品書きの紙をせわしなく目玉を動かして眺めていた。それほど、何かしていないと気持ちを整えることが出来そうになかったからだ。
気づくと、先ほどの老人が流花の目の前にとん、と湯呑を置いた。ほうじ茶の香ばしい香りが漂っている。
「……ありがとうございます」
老人はこくっと小さく顎で返事をすると、すぐに厨房に戻っていった。
普段から、湯呑でお茶を飲む機会がなく、どうしても温かいお茶を飲みたい時は30パックのティーパックが入った緑茶などを普通のマグカップで飲んだりしている。それはきちんとしたお茶の香りや味を味わう行為ではない、と人知れず感じていた。目の前のほうじ茶はきちんと急須で淹れられた香りがする。ふーふーと息を吹きかけてゆっくりとお茶を口にする。ふわっと一気に体中にあたたかさが行きわたり、緊張感がすうっと抜けるようだった。
がらら
引き戸が開き、小野寺朔が姿を見せた。六時五分前だ。
「おじさん、開店前にごめんなさい。混む前に、お暇するから」
「今夜もご飯を食べていきな。今日は活きのいいアジが手に入ったから」
「あ、磯村水産の?あそこの魚、美味しいから大好きなんだ。郁も覗くようなら、頂いて行こうかな」
にこにこと笑みを浮かべながら小野寺朔は流花の目の前に座った。
「ごめん、ちょっと遅くなった。生徒会の会議が思いのほか長引いてね」
「いえ、私も少し前に来たので」
「樋浦さんは、優しいね。ほうじ茶、大分ぬるくなってるよ」
「……名前、言いましたっけ?」
「生徒会の権威で調べた。二年生の樋浦流花さん。郁とは何の関わりもない。だけど、唯一の共通項として、皆、あの時の奇怪な戦闘を覚えていること」
「……小野寺先輩もですか?」
「まぁ、僕にいるのが〈黙示〉のエリスだからね。同じエリス……ただ、久我志苑は上位のエリスだから、中位や下位のエリスたちは必然的に彼らの動きを見ていなければならないんだよ」
「―――ごめんなさい、まずは、その、エリスっていうのがよく分からなくて」
「あ、そっか。そこから話さないといけないよね。エリスっていうのは、樋浦さんも見ていたあのタコの化け物だよ。あ、痛い。化け物って言い方は良くなかったよね。彼らは僕たち人間に擬態して生きている、生命体だよ。だけど、基本的に彼らは無害だ。無害、のはずなんだけど、擬態した人間の悪意や本性にあてられて、その無害な気性が悪い方向に増幅されて、前みたいに暴走してしまうことがあるんだ。それを止めるのが魔女っ子として選出された新見ニーナで、その戦闘を見守るのが〈審判〉のエリスの久我志苑というわけなんだ」
「一気に、SFな展開過ぎて、頭がついていけないんですが……」
「君だって、あの戦闘で新見ニーナにくっついて力を与えていたりしたじゃないか。そして、記憶は残り、その記憶を頼りに新見ニーナを探している。君の方が当初の僕よりずっとこの事態に順応出来ていると思うよ?」
眉を寄せる流花に、小野寺朔は不気味なくらいににっこりと笑みを浮かべている。
「そのことを、郁ちゃんに話していないんですか?彼女、あの戦闘で小野寺先輩の擬態しているその、エリスって存在が見えてしまったそうで、私に相談してきたんです」
「あーそういうことだったのか。僕に直接言ってくれればいいのに」
「言えるわけないでしょう!」
がらがらっと勢いよく引き戸が開き、両眉を吊り上げた小野寺郁が立っていた。そして、そのままずかずかと大股でこちらに近づいてきて、手のひらをばんっとテーブルに叩きつけた。
「頭からうにょうにょと変な触手はうねってるし、一人で何かと楽しそうに会話しているし、変なものに脳を乗っ取られておかしくなっている兄に、怖くてそんなこと聞けるわけないじゃない!」
「乗っ取られているわけじゃないよ。この子、僕は密かにエリーって呼んでいるんだけど何か体に悪い影響を与えるわけじゃないし、むしろ、人間の奥底に眠る真意みたいなものを浮き彫りにしてくれるから、とても有難く思っているんだよ」
「人間の、真意ですか……?」
「そう、例えば、樋浦さんは今僕のことを頭のおかしい人だと思っているし、全く信用していない。郁はバレーボール部で先輩部員から執拗な嫌がらせを受けていて、絶対屈するもんかって怒りで頭から蒸気なようなものが出ている。そして、めちゃくちゃお腹が空いている。どう?当たってるだろう?」
流花と郁はぽかーんと口を開けたまま、楽観的に話す小野寺朔を見つめた。郁はテーブルの上の手をぐっと握ると、
「そうよ、私は怒ってるのよ!めちゃくちゃ腹立って、体力気力を消耗して、お兄ちゃんや樋浦先輩と違って動きまくってるからすっごくお腹が空いてるの!」
と叫んだ。
(もしかして、郁ちゃんってお腹がすくと地が出るタイプ?)
流花は目の前の郁を見ながら思っていたが、それよりも心の中で思っていたことを見事に当ててきた小野寺朔に驚きを隠せなかった。
「どうせ帰ったってろくなご飯が用意されていないんだから、たくさん食べて帰ろう!お兄ちゃんもそうするでしょう?」
「元からそのつもりだよ。今日はアジが美味しいらしい。おじさん、アジフライ定食とか注文してもいいかな?」
厨房にいたおじさんは何も言わず、ぐっと親指を立ててきた。
「樋浦先輩はどうします?」
「んー夕食は用意してきちゃったしなぁ。鮭のホイル焼き、あとは帰って焼くだけだから」
「へぇ、樋浦さん、ご飯作れるんだ?」
「おばさんと二人暮らしなんで。主に私がご飯担当です。お弁当はおばさんが頑張って作ってくれますけど」
「……いいなぁ、ちゃんと愛してくれるおばさんがいて」
頬杖をつきながら、郁はぼそっとそう呟いた。
「大丈夫だよ。エリーがいるから、あいつももう怖くない。僕がいずれあいつを家から追い出してやるから」
笑顔でそんな物騒なことをさらっと呟く小野寺朔に、流花は何も言えなかった。
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